婚約破棄された聖女ですが、初雪の夜に交わした約束を忘れていませんか? ~前世の記憶を取り戻したので、あなたを捨てて竜の国へ嫁ぎます~【短編/ざまぁあり/ハッピーエンド】
「聖女セラフィーナ。お前との婚約を破棄する」
王城の大広間に、その声が凍りついた空気を裂いた。
窓の外では、今年最初の雪が舞い始めている。初雪だ。
王太子アルヴィスは、金髪をかき上げながら、玉座の前で私を見下ろしていた。
「癒しの力も枯れかけた偽聖女に、王妃は務まらん」
その隣で、男爵令嬢ミレイユが栗色の巻き毛を揺らし、勝ち誇ったように微笑む。
「本物の聖女は、わたくしですわ」
――ああ、そう。
私、セラフィーナ・アルヴェンディアは、静かにその言葉を受け止めた。
幼い頃から、この国のために聖力を捧げてきた。魔物に傷つけられた民を、無償で癒し続けてきた。夜も眠らず、倒れかけても、「国のため」と自分を後回しにして。
それが――「偽聖女」。
喚こうとは思わなかった。ただ、胸の奥がしんと冷えていくのを感じた。
そのときだった。
窓の外で、雪がひときわ大きく舞った。ひとひらが、まるで時を巻き戻すように、視界を白く染めて――。
頭の奥で、何かが弾けた。
(――そうだ)
記憶が、雪崩れ込んでくる。
(私は……日本で……過労で倒れた、看護師だった)
前世の名は、初雪。
夜勤明けの病棟。数字で管理される命。魔力回路の解析にも通じた、理系研究職としての冷静な目。
すべてが、一瞬で戻ってきた。
(バイタルも取らずに偽物認定とは。殿下は、問診票も読めないのかしら)
口元に、思わず笑みが浮かびそうになる。
そして――もう一つ、思い出した。
初雪の夜の、あの約束を。
*
10年前。
あれも、初雪の夜だった。
魔物討伐の帰り、王都の外れの森で、私は倒れている少年を見つけた。
白銀の髪。背中には、見たこともない氷結の紋様。竜人の少年だった。
全身が傷だらけで、呼吸も浅い。放っておけば、朝を迎える前に死ぬ。
幼い私は、震える手で聖力を注いだ。誰にも言わず、ただ一人で、朝まで彼のそばにいた。
意識を取り戻した少年は、薄氷色の私の瞳をじっと見つめて、掠れた声で言った。
「……名前を、教えて」
「セラフィーナ」
「セラフィーナ」
彼は、その名を大切に舌に乗せるように繰り返した。
私は、癒しの祈りを込めた白い髪紐を、彼の手に握らせた。
「これを。……早く、元気になってね」
少年の瞳が、まっすぐに私を射抜いた。
「必ず迎えに来る。この初雪に誓って――君を、生涯守る」
その言葉の重さを、幼い私はよく分かっていなかった。
やがて彼は竜の国へ帰り、記憶は雪のように曖昧に溶けていった。
――けれど、今なら分かる。
(あなたは、あの約束を、忘れていないのね)
目の前では、アルヴィスがまだ何かをまくし立てている。ミレイユが甘い声で相槌を打っている。
どうでもよかった。
私は前世の記憶とともに、もう一つの真実を取り戻していた。
私の聖力は、枯れてなどいない。
それは――この大陸全土を、独りで浄化するために消費されていたのだ。
*
私は、ゆっくりと顔を上げた。
「かしこまりました、殿下」
大広間が、しんと静まり返る。
「では、この国の聖女職を辞させていただきます」
淡々と、けれど凛と響いたその声に、ざわめきが広がった。
アルヴィスが眉をひそめる。
「……なんだと?」
「殿下がお認めにならないのなら、無理に留まる理由もございません。本物の聖女様が、いらっしゃるのですから」
私は、ミレイユに向かって、雪解けのような微笑みを向けた。
ミレイユの顔が、一瞬こわばる。
(そう。あなたの力が、私の近くでしか発動しないこと――私は、気づいているわ。でも、今は言わない。いずれ国が、証明してくれる)
ミレイユの「聖女の力」は、私が張り続けてきた大陸浄化結界に、便乗しているだけの借り物だった。私が離れれば、彼女の奇跡は消える。
