姑は方位を信じて医者を信じない。私は妊娠中、立ったままご飯を食べるしかなかった
昼食を食べようとフォークを手にした瞬間、義母の佐伯千代子が勢いよく駆け寄ってきて、私の手を叩いた。フォークが皿の縁にぶつかり、乾いた音を立てる。
「それ食べちゃ駄目! 妊婦がうさぎなんか食べたら、口唇裂の子が生まれるのよ!」
床に落ちたうさぎ肉の煮込みを見つめ、怒りを飲み込みながら椅子に座ろうとした。ところが今度は、義母が椅子を乱暴に後ろへ引いた。
「今日はこの方角が悪いの。御厨先生が、妊婦はここに座っちゃいけないって言ってたでしょう。今日は立って食べなさい」
妊娠を知った日から、義母は私たちの家へ転がり込んできた。毎朝、古びた暦と九星の方位盤を広げては、ソファは駄目、ベランダへ出るな、今日は寝室を使うなと、私の生活を勝手に決めていく。
そして夫の佐伯直人は、そのたびに同じことしか言わなかった。
「母さんも赤ちゃんが心配なんだよ。少しくらい我慢してやって」
あの日、ようやく分かった。
私を息苦しくさせていたのは、義母の馬鹿げた迷信だけではない。
この家には最初から、私の味方が一人もいなかったのだ。
1
私は佐伯美咲。妊娠6週目だった。妊娠検査薬に二本の線が浮かんだ日、真っ先に夫の直人へ知らせた。
直人は数秒ほど固まったあと、子どものような顔で私を抱き上げた。くるりと一度回ったところで我に返ったのか、慌ててソファへ下ろし、まだ何の変化もないお腹を見つめて笑った。
「俺、父親になるんだ」
その顔があまりにも嬉しそうで、私まで笑ってしまった。これからやっと、二人だけの家庭を作っていけるのだと思っていた。
その幸せな気分は、たった3日しか続かなかった。
4日目の朝、インターホンが鳴った。玄関の扉を少し開けた途端、義母が膨らんだ布袋を抱えたまま中へ入ってくる。
「美咲、妊娠したならもっと早く教えなさいよ。特に最初の3か月は大事なんだから。悪い方角へ出歩いたり、安産の神様を怒らせたりしたら、取り返しがつかないのよ」
靴を脱ぎながら、義母は布袋から黄ばんだ古い暦と、複雑な線が刻まれた木製の方位盤を取り出した。
「お義母さん、それ何ですか?」
「動かないで」
義母は方位盤とスマートフォンの画面を交互に見ながら、リビングを何度も見回している。その表情は冗談とは思えないほど真剣だった。
寝室から出てきた直人も、さすがに足を止めた。
「母さん、何やってるの?」
「あなたたち若い人には分からないでしょうけどね。寝る場所も、玄関の出入りも、台所を使う時間も、妊娠中はちゃんと気をつけないと駄目なのよ。御厨先生が教えてくださったんだから」
御厨澄江は、義母がSNSで見つけた自称霊能者だった。いつの間にか、その言葉をすっかり信じ込んでいたらしい。
呆れはしたものの、初日から揉めるのも嫌だった。何も言わずソファへ腰を下ろした瞬間、義母の顔色が変わる。
「そこ座らないで!」
驚いて立ち上がった。
「どうしたんですか?」
「今日は北西が駄目なの。そこに妊婦が座ると、赤ちゃんの運気が下がるって先生が言ってたのよ」
義母はそう断言すると、ソファへ向かって両手を合わせた。私はただ立ったまま、その姿を見ているしかなかった。
さらに驚いたことに、義母はその日のうちに泊まり込むことを決めた。
「二人とも何にも知らないんだから、私がそばにいないと駄目でしょう。何かあってからじゃ遅いのよ」
それ以来、朝起きて最初に聞く言葉は直人の「おはよう」ではなく、その日の禁止事項になった。
「今日はダイニングテーブルの東側に座っちゃ駄目」
「ベランダの方角が悪いから、洗濯物には触らないで」
「今日は寝室が鬼門の方角に当たってるから、美咲は客間で寝て」
