7話 :私はリーダーによって生かされている (三日目 朝)
ここにいる私に芽生えた、小さな幸せの時間。
水が気持ちいい。
小さな明りが灯った水面。体が浮かぶ。外の冷たい空気を顔で受け止める。水面が程よく揺れて岸の方まで誘われる。前髪を掻き分けると自分の体の傷がはっきりと見えた。昔の事の様でついさっきできた傷。その傷に水が染みてヒリヒリする。岸の方に頭を付けて体を任せる。隠れるというのは難しい。その間に何も分からないまま潰されるかもしれない。耳に入る水も気持ちいい。母のお腹の中の様だ。
何一つ安心出来ない。
みんなのことは一つも分からない。ここがどこなのか、家からどれだけ離れたのかも検討が付かない。というか、地形が変わり過ぎてもう何処がどこなのかも分からない。
逃げ出した。
この音が鳴りやむことはない。鼓膜を直してもまた直ぐに壊れる。そうしてすぐに問題に直面する。
逃げ出した私が助かる。
真っ向から直面した人が潰される。
水面から顔を上げた時には物体は何事もなかったかのように宇宙の方に戻っていった。なぜあの物体が動いているのか分からなかった。震えを抑えて岸まで泳いだ。暖を取っている暇はなかった。濡れた体のまま探しに行こうとするのを彼に止められた。
女王「やっぱりここにいたか」
ルカ「…リーダー」
やっぱり。この足音を私が忘れるわけない。すり足なのかちゃんと歩けてるのかいまいちわからない歩き方。リーダーの付けている香水は私も欲しかった。でも付けると今度は私をリーダーと間違える人が出るので止めた。
ザッ……ザッ……。
綺麗な土踏まずを持っているのに歩き方自体はそうでもない。今日は雪が積もっているせいか余計にそこが目立った。
「「…………」」
高圧的でも献身的でもない。手が届く距離にリーダーがいる。私からは何もしなくていい距離。リーダーからも何もしてこない距離。
女王「この寒い中こんなところにいるんじゃない。迷惑をかけるな」
そこにいたのは女王だった。髪を掻き分けながら入り組んだ場所にあるこの泉に姿を現す。既にバレていたのだ。
女王「気付いてないと思ったのか?帰るぞ」
ルカ「何処にですか?家はもう何処にあるかも分からなくなって……それで」
女王「甘えるな。私たちが帰るのはキャンプ地だ。家になんか二度と戻れないと思え」
女王「そんな甘えたことは言うんじゃない」
ルカ「……はい」
親に手を引かれる子供の様に集団のキャンプ地まで戻る。濡れた体を布切れで拭き取る。よく見ると体中に独特のアザが刻まれていた。時間が経つとはっきり出てきて水が徐々に中に染み込んでいく。
ルカ「……」
笑うだけでいい。喋りはいらない。まるで肩をすくめるようにして笑っていた。第三次性徴期には個人差があるため、いつ起きるか分からない。
女王「お前はもうなったのか?」
ルカ「はい。私は丁度雲の開けた日に」
女王「そうか……あの日に第三次性徴が起こっていたのはお前だったのか」
女王「と言う事はお前は見てきたのか、宇宙を」
女王「お前の目にはどう映ったんだ?」
ルカ「ええ、想像とも違った世界でした。私たちはきっと飼われているんですよ……」
女王「どういうことだ?」
ルカ「まあ……ただの私の思い込みですから」
女王「そうか……お前はあまり自分を出さないんだな」
ルカ「?」
女王「臭いな……取り敢えず体を拭け」
リーダーは羽織っていた毛布を捲った。昔テントで使っていたのと同じ柄だ。こんな模様中々売ってないだろうし相当物持ちが良いな。
というか背中のは毛布だったのか。私が受け取った毛布の上に水滴が落ちる。一つ、また一つと落ちてシミになる。
女王「……どうした?」
自分でも分からない。ただ、どうしてリーダーがここにいるのか、ここまで来てくれたのかを考えていたら込み上げるものがあった。
ルカ「…………っつ」
