十二話
桜の花が舞い散る。
一瞬、風に視界を奪われる。
湧き上がる恐怖。花が彼女を奪っていく。
視界が開け――男の世界が、静かに形を成して行った。
いつも聞こえるはずの声が無いという事は、こんなにも不安を呼ぶことなのだろうか。
自由参加の社会見学の当日。
朝、点呼を取った時には返事があった。
いつもの彼女ならば、折に触れ質問などをしながら、もしくは友人と話しながら見学するはずなのだが、今日はその声が聞こえない。
時折気になって振り返ってみると、確かに少女はそこにいるが、いつも興味深げに周囲を観察しながら、変えているその表情に覇気がないように思える。
引率者として、生徒の健康には気をつけなくてはいけない、と考えつつも、それだけではない何かが、自分の中にあることに彼自身気が付いていた。
だが、それは自分が気に掛けている(言い方としては、不本意ではあるが)「お気に入り」の生徒に対して、他の者達よりも注意がいってしまう。
ただそれだけだと、自分自身で納得していた。
だからこそ、見学が終わって彼女に声を掛けた時、自分が何をしようとしているのかと、半ば呆れてしまった位であった。
車の中で、何処に行くのかと少女が訊いてきたときも、つい「秘密だ」と、意味ありげに言うことであっただろうかと考えてしまったほどだ。
だが、彼の好きなこの場所で、彼女の顔が元気になっていくのを見るのは嬉しかった。
自分が好きなこの場所を、気に入ってくれたのも嬉しかった。
満面の笑顔を自分に向けてくれたことが誇らしかった。
柔らかな夕日と、周囲の雲が一刻一刻すがたを変化させ、気が付けば、辺りは薄闇に包まれていた。
その帰り道、少女の少し寄りたいところがあるという言葉に、時間的に多少問題があると思いながらも、ハンドルを切ったのは、自分自身がこの余韻にまだ浸っていたいからだと、苦笑せざるを得なかった。
(何を考えているんだ俺は。相手は自分の生徒だぞ)
街から少し外れたそこは、一面に桜が植えてあった。
染井吉野だけではない、少し赤みが買った山桜、白の色が強い大島桜に緑萼桜。まだ咲いていないのは八重桜であろうか。
枝垂れ桜のイトサクラ、シダレヒガシなどもある。
「こんなところに、これほどの桜の名所があったとは…」
氷室の呟きに、咲良は微笑んだ。
「この辺り一帯が個人の土地ですから、普段は入れないんです」
実は知り合いの土地なんですけどね。と、いたずらっぽく笑う彼女についつられて笑う。
「あの場所に連れて行ってくださったお礼…になるかどうかわかりませんけど」
「ありがとう」
氷室の礼の言葉に、咲良は微笑んだ。
時折彼女が見せるその笑顔は、どこか大人びた翳を垣間見せるものであった。
しかし、氷室と目が合う瞬間にはいつもの、年相応の笑顔の戻る。それを、どこかで残念に思う自分が居ることを、彼は自分で気が付いていた。
大きく息をついて、自分の中の感情を無意識に押しつぶすと、氷室は咲良の方へと顔を向ける。
「さあ、もう遅い、そろそろ……」
その時、春の嵐のような風が二人の間を吹きぬけた。