最初のうちは、義母が安心するための儀式だと思うことにした。けれど口出しは日に日に増え、産婦人科で勧められた葉酸のサプリにまで、「そんなものより御厨先生のお水の方がいい」と文句をつけられた。
ある日には、ダイニングチェアの位置が悪いと言われ、その日は一日中椅子に座ることさえ許されなかった。
仕事から帰った直人は、ローテーブルの横で中腰になったまま夕食を食べている私を見て、足を止めた。
「美咲、何で座らないの?」
答える前に、キッチンから義母が顔を出す。
「今日は椅子の方角が悪いの。座らせられないわよ」
直人が眉をひそめた。思わずその顔を見たが、数秒後にはため息をつき、私の横へしゃがみ込んだ。
「まあ、今日一日だけだろ。俺もここで食べるよ」
その横顔を見ながら、胸の奥が少しずつ冷えていった。
夜、寝室へ戻ってから聞いた。
「直人、本当にお義母さんの言ってること信じてるの?」
直人は少し黙ってから、私を抱き寄せた。
「俺だって信じてないよ。でも母さんは本気で心配してるし、今さら何を言っても聞かないだろ。安心させるくらい、いいじゃないか。子どもが生まれるまで、少しだけ我慢してよ」
何も答えられなかった。
直人にとっては、母親を安心させるための小さな我慢にすぎないのだろう。けれど義母がこの家へ来てから、譲ることを求められているのは、いつも私だけだった。
2
義母の方角へのこだわりは、それから1か月以上続いた。朝起きるたびに、どこへ行っていいか、どこに座ってはいけないかを確認しなければならず、水を飲む時間や窓を開けることにまで口を出されるようになった。
直人も最初こそ困った顔をしていたが、やがて何も感じなくなったらしい。私が不満をこぼすたび、疲れた顔で同じ言葉を返す。
「美咲、母さんも何かしてないと落ち着かないんだよ。いちいち本気にしないで、適当に付き合ってやってよ」
そうやって何度も飲み込んできた。奈緒が家へ来るまでは。
三浦奈緒は大学時代からの親友だった。曲がったことが嫌いで、私が知る中でも特に、理不尽なことを黙って見ていられない性格だ。
玄関を開けた奈緒は、ローテーブルの横で壁にもたれながら昼食を取っている私を見て、その場に立ち尽くした。
「美咲、何でそんなところで食べてるの?」
私が口を開くより先に、キッチンから義母の声が飛んできた。
「今日はダイニングチェアの方角が悪いのよ」
奈緒はゆっくり義母へ視線を向け、それから部屋の隅で何も聞こえていないふりをしている直人を見た。
「妊娠してる美咲を、毎日こんなふうに食事させてるんですか?」
「こんなふうって何よ。お腹の子のために決まってるでしょう」
義母はフライ返しを持ったまま、当然のように言い返した。
奈緒はそれ以上争わず、最近食べたいものがないかと私に聞いた。大学時代、二人でよく通った小さな洋食店で食べたうさぎ肉の煮込みをふと思い出し、最近なぜか無性に食べたいと答えた。
奈緒は何も言わず、スマートフォンを取り出した。
1時間ほどして戻ってきた彼女の手には、テイクアウト用の保温バッグがあった。蓋を開けると、じっくり煮込まれた肉とハーブの香りが部屋に広がる。
一口食べようとフォークを伸ばした瞬間、義母が血相を変えて駆け寄ってきた。
「駄目!」
手を叩かれ、皿ごと床へ落ちた。
「妊婦がうさぎなんか食べたら駄目でしょう! 昔から、うさぎを食べると口唇裂の子が生まれるって言われてるのよ!」
床に散らばった料理を見つめていると、指先が小さく震え始めた。この1か月以上積み重なっていたものが、そこで一気に溢れ出した。
「お義母さん、いつの時代の話をしてるんですか。そんなことで私を脅すの、もうやめてもらえませんか」
奈緒も我慢できなくなったらしい。
「ちゃんと火も通ってます。美咲の健診にも問題はないし、医師からは偏らず食べるように言われてるんですよね。何を食べるかまで全部決める権利なんてないでしょう」