泣いている。涙がこぼれている。私はつくづく良く泣いていると思う。小さい頃からそんなに泣き虫でもなかったけど泣くことが多い。そういえば足元にもこんな色の染みが出来ていた。体を動かさなかったからこんなことになっていた。
女王「お前、冷たいな」
ルカ「…………」
女王「何かいるか?」
檻の中にリーダーの手が入って来る。伸びてくる。これは救いの手なのか、はたまた。そして私の頬に軽く当たる。柔らかいけどその実しっかりしている。芯が通っているのを感じる。2,3回当たったその手は何十に重ねた毛布よりも暖かかく感じた。
ルカ「……」
女王「何も食べていないのか?」
直ぐに言葉が出ない私から特に返事を待つわけでもない。でもその素振りの一つ一つが私を見ている。私の元に動いている。彼女は私の事を忘れてはいなかった。近くには紙袋も置いてある。辺りの雪が無くなっているから恐らく中には温かいものが入っているのか。その中にはおかゆが入っていた。取り出されたおかゆは湯気を漂わせ真ん中には梅干しが一つ置いてある。作りたてなのだろう。ここの近くに調理出来る場所があったのか。
女王「はい、あーん」
ルカ「…………」
女王「ちゃんと口を開けろ。食べさせてやらないぞ」
ルカ「……あーん」
女王「よしよし、それで良い」
小ぶりの器からレンゲですくい上げゆっくりと私の口元まで運ばれて来る。空腹はやっぱり最高の調味料。おかゆ自体の優しい味と梅干しのアクセントが体に染みてくる。二口目にはまともに言葉が出るようになった。熱々でホカホカで食べるだけで元気が出てくる。三口目にはリーダーからレンゲを借りて自分で食べ始め、直ぐにおかゆはなくなった。
女王「良く食べるな。案外元気じゃないか」
女王「私は半分も食えないかと思っていたんだが」
器を見て感心する。口の中がまだ熱くて言葉が出ない。その分美味しさが舌の上に残る。こんな美味しいのを食べられるのなら食べないのも悪くはない。ひもじくて肌も荒れて匂いも強くなるけど。
ルカ「……ご馳走様でした」
おかゆを食べたせいか体のかゆい部分が自分でも分かる様になってくる。いかに体を洗っていないのか思い知る。身体を掻こうにも目の前にはリーダーが座っている。別にいいんだけど今のリーダーの前だと何もする気が出てこない。私とリーダーが強烈に比較されているみたい。今の私はまるで試されているかの如く薄ら寒い。どこでこんな差が付いてしまったのだろう。
女王「まだ食べるか?一週間分くらいはあるけど」
女王「他の味も作って来たぞ」
ルカ「あの……着替えもお願いします」
女王「はいはい」
紙袋の中から材料を取り出す。何でも出てくる不思議な紙袋。紙袋をゴソゴソしていてもリーダーはかっこいい。それは昔から変わらない。でも今はそこに優しさも加わっている。私が着替えを欲しているのを見透かされているみたいで嫌だったから自分から言った。
ルカ「……あと見た目の事は気にしないで下さい」
女王「今更か……分かってる」
女王「ほら、着替え」
そういうとリーダーは袋を傾けて中を見せてきた。中には数日分の着替えが詰め込まれていた。恐らくリーダーのお下がりで少し小さいだろうけど今の私には喉から手が出る程欲しかった。
ルカ「私じゃ入らないかもしれません」
女王「いいから着てろ。文句言うな」
無意味な強がり。でもリーダーはお構いなしに私を着替えさせる。黙々とやってくれているがあの頃のような無表情という訳でもない。
女王「重ね着すればそんなに寒くないだろ?」
女王「そんな汚い毛布に包まってないでさっさとこっちに来てくれ」
女王「というか、来い」
差し出された手は力強い。柔らかさを感じさせるより前に強さを芯から感じる。
ルカ「リーダーはどうなんですか?」
ルカ「ここに来たと言う事はやっぱりそれなりの事があって……」
女王「詮索するな。深追いするな。」
女王「漆原がお前のことを心配していた」
ルカ「…………」
