第9話 ひとときの夢
竜に選ばれたパートナーとの間には特別な絆が生まれる。
お互いの心と存在を誰よりも身近に感じられるようになるのだ。
だから気付いた。
彼女から流れてくる暖かな感情を。喜びを。親愛を。
自分ではない誰かから、彼女がそれを感じていることを。
それは嫉妬などという生易しい感情ではなく、まるで嵐のような激しい怒りだった。
自分の竜にそんなものを与えられたものを、彼女は憎む。そして、許さなかった。
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(ふう、やっとヒールリッドから逃げられたかな)
ルエンはきょろきょろとあたりを伺いながら、慣れた庭園の隠された道を小走りに駆けてゆく。
今日のルエンは模範的な生徒だった。…彼が思う限りは。
朝から寝坊もせず、きちんとした時間に食事をとり、眠くなる勉強をなんとかこなし、倒れる寸前まで剣術の鍛錬をしてみせた。ヒールリッドのたてた予定をきっちりこなし、彼から関心される……はずだったのだが。やはり長年ルエンに付いていただけあって、彼にはぴんとくるものがあったのだろう。絶えず気難しげな顔をしてルエンのそばに付き添っており、決してそばからはなれようとしなかった。初めは自分の真面目さに感心しているのだと、楽観視していたルエンもそれが見張りだと気付くのに時間はかからなかった。
絶対に何かある。
確信をもってルエンを見張るヒールリッドは隙がなく、今日ほど彼から逃げ出すことに苦労しない日はなかっただろう。
(なんとか、時間には間に合いそうだな)
ルエンは走るスピードをあげ、庭を横切り厩舎を誰にも見つからぬよう横切り、そこに続く森へと入っていく。そこには彼の愛馬のシェスタが今か今かと待っていた。そしてルエンの姿を見つけると心得たとばかりに彼を背に乗せ、目的の場所へと急ぐ。
(ランバートは待っていてくれるかな)
昨日の別れ際、ランバートは自分が一緒にいるならば竜に会ってもいいと言ってくれた。ただ、これはあくまでも自分の独断だから、誰にも知られないようにという忠告付きで。
本来なら、ルエンにメディサと会わせることなど続けてはいけないのだろうが、どうやら原因はメディサにあるらしく、彼女がルエンに会うと強く主張したようなのだ。説得を断念したランバートがつけた条件は、会うのは午後の太陽が昇り切り、夕方に向かう二の刻の頃だけ。その時間ならランバートも訓練などから抜け出すことができるらしく、メディサたちの自由時間でもあるという。もし、ルエンがそのときに現れなければ、その日はもう会うことはできず次の日に持ち越しとなる。竜に会いたければルエンが何とか時間を作らねばいけないが、それは自分の立場などを説明できないルエンにとってもありがたい話だった。
「ブルル……」
「ありがとう、シェスタ」
待ち合わせの場所である、森の湖のそばでルエンはシェスタから降りる。メディサがシェスタを襲わないとはいえ、やはり馬であるシェスタは竜に恐怖を抱くらしく、こうやって少し離れた場所で待っていてもらうことにしたのだ。
バサリ……
ちょうどよく空から聞こえた力強い羽音。
ルエンは湖へと足早に向かっていたときだ。
湖から降りてくる赤い影。
メディサだとルエンは瞳を輝かせて、空を見上げたときだった。
同時に広がる黒い衣。
それがなんだと理解する前に、それはルエンへ一直線に降りてくる。
「がはっ……!!!」
腹に一撃をくらい、ルエンはその場に倒され同時に体は地面に縫い付けられるよう抑えられた。なんだと言葉を発しようとした喉を手で押さえつけられ、ルエンはごふりと息を吐いた。
(いったい何がっ……)