「医者が何でも知ってると思ったら大間違いよ。昔の人はみんな、ちゃんとそういうことを守ってきたんだから」
義母は私を指差した。
「妊娠したのに、自分が食べたいものばっかり考えて。本当に赤ちゃんに何かあったら、あなた責任取れるの?」
その言葉で、何かが切れた。
「だったら、もう神棚にでも飾っておいてください。食べるのも座るのも駄目なら、その方が安心なんでしょう?」
部屋が一瞬で静まり返り、義母の顔が真っ赤になる。その横で、奈緒がふっと笑った。
「佐伯さん、直人さんを妊娠してた時も、毎日方位盤を見ながら生活してたんですか?」
奈緒は直人を一度だけ見た。
「それにしては、あまり効果がなかったみたいですね」
「三浦さん、そこまで言う必要ないだろ」
直人がようやく声を荒らげた。
奈緒はすぐ私の前へ立つ。
「じゃあ、どこまでなら言っていいんですか? 葉酸のサプリまで取り上げようとして、正体の分からない水を飲ませようとしてた時、直人さんは何してたんですか。美咲がまともに椅子にも座れないのを、ずっと見てたでしょう?」
直人の顔が険しくなった。
すると義母は突然その場へ座り込み、大声で泣き始めた。
「私が誰のためにやってると思ってるの! 実の娘みたいに世話してきたのに、最後は私が悪者なのね!」
直人は慌てて母親を起こそうとし、こちらを振り返った。
「美咲、母さんがここまで言われてるのに、何とも思わないのか?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「……何とも?」
床に落ちた料理へ目をやる。
「奈緒は、私が何を好きだったか覚えてるし、体調のことだって気にしてくれる。なのに直人は、私が立ったままご飯を食べてても、『我慢して』って言うだけじゃない」
直人は口を開いた。
けれど、何も言わなかった。
奈緒は私のバッグをつかんだ。
「行こう。病院で聞けばいいよ。妊婦がうさぎを一口食べただけで、本当に赤ちゃんに異常が出るのか」
義母が慌てて私の袖をつかむ。
「行かなくていい! こんな家の話、わざわざ外でする必要ないでしょう!」
その手を振りほどいた。
「本当に赤ちゃんのことを心配してるなら、医師に聞いてください。毎日その方位盤を眺めるんじゃなくて、妊婦にどう過ごしてもらうのがいいか勉強してください」
テーブルに置かれた木製の盤を指差した。
「そこまで何でも分かるなら、御厨先生に健診までしてもらえばいいじゃないですか。病院なんて要りませんよね」
義母は顔を震わせたまま、何も言えなかった。
エレベーターの扉が閉まってから、自分の手のひらが冷たい汗で濡れていることに気づいた。奈緒が何も言わず、その手を強く握ってくれる。
「とりあえず、うちに来なよ。戻りたくなったら、その時に戻ればいい」
奈緒の2LDKには、ずっと使っていない部屋が一つあった。
「しばらくここ使いなよ。どうせ空いてるんだから」
壁にもたれながら、結婚式の日の直人を思い出した。何があっても守る、と言っていた。
けれど今、私を一番傷つけているのは彼の家族で、直人はいつもそのすぐ隣に立っているだけだった。
3
奈緒の家へ移ってからも、直人からは毎日のように連絡が来た。最初は謝罪だったが、数日もすると「そろそろ帰ってきてほしい」という言葉が増えていく。
「美咲、母さんも落ち着いたから。もう帰ってこないか?」
そんな言葉を、もう信じる気にはなれなかった。義母は自分が間違っているとは思っていない。ただ、自分の言うことを聞かない人間の方が間違っていると思っているだけだ。
その後も奈緒の家で暮らしながら、妊娠30週を迎えた。定期健診の日、青岬中央病院の産婦人科でエコー画面を見ていた医師が、穏やかな口調で言った。
「今のところ逆子ですね。でも、まだ自然に戻ることもありますから、今は経過を見ていきましょう。必要以上に心配しなくて大丈夫ですよ」