「セラフィーナ様!」
悲鳴のような声。私付きの侍女、ノエルが人垣を割って駆け寄り、涙を堪えながら私の前に立ちふさがろうとした。
「殿下、あんまりです! セラフィーナ様がどれほど――」
「ノエル」
私は、静かに彼女の肩に手を置いた。
「いいの。行きましょう」
広間の隅で、父ガーランド侯爵が、拳を握りしめて俯いていた。何かを言いたげに、けれど王家への忠誠に縛られて動けずにいる。
(お父様。もう、大丈夫ですよ)
私は、深く一礼した。
背を向け、初雪の舞う扉の向こうへ、まっすぐに歩き出す。
喚きも、涙もなかった。
ただ――これが、私の断罪の始まりだった。
*
聖女職を辞した私が向かったのは、冒険者ギルドだった。
「鑑定スキルの登録を?」
受付嬢が、魔導具に手を触れた私を見て、目を丸くした。
「……Sランク、です。それに、治癒スキルも……こんな数値、初めて見ました」
「あら、そう」
前世で命を数字で管理してきた私にとって、魔力回路の解析は朝飯前だった。
そして、真価を発揮したのは――回復薬づくり。
「ノエル。この薬草、煮出す前に必ず器具を熱湯で消毒して。雑菌が混ざると効能が落ちるの。命は、数字で管理するものよ」
「はい! ……セラフィーナ様、この『しょうどく』って本当にすごいですね。傷の治りが段違いです」
前世の衛生・薬学知識で作った回復薬は、たちまち評判になった。
従来品の半分の量で二倍効く。しかも安価。
冒険者たちが列をなし、注文が殺到した。
ノエルは、意外な商才を発揮して帳簿と在庫管理を一手に引き受けてくれた。
「今月の売上、また記録更新です! これなら、竜の国だろうがどこだろうが、余裕で暮らせますよ!」
「頼もしいわね。……あら、なんだか外が騒がしいわ」
ギルドが、にわかに騒然となった。
「竜の国から国賓が――『氷竜』の将軍がお見えになるそうです!」
その名を聞いた瞬間、私の胸の奥で、何かが小さく震えた。
*
その男は、雪よりも静かに現れた。
白銀の長髪。凍てつくような蒼氷の瞳。背には、竜人の証たる氷結の紋様。
竜の国リンドヴルムの若き将軍――ジークヴァルト・ヴェルンハルト。
戦場では一切の私情を挟まぬ冷酷さで、大陸中の兵に恐れられる『氷竜』。
ギルドの空気が、ぴりりと張りつめた。
彼は、ゆっくりとホールを見渡し――そして、私で、その視線を止めた。
時間が、止まったようだった。
蒼氷の瞳が、大きく見開かれる。
次の瞬間。
その冷酷無比と謳われた武人の頬を、一筋の涙が、静かに伝った。
「……ようやく」
掠れた声。
「ようやく、見つけた。……10年、探した」
彼は、大股で歩み寄り、私の前で――片膝をついた。
ギルド中がどよめく。
「しょ、将軍が膝を!? 氷竜が、泣いてる……!?」
ノエルが目を白黒させている。
彼は震える手で、懐から何かを取り出した。
色褪せた、白い髪紐。
10年前、私があの初雪の夜に、瀕死の少年へ握らせたもの。
「これを、ずっと……肌身離さず。この日を、待っていた」
私の胸が、締めつけられた。
「……あなたが、あの夜の」
「そうだ」
ジークヴァルトは、まっすぐに私を見上げた。氷の将軍とは思えぬ、まるで初恋にこじらせた少年のような、不器用な瞳で。
「セラフィーナ。竜の国は、とうに気づいていた。……この大陸の浄化を、君がたった一人で背負ってきたことを」
息を呑んだ。
「だから、迎えに来た。君を、あんな国から――」
初雪が、窓の外でまた舞い始めていた。
約束が、10年の時を越えて、私の前に還ってきた。
*
一方、その頃。レステリア王国は、崩壊の淵にあった。
私が去った直後から、魔物汚染が爆発的に拡大したのだ。
各地で結界が破れ、澱んだ魔力が地を蝕み、作物は枯れ、民が倒れていく。