自分を抑えこんでいる者の顔を見ようとするのだが、太陽を背にしているためそれを確認することができない。抵抗しようにも、相手の体は全体重をもってルエンを押さえつけており、手足を動かすこともままならなかった。
苦しいと、動かぬ唇の訴えを感じ取ったのか、その人物はふっと小さく嘲るように笑う。己の体が他人によって思い通りに動かなくなる。それはルエンにとって初めての感覚で、じわりと他人の何かが自分の体を浸食してくるような、背筋の寒くなるような気味の悪いものだった。それが恐怖という言葉だと気付いたルエンの顔を見て、「彼女」は笑った。
嘲るように。
「わが竜を手なずけたのはどんな者かと思えば、女一人に抵抗すらできない軟弱者とはな。お前の趣味は相当悪いと思うぞ、メディサ」
「グゥゥゥ!!!」
「ふん、怒っているのか? ならばお前もわかるだろう? 私がどんなに今、不愉快でいるのかを!」
メディサの反論する唸り声を、彼女は鼻を鳴らして一蹴する。
竜を相手に一歩も引かぬ態度、そしてそれをできる実力と資格をもつ者。
ある人物の名前がルエンの頭をよぎり、彼は違う意味でさっと顔を青くした。彼女はそれを見て、笑みを深め……より一層首にかけている手の力を込めていく。ぎゃぁっと竜が嘶いた。パートナーである竜の声に彼女が顔をあげ、睨みつける。その時ようやく彼女の顔がはっきりと見えた。
怒りの燃えた紅の瞳。
長い髪はひとまとめにされていたが、激しく動いたせいか数本その束から離れ、風に舞っていた。ルエンの目が自分を「誰なのか」理解したのを感じ取ったのだろう、浮かべていた笑みがにやりと音をたてるように凶悪さを増すものに変わっていく。
「なぁ。お前、わかっていたのか? お前を手なずけた竜が誰のものかを」
ふと首の力が緩み、ルエンはふぅっと大きく息を吸い込む。だがそれは彼を許したのではなく、より彼を絞めつけようとする彼女の戯れ。さらりと黒髪が落ちてきて、まるで周りから二人を隠すカーテンのように広がった。近づいてくる瞳から目を離すことができず、怯えと恐怖に彩られたルエンの耳元で彼女はささやく。
「何の資格があって、この竜に近づいた? この竜に触れた? この竜に好意をもたれた? なぁ、お前は人のものを奪う覚悟があったか? 人の者に勝手に触れる権利があったのか? この私に殺される覚悟があったか?」
くるしい、という言葉は言葉にならず、ひゅぅっといやな息だけが流れていく。ルエンの首を絞めつける力はその音を聞くたびに、面白がるようにじわじわと、どんどん強くなっていった。
(このままでは……)
死ぬという二文字に生きたいと願う体は、何とか彼女の手を払いのけようとしたが、ルエンの力では首にかかる指一本でさえ引きはがすことができない。全身を嫌な汗が流れ始め、彼の顔は蒼白になっていく。彼女の腕を抑えようとしていた両腕からも力がどんどん抜けていく。
(わたしは……)
辺りの音が消えていく。
何も見えなくなっていく。
感じられるのは首にかかる力だけ。
自分の命を奪う力だけ。
(ここで死ぬのか)
何もせず、何もしないまま。
王子とう身分に生まれながら、何もしないまま、何もできないまま。
父が母が兄が、彼をいつも守ってくれていた近衛騎士にも何も返せないまま。
ここで自分は死んでしまうのか。
「グゥゥゥゥ!!!!」
「おやめください殿下っ!!!」
「……貴様、死にたいのか」
「罰ならばどんなことでもあとで受けます。ですから…お願いいたします、殿下、その者の命を奪うのはおやめください。その者は我らの国のものではありません、あなたが婿にと願うラグレーン国の民です。私の浅はかな行動の罪ならば幾らでもお詫びいたします、ですからどうか、彼をお助けください」