少し不安にはなったものの、医師の説明を聞いて落ち着いた。
ところが病院を出た直後、直人へ伝えると声色が変わった。
「そこにいて。俺が迎えに行く」
30分ほどして直人が現れた。車へ乗った途端、私の手を握る。
「美咲、母さんが……前に家を出たり、方角も気にせずあちこち出歩いたりしたせいじゃないかって心配してる」
後部座席の奈緒が思わず笑った。
私は直人の横顔を見つめた。
「今、医師から普通に起こることだって説明されたばかりなんだけど」
「分かってるよ。でも母さんも不安なんだ。ちょっと家に顔を出して安心させるだけでもいいだろ」
怒る気力さえ薄れていった。
仕方なく一度マンションへ戻ると、玄関を開けた瞬間から強い香の匂いがした。リビングには簡易的な祭壇のようなものが置かれ、その前で義母が手を合わせている。
私を見るなり立ち上がった。
「早くこっちへ来て。前に勝手なことばかりしたから、赤ちゃんが逆さまになったのよ。まずきちんとお詫びしないと」
差し出された手を避けた。
「医師から、珍しいことじゃないって説明されています」
「医者は何でもそうやって問題ないって言うのよ」
義母の声が高くなる。
「奈緒さんのところへ勝手に行って、方角も守らなかったでしょう。それで赤ちゃんが逆さまになったのに、まだ分からないの?」
そのまま義母はスマートフォンでビデオ通話を始めた。
画面には、化粧を濃くした60代くらいの女性が映る。首元には、いくつもの天然石らしきものが下がっていた。
「御厨先生です」
義母は私へカメラを向けた。
御厨澄江はしばらく目を細めてこちらを見ていたが、やがてゆっくり口を開いた。
「赤ちゃんの周りの気が少し乱れていますね。最近、自宅以外の場所で過ごすことが多かったんじゃありませんか?」
「先生、やっぱりそうでしょう?」
義母が得意げに声を上げる。
御厨はさらに目を閉じ、何かを感じ取っているふりをした。
「一度きちんと浄化祈願をした方がいいでしょう。7日間続けてお祈りします。費用は8万8,000円です」
奈緒がとうとう我慢できなくなり、義母からスマートフォンを受け取った。
「8万8,000円払うなら、その分ちゃんと産婦人科で診てもらった方がいいんじゃないですか?」
画面の向こうが沈黙した。
義母は真っ赤になり、慌ててスマートフォンを奪い返す。
「あなたに何が分かるの!」
その直後にはまた泣き始めた。
直人は困ったように母親を支え、私へ視線を向けた。
「美咲、毎回母さんとぶつかるのやめられないのか?」
その言葉を聞いた瞬間、何かが完全に冷めた。
「直人、本気で言ってる? さっき産婦人科の先生から説明を聞いたばかりだよね」
彼は答えなかった。
バッグを肩へかける。
「私はこれからも医師の話を聞いて過ごす。直人が一緒に来たいなら来ればいいし、お義母さんと御厨先生の方が正しいと思うなら、ここに残ればいいよ」
義母が直人の服をつかんだ。
「直人、このまま行かせて、あとで赤ちゃんに何かあっても私は知らないからね」
奈緒はすでに玄関に立っている。
最後に一度だけ直人を見た。
彼は動かなかった。
エレベーターの中で、奈緒がそっと肩を抱いてくれた。
「泣きたいなら、泣いていいよ」
首を横に振り、大きくなったお腹へ手を添えた。
私はずっと、家族を壊したくないと思っていた。
けれど、一人だけが我慢し続けることでしか保てないものを、本当に家族と呼べるのだろうか。
4
そのまま奈緒の家で過ごし、妊娠38週を迎えた。直人と義母はほとんど毎週のようにやってきて、果物やスープを持ってきたり、御厨先生が祈願したという安産のお守りを置いていったりした。
奈緒はいつも玄関で二人を止める。
「荷物は預かります。今日は帰ってください」
直人は毎回、扉の向こうから同じような顔で私を見た。
