八話
「氷室さんの補修受けたことがあるんだ、羨ましいな」
試験前、葎の中学の時の先輩だという柴田に勉強を教わっている最中に彼から言われた一言が話のきっかけだった。
ちなみに、場所は何故か生徒会室。今日は役員が休みで空いていたから、とは柴田の台詞である。
彼は先日代替わりしたばかりの生徒会長でもあった。
図書館は一人で勉強するにはむいてはいるが、誰かに教えてもらうとなると、やはりある程度話せる場所の方が好ましい。
葎に言わせれば、柴田はただ単に飲み食いしながら教えたいだけなのだそうだ。
「受けたかったら、今年度留年って手もありますよ?原則として三年間同クラス、同担任なんですよね?」
「恐ろしいことをサラッというね、お前」
お茶請けは葎が作ってきたクッキーだ。抹茶風味のそれは日本茶にも良く合う。
「氷室さんは凄いよ。何の教科でもよどみなく教えることが出来る。去年、一度だけ代理で授業したのを受けたけど、畑違いの社会…歴史なんだが、いろんなことを知っていて実に楽しい授業だった」
補修の時のプリントを思い出して、咲良は頷く。あの時自分は数学と物理、それに英語だったが、どれも的を得た解りやすいものであった。
「総合的な学科の知識が必要で、専門学科を卒業しなければ付けない小学校や中学と違って、高校教師は教職課程さえ取っていれば、誰でも、って訳じゃないが、教師になることができるんだ」
ちょっと休憩な。と笑って、柴田は葎から緑茶を受け取り、一口飲むと幸せそうに息を吐く。
「やっぱり、葎の淹れるお茶は最高だな。嫁に来ねぇ?」
「彼女に言いつけますよ?」
にっこりと笑顔で答える後輩に、それだけは勘弁、と柴田が謝る。
「へぇ、柴田先輩、彼女がいらっしゃるんですか?どんな方です?」
「もったいないような美人さん。話し振らないほうがいいよ、惚気しか出てこないから」
嬉々として話そうとした柴田を、葎が押さえる。しゅん、と項垂れた柴田に苦笑を向けながら、どんな彼女だろうと咲良は考えた。
学年トップの成績を誇る柴田は、全国模試でも常に上位に名を連ねている、と聞いたことがあった。運動はいまいちだが、ルックスは悪くない。
自分の周りにも柴田のファンは多い。加えて、気さくな性格だ。
人気が高いのも頷ける。
「で、さっきの話。氷室さんの教え方って、天才の教え方じゃないんだ」
不思議そうな表情の咲良に、柴田は起用にウインクをしてみせる。
「天才っていうのは、自分が何もしなくても理解できるから、相手がどこをどうして判らないか、どうやったら相手に理解してもらえるかが解らないんだ」
なるほど、と感心する。
「じゃあ、先輩も『天才』じゃないんですね。教え方が凄く解りやすいですから」
「先輩は『天才』だよ。一を聞いて十を知る人」
あっさり帰ってきた葎の返事に、咲良は首を傾げる。
「俺の場合、彼女のために…だな。あいつ難しい話を聞きたがる割に理解しないから、噛み砕いて説明する事になれているんだ」
『天才』の言葉を否定しない柴田に突っ込むべきか、一瞬悩んだ葎は、そのまま口を噤む方を選んだ。
「…でも、そっか。やっぱり凄いんですね、氷室先生って」
ふわり、と微笑む少女に二人は同時に軽く眉を寄せるが、すぐに表情を元に戻した。
これにて本日は終了。
柴田の一言で、勉強会は幕を閉じ、咲良は頭を下げて生徒会室を後にしたのだった。
「…気がついたか?」
「まあ…本人無自覚ですね。氷室先生もてますから、今更『憧れる』生徒が一人や二人増えても問題は無いんじゃないですか?」
淹れなおされたお茶を静かに口に運ぶと、柴田は深々と息を吐いた。
「知っているか?この学園、生徒同士の恋愛は勿論、教師との恋愛も禁じてはいないんだ」
「自分の責任の範囲内なら、ですよね」
人が人に想いを寄せるのは人間として当たり前の事。だから、表向きに恋愛に関して寛容な態度を取っている。…あくまで、表向きではあるが。
「18歳未満は法律があるからな。それに教師と二人きりで『社会見学』という名前のデートをしたって問題は無いさ…だが、色々と差し障りがでるから、学校側も動く」
「差し障り、ですか?」
首を傾げた後輩に柴田は頷いた。
「クビにはならないが、移動は確実だ。中等部や大学に一時的だが飛ばされるな。今の五木さんのように自分の努力で成績を上げたとしても、教師と付き合っている、という事実がある以上邪推する奴は、いくらでも出てくる」
ああ、と葎は苦い笑いを口の端に乗せた。事実はどうであれ、ひとつ間違えれば、試験問題の漏洩になりかねない、という事なのだろう。
「さっきの葎の台詞じゃないが、氷室さん、ガードが固いから心配はしていないさ。…ただ」
問う眼差しに、柴田は軽く肩を竦める。
「あの人も、あいつらと一緒で懐に入れた相手には甘そうだからな」
柴田の言う「あいつら」の顔を思い出し、葎の表情が微かに歪んだ。
後に彼のこの懸念は別の方向で当たる事になるのだが、この時の彼らにそれを知る由は無かったのである。