二話
私立西陵学園には、オーケストラ部なるものがある。
特別音楽に造形が深いわけではない、ただ最初に同好会として始めたメンバーが、弦楽四重奏だった事に端を発する。
彼らの音に惹かれて集まったメンバーは、弦楽器の奏者が多く、自然とこの形になったらしい。
そして、今、この部活の顧問が、氷室 暁なる男であった。
かといって、彼は音大の出身者という訳ではなかった。
数学教師である彼が、この学園に新卒でやって来た時、オケ部の顧問が彼の母親の音大時代の大先輩で公私共に彼自身も世話になった相手だったからである。
定年を間近に控えた相手を手伝ううちに済し崩しに顧問も引き継いでしまったのだ。
相手は暁を幼少の頃から知っている。彼が音楽家の両親の影響で絶対音感と共に、部員達のちょっとしたミスや、普段との音の違いを聞き分ける『耳』を持っていることに気付き、彼に後を任せたのである。
…しかし、この場合、問題は任された側ではなく、指導を受ける生徒達にあった。
問題、というより災難だ。
自分にも他人にも同様に厳しい男の指導は半端なものではなかった。事実、オーケストラ部は指導についていけなくて、半数近くが辞めていったのだ。
残された者たちが必死に食らいついて行った成果は確実に現れ、わずか二年で西陵校オケ部は全国大会へと進出したのだ。
そこは、学園のはずれにある雑木林のさらに奥まったところにあり、めったに人が訪れないところでもあった。
それゆえ、氷室は一人になりたい時や考え事がある時にはよくここにやってきていた。
ここには、何故か一本だけ枝垂れ桜があり、この季節ひっそりと人知れず花を咲かせていた。
かなり古いその木は、先代の理事長の言いつけで切らずに残されているという話を聞いたことがあった。
と、微かに伝わってきたその音色に、彼は眉を寄せる。
拙いその音は聞き覚えのあるもので、果して木の影からその姿が見えたときは彼は溜息をつかずにはいられなかった。
数は少なくあるが、何人か入って来た外部入学の一人であるその少女は、奇しくも氷室の受け持つクラスの生徒であり、また彼が指導するオーカストラ部の部員でもあった。
「ここで何をしている?」
一心にフルートの練習をしていた少女は突然かけられた声に一瞬身を竦め、顔を上げた。
「あ、氷室先生」
「質問に答えなさい。ここで何をしている?」
「え…っと、フルートの練習です」
見ていれば分かりそうなものだが、ここにそれを突っ込むものは居ない。勿論、当の本人達さえも。
良くも悪くも凡庸な少女。
それが、氷室の五木咲良という少女に対する評価であった。
「それは、分かっている。私が聞きたいのは、何故休みの日に君がここにいるのかだ」
ああ、と、思わず『ポン』と聞えそうな様子で少女は手を叩くと、少し恥ずかしそうな顔で顧問を見上げる。
「家でやると弟が嫌がるんです、近所迷惑だって…ここなら人気も無いし、校舎から離れているから迷惑にならないかな、って思いまして」
フルート初心者の彼女の音はお世辞にも聞いていて心地の良い音を出すとは言い難かった。いや、どちらかと言うなら耳障りというべき音である。だが、元々篠笛を嗜んでいた、という本人の言葉どおり、初心者にしてはまともな音を出すほうだ。だからこそ、募集人数の少ないフルートというパートに合格したのだ。
だが、それを口に出して褒める氷室ではない。
「なにもこんなところでやらなくても音楽室はある程度防音は効いているだろう?他にも視聴覚教室なリ、準備室なりあるだろう?」
人気の無い所と言うのは、裏を返せばめったに人が訪れないと言う事でもある。
「もし、なにかあったらどうするつもりだ?」
学校の敷地内で何かあるほうが問題なのだろうが、一応他所のお宅のお嬢さん方を預かっている方の立場としては注意を促すのも当然といえよう。しかし、言われた当の本人は、なんの事かと首を傾げている。
「それに、気持ちが良いんです、ここ」
自分の目の前に下りてきている花を手にとって、少女は微笑む。
「綺麗ですよね」
少女の言葉に氷室も顔を上げ、満開に咲き誇っている花を見る。
しばらく、二人とも声も無く桜に見入っていた。
微かな衣擦れの音に氷室はそちらの方を向いた。
見ると少女がフルートを片付けて、立ち上がっていた。
氷室の方を向いて、軽く頭を下げる。
「それじゃ、私帰ります。失礼します、氷室先生」
「待ちなさい」
自分の傍を通りすぎて行こうとする少女を呼び止めると、氷室は自分でも思っても見なかった言葉を紡いだ。
「校門の所で待っていなさい。送って行こう」
驚いたように目を見開いた咲良であったが、ふるふると首を振る。
「そ、そんな、そんなご迷惑はおかけできません!今日だって私が勝手に学校に来たんですし…」
「かまわない、君の家は私の帰路にある」
そう言うと、氷室はきびすを返し、校舎へと向かって行った。
後に残された少女は、その姿が見えなくなると、大きく息を吐いて桜をみあげる。
「うう…氷室先生に送ってもらうなんて…」
緊張するなぁ…と、呟きながら校門へと向かう。
高い身長、整った容姿、若くて独身。
普通に考えれば、女生徒に人気のあるはずの氷室だが、中等部から持ち上がってきた友人に言わせると、あくまで『観賞用』なのだそうだ。
「当たり前の事」をモットーとする、西陵学園内で、それをより明確化させる存在。
それが、氷室 暁なる人物だ。
常に厳しい口調と物言い。決して間違ってはいないと思うが、やっぱり怖いと思う。
厳しいけれど怖いだけの人ではない、と思う。怖いけど…うん、やっぱりすごく怖いけど。
でも、こうやって学校に来ている自分に気が付いて送って行ってくれるというのだから、きっと親切な先生なのだろう。
「そういえば」
ふと気が付いたように咲良は呟いた。
「氷室先生、あそこに何の用だったんだろう?」
学校のはずれにある場所なのだから、用がなければ来る所ではない。
「ま、いいか」
今度機会があったら聞こう。などと思っていた少女は、自分の目の前に来たスポーツタイプの左ハンドルを氷室が運転して来たことにより、すっかり考えていた事を忘れる事になる。