「美咲、そろそろ帰ってきてくれないか」
それでも、一度も頷かなかった。
妊娠後期には、医師と相談したうえで、条件が整えば無痛分娩を希望することにしていた。
その夜、急に規則的な痛みが始まった。直人にだけは連絡しておこうと思い、メッセージを送ると、30分もしないうちに義母まで一緒に青岬中央病院へ現れた。
義母の手には赤い小さな袋が握られている。
「これ持ってて。御厨先生からいただいた安産のお守りだから」
陣痛で汗だくになっていた私は、返事をする余裕もなかった。
診察の結果、子宮口はまだ2センチほどで、しばらく様子を見ることになった。それからの十数時間は、想像していた以上に長く感じた。
義母は分娩室には入れなかったものの、待合スペースから直人を捕まえては、病室の向きが悪いだの、無痛分娩なんて絶対にさせるなだのと言い続けていたらしい。
しばらくすると、本当に直人が私のそばへ来た。
「美咲。母さんが、麻酔は赤ちゃんに良くないんじゃないかって心配してる。無痛にするか、もう一回考え直さない?」
痛みで息をすることさえ苦しかった。
「出て」
「美咲……」
「お願いだから、今は出て」
直人は何か言いたそうにしていたが、結局部屋から出ていった。
その後、なかなかお産が進まず、胎児の状態によっては帝王切開へ切り替える可能性もあると医師から説明された。
それを聞いた義母は、今度は廊下で騒ぎ出した。
「帝王切開なんて駄目よ! 御厨先生が、生まれ方でこの子の運勢まで変わるって言ってたの!」
さすがの直人も、そこで初めて声を荒らげた。
「母さん、もういい加減にしてくれ。ここは病院なんだから、先生に任せよう」
義母は不満そうだったが、ようやく少し静かになった。
夜が明ける頃、赤ちゃんの大きな泣き声が聞こえた。
助産師が小さな身体を抱いてきてくれる。
「女の子ですよ。3,080グラム。元気です」
涙が一気に溢れた。
赤くて小さな顔を見ていると、それまでの長い痛みさえ遠く感じた。
直人も目を赤くして、恐る恐る娘の顔をのぞき込む。
「小さいな……鼻、美咲に似てる」
そのあと娘を見た義母が最初に言ったのは、喜びの言葉ではなかった。
「ちょっと小さくない? やっぱり妊娠中の栄養が足りなかったんじゃないの」
目を閉じ、聞こえないふりをした。
ところが少しすると、義母がまたスマートフォンを取り出した。
「御厨先生に生まれた時間まで見てもらったの。佐伯って名字と合わせるなら、『美玲』が一番いいって。姓名判断でも大吉なのよ」
直人が困った顔をする。
「母さん、名前はもう決めてるから」
腕の中の娘を見つめた。
「詩乃です。ずっと前から直人と決めてました。佐伯詩乃」
義母の顔から笑みが消える。
「『詩乃』は画数が良くないのよ。名前は親が好きだからって適当につけていいものじゃないでしょう。一生ついて回るんだから」
そこへ助産師が、出生証明書欄の記入された出生届を持ってきた。
義母は当然のように手を伸ばした。
「貸して。私が書くから」
すぐに書類を引き寄せる。
「結構です」
病室が静かになった。
娘を胸元へ抱き寄せ、義母を見る。
「この子の名前は、私と直人で決めます。誰にも勝手に変えさせません」
義母はまた泣き始め、廊下から医療スタッフまで様子を見に来た。直人は母親と私の間で立ち尽くしている。
もう見ているだけでも疲れた。
「直人、お義母さんを外へ連れていって」
「美咲……」
「今すぐお願い。生まれたばかりの詩乃に、こんな声を聞かせたくない」
直人はようやく義母を連れ出した。
扉が閉まったあと、助産師が遠慮がちに尋ねた。
「大丈夫ですか?」
腕の中ですやすや眠り始めた詩乃を見つめた。
「大丈夫です」
あの瞬間ほど、はっきり決意したことはなかった。
この子を守るためなら、もう譲らない。
5
