四話
解いていく楽しみが解ってくれば、学ぶことも楽しくなる。
数学のプリントを埋めながら、咲良はそう思った。
解らなかった問題がどんどん解けていく。
つい、夢中になって、気が付いたら、辺りには誰も残っていなかった。
「あ…」
窓際に腰掛けている氷室に気が付いて、咲良は小さく声を上げ、はっとしたように口元を抑えた。
「氷室先生…眠っちゃってる」
日ごろの彼からは想像もつかない優しげな寝顔に、少女は目を細める。
「疲れているんだろうなぁ」
ごめんなさい、と小さく呟く。
「そうだよねぇ、こうやって一人一人違う問題作って、補修に付き合っているんだもんね」
相手が起きないと、自然大胆な行動に出てしまう。
普段、厳しい視線と言動で周囲から遠巻きにされてしまう氷室だが、今はその両方とも閉じられ、端正な横顔はとても穏やかな印象を与える。
嬉しくなって、もう一歩近付いて目の前の担任であり顧問の顔を見下ろした。
いつもは、見上げなくてはいけない相手の顔が、自分より下にあることに、ちょっとした感動を覚えながら、口元を緩める。
「不思議だな…こうやって見ると、そんなに怖い先生に見えないんだけどな」
近くの席に腰を下ろし、咲良は氷室の方を見て微笑む。
「分かっているんだけどな…厳しいのは私たちの事を思ってくれてるってのは…」
でも…、と少女は心の中で呟く。
分かっていても、怖いものは怖いんだよね。
氷室を見ているうちに、知らず知らず眠ってしまったらしい。
氷室に起こされて、すでにチェックの終わっているプリントを手渡される。
出来はいまいちだが、丁寧に添削され、間違えた原因のポイントまで記されていた。
一足先に教室を出ようとした氷室が、気が付いて振り返る。
「すみませんでした、先生。私が終了に気が付かなかったから、お帰りになれなかったんですよね?」
少女の言葉に少し驚いたように目を見開いた氷室だったが、ふいにその口元に小さく笑みを浮かべ、体の向きを変えた。
「数学は楽しいだろう?五木」
え?と、問いかけのまなざしを送る少女に、氷室はもう一度口を開く。
「問題が解けていくのは楽しいだろう?」
「はい!」
「よろしい」
にっこり笑って答える咲良を見て、満足そうに頷くと氷室は教室から出て行った。
「うし!」
一人、ガッツポーズを作り、咲良は拳を見ながら誰も居ない教室で声を出した。
「とりあえず、目指せベスト10入り…ってね」
「それは、楽しみだ」
突然掛けられた声に、ガタガタガタと、机を揺らし、椅子を倒して咲良は振り返った。
みると、いつの間に戻ってきたのか、入り口に氷室が立っている。
「せ…先生…」
口をぱくぱくと金魚のように開ける少女を、半ば呆れたように見て、氷室は息を吐いた。
「君は、もう少し落ち着くことを覚えた方がいいな。今日はもう遅い、送っていくから校門のところで待っていなさい」
そう言うと、咲良の返事も聞かずに、氷室は廊下へと出て行った。
慌てて、荷物をしまい机と椅子を直し、咲良は戸締りを確認すると、教室から出ようとして、ふと思い返したように戻ると、先ほどまで氷室が座っていた椅子へと手を置いた。が、すぐにはっとすると、自嘲気味に呟く。
「何やっているんだろう、私」
扉を閉めた、教室の中には、オレンジ色の夕日が長い影を作っていた。