女王「お前はあいつと同じくらいに入ってきて丁度辛い時期だったろうからあいつもお前の事を気にしてる」
女王「お前がしているのと同じように」
ルカ「私は別に……」
不思議な縁だ。あの時ばったりあったあの人がリーダーとこんな関係になっている。向こうも不思議がっているだろう。私の鼻もまだ捨てたもんじゃないな。
女王「そのお礼って意味もあった。今あいつは手が離せないから」
覗き込んできた彼女の顔は思ったより整っている。思わず見とれてしまう。だが咄嗟に顔を離し距離を取る。
女王「お前と出会ったことには感謝しているよ」
突然のその発言。私は意表を突かれて上手く反応が出来ない。固まったままの私。明らかに女王の方が一枚上手だった。
ルカ「彼は……具体的に何をしているんですか?」
女王「掃除や洗濯、追加のテントの設営。その他私の身の回りの全てだ」
ルカ「それなら別で人に頼めばいいんじゃないですか。何も漆原さんでなくても」
私はいまいち拭い去れない疑問を聞いてみる。彼ならそういう雑用を喜んでやってしまいそうだが。私ならほとんどまかせっきりになってしまう。率先してこなす彼とどんどん何もしなくなる私。私がただのダメ人間になり下がるだけだ。隣に座ったリーダーは足を組み直して私の質問に答える。
女王「確かに今話した部分はそうだが、彼には私が不在の時に集団の指揮を執る役割がある。そしてそれは彼にしか出来ない」
女王「それに……」
ルカ「他にもまだ何かあるんですか?」
女王「一杯あるさ。数え始めたら終わらないくらいだが」
ルカ「本当に漆原さんの事をよく見ているんですね」
女王「あいつには助けてもらっているしな。その恩は返さないと」
深刻そうな表情。一回大きく俯いた後に体を仰け反らせる。彼女なりの背伸びなのだろうか。机には丸めた書類が散乱している。上手くいかないことが残っているとその机が物語っていた。手作りの机。何かあった時のために食べられる素材で作ってある。お湯を掛けると美味しそうな匂いがするらしい。リーダーはそのまま上を向いて言葉を続ける。
女王「あんなに純粋に飛んでみたいと言ってきた奴はあいつが初めてだった」
女王「純粋に……飛んでみたい」
女王「力がなくてもそれを願ってやろうとしたんだ」
女王「漆原の真っ直ぐな目を見ているとこっちまでほだされそうになるよ」
女王「……ルカはどう思う?」
飛ぶ。
そもそも人間には備わっていない力。今まで不要だったから私たちの体には残っていないから付けるのだ。多くの人が雲の向こうへ行くことを望む中で様々な道具が開発されてきた。それでも分かって来たのはどうやっても雲は抜けられないという事実だった。雲を現行の最高速度で突き抜けたとしても数十年かかるという事実。それ以降そう言った開発は姿を消した。それなのに雲の上まで行くことを諦めない人は多い。
女王「それはそうとして、あいつの瞳には曇りも迷いも無かった」
ルカ「漆原さんですか?」
女王「この世界でも彼は一人前に生きている」
女王「…………」
ルカ「……何ですか?」
女王「ルカはどうなんだってことだ」
女王「今のお前はおかしいぞ。こんな場所でうす汚い恰好をして、体も洗ってないだろ」
ルカ「まあ、そうですけど」
女王「まともに暮らしてないだろ。投げやりに時間を潰しているだけだろ?」
ルカ「それがどうしたっていうんですか。この世界に生まれた時点で失敗したようなもんでしょ」
女王「屁理屈を言うんじゃない」
女王「それなら漆原はどうなる?あいつはお前みたいになっているか?」
ルカ「それは私には分かりませんけど」
女王「それに加えてどうだ?お前の目は腐っているぞ」
ルカ「気にしないで下さい」
女王「気になるから言ってるんだ」
女王「そんな目では自分の事もまともに見れないじゃないか」
女王「私の事はちゃんと見えているのか?私は誰だ、言ってみろ」
ルカ「答えられないですよ…」
女王「……そうか」