第3話 竜の姫の脅威
「今日からアルゼール国の竜姫が滞在されるようですよ。しかし、何をすれば朝から水浴びをする酔狂な気分になるのか理解しかねますが」
「……別に好きでこんな目にあってはいないのだが」
ちくちくと嫌味を込めるのは、ルエンが部屋におらず、彼を探して城中を走り回ったせいだろう。
庭で見つかったときのヒールリッドの顔ときたら、今にも切りかかられそうな気配を漂わせており、ちょっとビビったものだ。まぁ、彼の方も小言が出る前に、庭で濡れ鼠となっていたルエンをみて言葉を失っていたようだが……そんな彼に追い立てられるよう部屋に戻ったルエンは、早々に着替えを済ませ、タオルで髪を拭く。そして、さわりと重要なことを言っていたことに気づき、ヒールリッドを見返した。
「アルゼール国の竜姫? あの?」
「ええ、あの竜姫です」
「……こんな辺境ともいえる国に滞在だと?」
「……若干反論したい言葉がありますが……、お気持ちはわかりますので訂正はしません」
「……なんで?」
「さぁ、詳しいことは私にも。ただ、かなり急な要請だったらしく、城の者も朝から駆けずり回っているようですね」
朝のことを思い出し、ルエンはそれでか……と納得する。
とりあえず、他国の賓客が来るというのに、第二王子に伝え忘れたというわけではないらしい。まぁ、実際そうだとしても文句の言える立場ではないのだが。ちらりとヒールリッドを見れば、彼は情報が遅いとぶつぶつ文句を言っている。そんな彼を見て、いつもルエンの胸にちくりと針が刺すような痛みが走る。
ヒールリッドはルエンが八歳の時に、選ばれたただ一人の近衛騎士だ。
見た目にも柔らかそうな茶色の髪と、騎士特有の鋭さをもつ新緑のような緑の瞳。眉間に皺が寄るせいで、少し近寄りがたい雰囲気を持っているが、本人曰く、ルエンといるときだけこんな顔になってしまうという。細身ながらも毎日鍛錬をしているので、ルエンよりもしっかりとした体つきをし、彼の手が自分より大きく硬いことを知っている。ルエンより五歳年上の彼は、人前では近衛騎士本来の位置、主の後ろに静かに控えているものの、二人だけでいるとすぐさま本性を現し、ルエンに小言の嵐を浴びせる。まあ、10年近くの付き合いな上に、授業の脱走ぐせのあるルエンに散々困らされたので、仕方がないことだろう。
当時彼は、最年少で騎士という位を得、それが元でルエンの騎士に選ばれた。側室とはいえ、王子の近衛騎士という異例の抜擢に、騎士たちの間ではかなり目をつけられていたという。しかし、年月が経つたびにルエンに振り回される彼をみて、今は運が良かったのか悪かったのかわからない騎士として一部の同情を誘っているという噂だった。
(苦労だけしかない主の護衛を、なぜ続けてくれるのだろう)
王命でルエンの近衛騎士になったヒールリッドだが、彼の実力は騎士団の折り紙つきだ。基本ルエンのそばにいるヒールリッドだが、剣の訓練には騎士団の鍛錬所へ向かう。そこで騎士団に所属する騎士と剣を打ち合うのだが、ルエンは彼が負けたところを見たことがなかった。興味本位でヒールリッドについていったルエンは、普段違う彼の顔と実力に驚いたものだった。そして、ぽかんと口をあけて見ていたルエンに、横で一緒にみていた騎士団長がぽつりともらしたのだ。
「何度か陛下に騎士団に戻してくださるようお願いしたのですが、本人に断られてしまいました」
王族の身辺を守る近衛騎士という地位は騎士としても名誉なことだ。
しかし、兄王子という能力も実力も申し分のない彼の護衛ならともかく、周りから期待されず、ましてや何にたいしてもやる気のない第二王子に仕えるよりも、騎士団に戻った方が彼の能力をもっと生かせるはずだ。現に、騎士団長の言葉には、将来自分の右腕になってほしいというような懇願の色が含まれていたと思う。