頼みの綱であるはずのミレイユの「聖女の力」は――まったく、通用しなかった。
「な、なぜですの!? どうして、聖力が発動しませんの!?」
浄化結界の要であった私が去った今、便乗する相手を失ったミレイユの力は、ただの空っぽの祈りにすぎなかった。
「わたくし、なにも知りませんの……! こんなの、聞いてませんわ!」
可憐な仮面が剥がれ落ち、その下から醜い焦りが露わになる。
玉座の間では、アルヴィスが青ざめた顔で叫んでいた。
「なぜだ! なぜ、こんなことに!? ……私は悪くない! 私は、聞いていなかっただけだ!」
責任転嫁の言葉が、虚しく響く。
汚染は王都にまで迫り、貴族たちは我先にと逃げ出し始めていた。
そしてついに、アルヴィスは――かつて自ら「偽聖女」と切り捨てた女に、泣きついた。
国のためでも、民のためでもない。
ただ、自分の保身のために。
「セラフィーナを呼び戻せ! 早く! あの女がいなければ、この国は――!」
王家の使者が、慌ただしく私のもとへ走った。
だが、時すでに遅く。
事態は、すべてが白日の下に晒される――王国存亡会議へと、雪崩れ込んでいった。
*
王国存亡会議。
国中の貴族が集う公開の場に、私は――ジークヴァルトを伴って、静かに姿を現した。
「セラフィーナ! よく戻った! さあ、早くこの汚染を――」
アルヴィスが、みっともなく取りすがろうとする。
だが、その前に、ジークヴァルトが一歩進み出た。
氷竜の威圧に、広間が凍りつく。
「証言しよう。彼女は10年、たった一人で、この大陸の魔力汚染を抑え続けてきた」
彼の声が、朗々と響いた。
「竜の国は、早くからそれに気づいていた。だからこそ――迎えに来たのだ」
ざわめきが、広間を満たす。
そこへ、鑑定の魔導具が運び込まれた。
ミレイユの「聖女の力」を、公開の場で検証するために。
私は、静かにミレイユを見た。
「どうぞ、鑑定を。……本物の聖女様なら、何も恐れることはないでしょう?」
「い、いや……わたくしは……」
青ざめるミレイユの手に、魔導具の光が触れる。
魔導具が示した結果は――無。
「聖力、検出されず。この者の過去の『奇跡』は、すべて外部結界への便乗と判定」
広間が、爆発するようにどよめいた。
「借り物……!?」
「偽物だったのか、聖女は――!」
ミレイユが、へなへなと崩れ落ちる。
そのとき。
ずっと沈黙を強いられてきた父、ガーランド侯爵が、堰を切ったように立ち上がった。
「もう、黙ってはおれん!」
武門の当主の怒声が、広間を震わせた。
「我が娘は、幼き頃より身を削り、この国を独り支えてきた! それを王家は当然の義務と踏みにじり、あまつさえ偽聖女と断じた! ……私は、父として、それをずっと見過ごしてきた。だが、もう許さぬ!」
父の目に、涙が光っていた。
「初雪の夜、幼いセラフィーナが竜人の少年を救ったこと――私は、覚えております。あの子は、ずっと、誰かのために生きてきたのです」
名誉が、回復されていく。
真実が、すべての人の前に明らかになっていく。
私は、静かに息を吸った。
*
私は、崩れ落ちたアルヴィスとミレイユを見下ろした。
怒りは、なかった。
ただ、雪のように静かな微笑みを浮かべて、告げる。
「殿下」
その一言に、アルヴィスがびくりと肩を震わせた。
「枯れかけた偽聖女は、竜の国が丁重にお迎えくださるそうです」
「セ、セラフィーナ、待て……! 私が悪かった! 婚約破棄は撤回する! だから――」
「どうぞ」
私は、彼の言葉を、静かに遮った。
「本物の聖女様と、この国を守ってくださいませ」
ミレイユを一瞥する。空っぽの祈りしか持たぬ、借り物の聖女を。
アルヴィスの顔が、絶望に染まっていく。
失って、初めて気づいたのだ。
自分が何を切り捨てたのか。この国の生命線が、誰だったのかを。
「い、いやだ……行くな……! お前がいなければ、この国は――!」