退院後、佐伯家のマンションへは戻らず、青岬市内にある民間の産後ケアホテルへ移った。助産師のいる環境で過ごすようになってから、ようやく一食を最後まで座って食べ、夜もまとまって眠れるようになった。
詩乃はベビーベッドの中でよく眠り、少しずつ頬も丸くなっていった。
窓際で育児の本を読んでいる間も、スマートフォンは何度も震える。表示されるのは、ほとんど直人からだった。
『母さんが、そこの食事じゃ産後の身体に良くないって言ってる』
『また御厨先生から何かもらってきたみたいだ』
『いつ詩乃を連れて帰ってくる?』
すべて読んだあと、通知を切った。
しばらくしてスタッフが部屋へ来た。
「佐伯様、下にお二人いらっしゃっています。お一人はお義母様だとおっしゃっていますが……」
ため息が出た。結局、来るとは思っていた。
部屋へ入るなり、義母はベビーベッドへ駆け寄った。
「詩乃ちゃん、ばあばですよ」
すぐに間へ入る。
「手を洗って消毒してからにしてください」
義母は不満そうな顔をしたものの、しぶしぶ洗面台へ向かった。
直人はその間も娘から目を離さなかった。
「少し大きくなった気がする」
何も答えなかった。
手を洗い終えた義母は、今度は持ってきた保温ボトルを開けた。薬草のような、何とも言えない匂いが部屋に広がる。
「御厨先生に祈祷していただいた滋養スープよ。産後の身体にも母乳にもいいんですって」
中に入った黒っぽい液体を見る。
「要りません。身体は順調に回復してます」
「医者だって全部分かるわけじゃないでしょう」
義母の声が大きくなる。
「これ、先生に3万円も払って用意していただいたのよ」
直人がようやく口を挟んだ。
「母さん、美咲が飲みたくないならいいだろ」
義母の表情が一変した。
「あなたまで美咲の味方するの?」
保温ボトルを強くテーブルへ置いた拍子に、中身が床へこぼれた。
その音に驚いた詩乃が泣き始める。
急いで抱き上げると、義母が両腕を伸ばしてきた。
「貸して。何か悪いものに驚いたのよ。御厨先生のお清めの水を持ってきたから、口に一滴だけ入れれば落ち着くわ」
一歩下がった。
「触らないでください」
「ほんの数滴よ」
「触らないでって言ってるでしょう!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
詩乃は腕の中で顔を真っ赤にして泣いている。床にこぼれた液体と、何もできず立っている直人を見た瞬間、急に争うこと自体が馬鹿らしくなった。
「直人、離婚しよう」
部屋の空気が止まった。
「……何言ってるんだ?」
「離婚しようって言ったの」
泣く娘の背中をゆっくり撫でる。
「私は、この子をこんな環境で育てたくない。将来、詩乃が病気になった時まで、お義母さんに『病院へ行かなくていい、御厨先生の水を飲ませろ』なんて言われる生活は無理」
義母が顔を真っ赤にした。
「何言ってるの! 赤ちゃんが生まれたばかりなのに、一人でどうやって育てるつもり?」
スマートフォンを手に取る。
「当面暮らせる貯金はあります。会社には産休と育休の手続きもしてあります。落ち着いたら復職します」
そして直人を見た。
「この半年、一度でも私と詩乃の味方をしてくれた?」
直人は何か言おうとした。
結局、声は出なかった。
義母が突然叫んだ。
「離婚するなら勝手にしなさい。でも詩乃はあなた一人には渡さないわよ!」
思わず笑ってしまった。
「そこまで言うなら、あとは弁護士を通して話しましょう。この半年の録音も動画も、全部残してありますから」
奈緒が何度も、念のため残しておいた方がいいと言ってくれていた。義母が正体不明の水を飲ませようとしたこと、医療に口を出したこと、そして今、新生児の口へ霊水を入れようとした会話まで記録されている。
直人の顔から血の気が引いていった。
6