ルエンの首へ力を籠めようとしていた主君であるフェリアーデの腕を抑えたランバートは懇願する。頭を下げ、主君にひたすら詫びをいれる彼の姿は満身創痍だった。服はいたるところが破け、そこからは血がしたたり落ち、左腕も折れているのかぶらりと力なく揺れている。今にも倒れそうな姿でありながらも、彼女を止められなかったヒールリッドは、ルエンの命の除名をただただ頭を下げ、フェリアーデに願っていた。
そして、それはメディサも同じだった。自分の浅はかな行動が、絆を結んだ相手の心を怒りに満ち溢れさせ、同時に傷つけていたことに、頭を下げ謝っていた。二人のそんな姿に、フェリアーデはじっと眺めた後……ふぅっと力なく息を吐く。
新鮮な空気を体に取り入れるかのように、大きく咳き込みながらルエンは起き上がる。
「大丈夫か」
「っ……ああ……!?」
それを手助けしてくれたランバートに礼を述べたルエンだったが、彼の姿をを見てぎょっとする。誰かに闇討ちされたかのような姿、おまけに額からは血の流れた後まであり、人が血を流す姿など見たことがなかったルエンは言葉を失う。あまりに彼が蒼白な顔をしていたからだろうか、ランバートはぽんとルエンの頭を叩き、にやりと笑う。
「こんなのは俺たちにとって日常茶飯事だ。……まぁいつもよりちょっと激しかった部分はあるが。アルゼール国の騎士は他国の人間よりも頑丈だから気にするな」
「……あ、ああ……」
安心させるように笑ったつもりだろうが、ショックを受けたルエンの顔は変わらなかった。それを困ったように眺めつつ、ランバートは立ち上がりながらルエンの腕を軽く引く。それにつられて立ち上がったルエンは、自分の衣服に泥がつきひどく汚れてしまっていることにようやく気付いた。
「ランバート。それでは私がいつもお前に無体を敷いているように聞こえるではないか」
「……俺たち相手に立ち回りをするのは殿下ぐらいなものですって」
「ふん、腕が鈍っては皇女として示しがつかん。私を相手にできるのだ光栄に思え」
「……はいはい、光栄です。殿下」
びくりと思わず聞こえてきたフェリアーデの声に身がすくんでしまう。ルエンはおびえた目で、彼女を見上げたが、そこには重傷を負わせた己の騎士と雑談をする、理解しがたい光景が広がっていた。
あれだけの怪我を負わせながら普通に話すフェリアーデと今にも倒れそうな顔でいながらも、何事もなかったかのように主君と話すランバート。二人を少し離れてみる二匹の竜も、特別暴れるなど変わることもなくそれを見つめていた。
(どうして……)
ふっと赤い瞳がこちらを向いた。
ぎくりと体がこわばったのは条件反射だったろう、思わず首に伸びた手をフェリアーデはじっと見つめ、誰にでもわかる、形だけの詫びを口にした。
「私は怒りに目がくらむと手加減ができなくてな。そこそこに力を抑えられず、すまなかったな。汚れてしまった服の代金は明日にでもこやつに請求するがいい。数日訓練も休むだろうから、話し相手にでもなってやってくれ」
「……殿下」
謝ってませんって、という言葉をフェリアーデは鼻で笑い、くるりとこちらに背を向ける。ばさりと広がる黒いマントとそれを迎えるよう立ち上がった赤い竜。それをぼうっと見送っていたルエンだったが、不意に皇女は足を止め首だけ振り返る。
「だが、王族の竜に触れるなど二度と考えるな。次はお前がどこの国の民であろうと容赦はせぬ」
背筋を凍らせるような警告。
ルエンを見る目はそれが嘘ではないことを語っていた。
赤い竜が空高く鳴く。
くおんと響き渡った声は、切ない音を響かせまるでルエンに謝罪をしているように聞こえた。
だが、今まで彼を見ていた金色の瞳はもうない。その瞳には、もう本来の主しか見ていなかった。
青い空に広がる赤い翼とそれを追う黒い翼。
それはあっという間に小さくなり、やがて空に飲み込まれるように消えていく。
まるで夢にようだった竜とのひととき。
それはあっという間に終わりを告げたのだった。