長年自分に仕えてくれ、気心の知れたヒールリッドがいなくなるのは寂しい。
しかし彼の能力を殺している自分に仕えるより、他の人が望む場所へ行ってほしいとも思っている自分もいる。なのに、なぜ、彼は自分の傍にいてくれるのだろう。
(だが、それを口にだせない臆病者の私だが)
「……ルエン様。人の話を聞いていますか?」
いらっとしたヒールリッドの言葉にルエンは我に返る。自分でも気づかぬうちに、思考にはまりすぎでいたらしい。案の定、彼の近衛騎士の不機嫌さはこれ以上にないほど悪く、気のせいかどす黒いオーラのようなものまで見える気がする。
「え、いや、なんだ、その、アルゼール国の話だったか」
「そのあたりはもうとっくの昔に終わった話ですが。はぁ。もう一度言わせていただきます。後で私の主が恥をかくところを見たくありませんので」
「……た、たすかる」
今度聞いていなかったら、ただじゃおかねぇという雰囲気をまとったヒールリッドに、タオルを頭に乗せたままこくこくと頷いたルエンは、彼の言葉を聞いてわかりやすいほど顔をしかめた。
「竜姫の歓迎会? ……面倒な」
「貴方様の夜会の面倒嫌いは私も十分理解しておりますが、相手はアルゼール国。礼を欠くことは一切できません。重い病でもないのに、欠席などされれば、竜の口に餌を差し出すようなものですよ」
ヒールリッドの言葉には、アルゼール国への危惧が感じられた。
だが、彼の危惧が考えすぎだと一笑することはできない。何しろ、世界最強の獣である竜を操り、空から攻められれば一夜にして国土が炎に飲み込まれるといわれるほど、恐ろしい竜騎団を従えている竜の姫なのだ。彼女に何かあれば、今は彼女の影に潜んでいるアルゼール国が、あっという間にラグレーン国を飲み込んでしまうだろう。
彼女の機嫌を損ねるわけにはいかない。
だが、彼女の望みを叶えさせてはいけない。
ラグレーン国を支える柱の一つを、竜に与えてはいけない。
「己の婿など、己の国で見つければよいものを。しかも、自分で探しに来るなど、竜の国の考えはわからぬものだ」
ため息とともに吐き出された言葉に、ヒールリッドは何も言わなかった。
アルゼール国の竜の姫が、自分の婿探しをしているという噂は、彼女が世界を回り始めてからあっという間に広がった。当初は、竜の国と親戚関係が結べると、大国小国関係なく、こぞって彼女を自分の国に招待しようとしたのだが、彼女が目をつけた人物と、各国が縁談として差し出すことができる人物は全く違ったのだ。
各国はかの国と縁を結ぶために王族の王子を彼女の婿へと望んだ。
しかし彼女が選んだのは、国が国を支えるために、突飛した能力をもつ男性たちだった。
時には、未来の宰相候補を。
時には、騎士の頂点に立つ、騎士団長を。
彼女が選ぶのは、能力が優れ、実力に富み、これからの国や将来に不可欠な人材たちだった。
目の付け所がいいと言えなくもないが、それを望まれた国は災難でしかない。
「今までの国のように、何事もなく去ってくれればよいのだがな」
彼女が目をつけた人物たちは、結局お眼鏡にかなわなかったのか、友好的な滞在として終わっている。だが、それが自分たちの国にも当てはまるかどうかなど誰にもわからない。竜姫の気持ち一つなのだ。もし、彼女が本気で「望んだ」ら、誰も反対することはできない。
弱者は強者に獲物を出しだすのが自然の摂理。
弱者ができるのは、そうならないよう手をつくし、強者の目に留まらぬよう隠れ、逃げ惑うのみ。
胸の中に渦巻く不安とともに、これから起こる騒動の数々にルエンは、何事もなく竜姫の滞在が終わることを願うしかなかった。