その後、奈緒に紹介された弁護士へ相談した。数日後、直人が産後ケアホテルへ来た時には、テーブルの上に証人欄まで埋めた離婚届と、詩乃の親権者を私とすること、養育費、面会交流についてまとめた合意書を置いていた。
直人はペンを持ったまま、長い間動かなかった。
「美咲……本当にここまでしないと駄目なのか?」
なぜか義母まで一緒に来ていた。
部屋へ入るなり、私の腕をつかむ。
「美咲、これからは全部あなたの言う通りにするから。お願いだから離婚なんてやめて。詩乃ちゃんが生まれたばかりなのに、周りに知られたら何て言われるか……」
静かにその手を外した。
「もう『お義母さん』とは呼びません。これからは佐伯さんで」
直人が顔を上げた。
「母さんが少し迷信深いだけで、家族まで壊すのか? 詩乃には父親だって必要だろ」
答える代わりに、スマートフォンを彼の前へ置いた。
前日、義母が親族のLINEグループへ送っていたメッセージが表示されている。
『御厨先生によると、この子は両親と気がぶつかってるんだって。しばらく相性のいい親戚に預けた方が、厄も落ちるらしいの』
直人の顔色が変わった。
「母さん、何でこんなこと書いたんだよ」
「私はちょっと聞いてみただけよ。本当に預けるなんて言ってないでしょう」
義母を見る。
「詩乃に霊水を飲ませるのも『ちょっと』、勝手に名前を変えようとしたのも『ちょっと』なんですね」
直人は苛立ったようにペンをテーブルへ置いた。
「美咲。子どものために、もう少し我慢できないのか?」
その言葉を聞いて、数秒間何も言えなかった。
ここまで来ても、直人が求めるのは私の我慢なのだ。
そっと詩乃の前髪を上げると、額にはまだ薄い赤みが残っていた。
数日前、義母が私の眠っている隙に、御厨先生からもらったという「浄化オイル」を詩乃の額へ塗っていた。スタッフが気づいてすぐ洗い流し、医師にも診てもらったため、幸い軽い皮膚炎だけで済んだ。
「これ、あなたのお母さんがやったの」
声が震える。
「私はあとどれだけ我慢すればいいの? 次は詩乃の口に何か入れられるまで? 本当に取り返しがつかなくなるまで?」
義母が甲高い声を上げた。
「私は全部、この子のためを思って――」
「もういい!」
ようやく直人が怒鳴った。
けれど次の瞬間には、その場へしゃがみ込み、両手で頭を抱えた。
「何で二人とも俺を追い詰めるんだよ……」
かつて私を守ると言った人が、今は自分こそ被害者だという顔でうずくまっている。
その姿が、ひどく遠く感じた。
ペンをもう一度彼の前へ置く。
「署名して。詩乃の生活を一番に考えて、必要なことは弁護士を通して決めよう。養育費も面会も、全部書面にしてあるから」
義母が書類へ手を伸ばした。
すぐに押さえる。
「佐伯さん、これ以上邪魔をするなら、この先の話は全部弁護士を通します」
義母の手が止まった。
直人は長い時間黙っていたが、最後にはペンを拾った。署名欄に名前を書く途中、一滴だけ涙が紙へ落ちた。
書き終えると何も言わず立ち上がり、そのまま部屋を出ていった。
離婚後、私は旧姓の宮下へ戻った。家庭裁判所で詩乃の氏を変更する手続きを済ませ、役所に入籍届を出した。
それから娘は、宮下詩乃になった。
役所を出た日は、よく晴れていた。
腕の中の娘へ小さく笑いかける。
「詩乃、今日から二人で新しい生活を始めよう」
7
離婚から3か月後、詩乃の百日祝いの記念写真を撮る準備をしていると、奈緒が怒った顔で家へ飛び込んできた。淡い色の服へ着替えた詩乃は、マットの上で何も知らずに両手を動かしている。
奈緒はスマートフォンをローテーブルへ置いた。
「美咲、佐伯さん本当にどうかしてる。前に住んでたマンションのLINEグループで、こんなこと言ってる」
画面には元義母から送られた音声が残っていた。