「それは」
私は、微笑んだまま言った。
「……もっと早く、気づいておくべきでしたね」
喚きも、罵りもいらなかった。
ただ静かに背を向けることが、何よりの断罪だった。
ジークヴァルトが、そっと私の肩を抱いた。
「行こう、セラフィーナ。……もう、君を苦しめるものは、何もない」
「ええ」
ノエルが、涙を拭いながら私に駆け寄る。
「セラフィーナ様、どこまでもお供します! ……ふん、あんな王太子より、髪紐一本を10年抱えた将軍様のほうが、百倍まともですよ!」
私は、思わず小さく笑った。
背後で、崩れゆく王家の悲鳴を聞きながら。
私たちは、初雪の舞う王城を、後にした。
*
そして、再び――初雪の夜。
竜の国リンドヴルムへ向かう道すがら、雪化粧をした静かな丘の上で。
ジークヴァルトが、私の前で、片膝をついた。
10年前と、同じように。
けれど今度は、瀕死の少年ではなく、私を守ると誓う一人の男として。
「セラフィーナ」
蒼氷の瞳が、まっすぐに私を見上げる。
その手には、色褪せた白い髪紐。10年間、肌身離さず持ち続けたもの。
「あの夜の約束を、今度こそ果たさせてほしい」
雪が、ふたりの間に静かに舞い落ちる。
「生涯、君を守る。……永遠に」
氷の将軍と恐れられた男の、不器用で、まっすぐで、10年こじらせた初恋の告白。
私は、微笑んだ。
前世の名を、初雪という私は。
「ええ。……私も、約束します」
そっと、彼の頬に手を伸ばす。
涙が、頬を伝った。ずっと、誰かのためだけに生きてきた私の、初めて自分のために流す涙。
「今度は――私が、あなたを守る番」
ジークヴァルトの瞳が、大きく揺れた。
そして彼は、まるで壊れ物に触れるように、そっと私を抱きしめた。
「……ずっと、この日を待っていた」
「私も。……ようやく、帰れる気がするの。あなたのそばに」
雪が、ふたりを祝福するように、静かに、静かに降り積もっていく。
初雪の約束は、10年の時を越えて、ここに果たされた。
*
竜の国リンドヴルムで迎える、最初の冬。
私は、竜人と人間の架け橋として、新たな役割を得ていた。
前世の知識と聖女の力を活かし、竜の国の医療を改革し、両国の民を癒す。
もう、誰にも搾取されない。
ここには、私を大切にしてくれる人がいる。
「セラフィーナ様! 新しい治療院、大盛況ですよ! 帳簿がまた黒字です!」
ノエルが、そばかすの顔を輝かせて駆け込んでくる。この国でも、彼女は変わらず私の頼もしい右腕だ。
「ふふ、頼りにしているわ、ノエル」
窓の外では、竜たちが雪空を悠々と舞っている。
「セラフィーナ」
背後から、低く優しい声。
振り向くと、ジークヴァルトが少し照れくさそうに立っていた。その手には、不格好に包まれた贈り物。
「その……君に。何日も、悩んで選んだ」
氷竜と恐れられる男が、贈り物ひとつでこんなに緊張している。私は思わず笑みをこぼした。
「ありがとう。……開けてもいい?」
「ああ。……いや、待て、やはり気に入らなかったら――」
「ジーク」
私は、つま先立ちで、彼の頬に軽く口づけた。彼が、真っ赤になって硬直する。
これが、私の新しい居場所。私の、家族。
――そのときだった。
従者が、慌ただしく一通の手紙を運んできた。
「……あの、お取り込み中すみません。レステリア王国から、救援要請の手紙が届きまして」
封蝋には、見覚えのある紋章。
汚染は、いよいよ止まらぬところまで来ているらしい。かつて私を「偽聖女」と切り捨てた国が、今、私に助けを求めている。
私は、その手紙を、静かに見つめた。
ジークヴァルトが、私の隣に立つ。
「……どうする?」
私は、窓の外の初雪を見上げた。
そして、静かに微笑む。
「そうね。まずは――お茶でも淹れましょうか。返事は、それから」
雪は、まだ降り続いている。
私の新しい物語は、ここから始まるのだ。