『うちの元嫁ね、妊娠中からしょっちゅう家を空けてたのよ。うちの直人は真面目な子なのに、あの赤ちゃんが本当に直人の子かどうかも分からないでしょう? 生まれてすぐ離婚したのだって、何か後ろめたいことがあるからよ』
詩乃を抱く腕に、思わず力が入った。
奈緒がさらに記録を見せてくれた。元義母はマンションの住民だけでなく、近所の商店街や地域の体操サークルでも、私が妊娠中から浮気していたと吹聴していた。
それだけではない。私の勤務先の受付にまで現れ、以前プロジェクトで撮影した男性同僚との集合写真を加工し、周囲の人物を切り取って「不倫相手」だと言いふらしていた。
「これ、さすがに放っておいちゃ駄目だよ」
奈緒の手は怒りで震えている。
腕の中の詩乃まで不安を感じたのか、小さく泣き始めた。
娘の顔を見て、ようやく決心した。
まず直人へ、元義母が流しているメッセージをすべて送った。詩乃の出生まで疑われ続けることを避けるため、直人自身もDNA鑑定を受けることに同意した。
結果は、言うまでもなく直人が父親だった。
それで終わらせるつもりはなかった。
数日後、以前住んでいたマンションの近くを通った時、元義母が数人の住民と話している姿を見つけた。
また泣きながら、自分の息子がどれほど可哀想かを訴えている。
「直人は本当に人が良すぎるのよ。自分の子かどうかも分からないのに、毎月養育費まで払って……」
そのまま近づいた。
「佐伯さん。今の話、私の前でもう一度言ってもらえますか?」
元義母の顔が一瞬こわばる。
けれどすぐに胸を張った。
「何よ。私、何か間違ったこと言った?」
「分かりました」
録音中のスマートフォンを見える場所へ置く。
「どうぞ、続けてください」
元義母の口が止まった。
スマートフォンに保存していた資料を開く。
「妊娠中の健診記録は全部残っています。妊娠週数も予定日も確認できます。それから、佐伯さんが詩乃の父親について何度も噂を流すので、直人と詩乃はDNA鑑定も受けました」
周囲にいた人たちが顔を見合わせる。
元義母の表情から、少しずつ自信が消えていった。
それ以上言い争わず、その場を離れた。
帰宅してから弁護士へ連絡した。マンションのLINEグループに残っていた音声、親族へ送ったメッセージ、勤務先へ押しかけた記録、加工された写真など、証拠になるものを一つずつ整理した。
数か月後、裁判所で和解が成立した。
佐伯千代子は慰謝料として30万円を支払い、これまで投稿した内容を削除したうえで、マンションの住民LINEグループにも訂正文と謝罪を出すことになった。
裁判所を出ると、直人が後ろから追いかけてきた。
数か月ぶりに会った彼はずいぶん痩せ、髭もきれいに剃れていなかった。
「美咲」
足を止めた。
「母さんも、もう分かったと思う。俺も本当に悪かった」
声はかすれていた。
「もう一回、やり直せないか?」
その顔を見ていると、結婚前の直人を思い出した。あの頃も目を赤くしながら、絶対に幸せにすると言ってくれた。
私はその言葉を信じた。
けれど本当に守ってほしかった時、直人は何度も私に「我慢して」と言った。
伸ばされた手から、ゆっくり自分の手を引く。
「あなたのお母さん、ずっと私のこと『佐伯家に悪いものを呼び込む女』みたいに言ってたでしょう?」
直人が黙る。
少しだけ笑った。
「だったら、そんな女とはやり直さない方がいいんじゃない?」
直人はその場に立ち尽くし、それ以上追いかけてこなかった。
少し離れたところで、奈緒がベビーカーを押しながら待っていた。
私を見つけた詩乃が、すぐに両手を伸ばす。
抱き上げると、小さな手で髪をつかまれた。嬉しそうに笑う声を聞きながら、その身体を胸元へ引き寄せる。
初夏の風が青岬の街を吹き抜け、道沿いには白いクチナシの花が咲いていた。
今度こそ、振り返ることはなかった。
(完)




