朝の遅刻
朝の遅刻
午前三時四十二分、台所の時計だけが七分遅れていた。
それに気づいたのは、その夜が初めてではなかった。前から少し遅れていた気もするし、今夜になって急にそうなった気もする。私は何日か前にも同じことを思ったはずだったが、そのとき直したのか、見て見ぬふりをしたのか、もう思い出せなかった。
部屋は静かだった。
冷蔵庫の低い唸りと、どこか遠くの道路をときどき通る車の音。そのあいだに、時計の針だけが小さく刻んでいる。遅れているくせに、妙に律儀な音だった。
私はマグカップを両手で持ちながら、流し台の前に立っていた。白湯はもうぬるくなっていて、飲む理由より持っている理由のほうが曖昧だった。眠れないから起きているのか、起きているから眠れないのか、そのへんの順番も曖昧だった。
時計を見る。
三時四十二分。
スマートフォンを見る。
三時四十九分。
七分。
ただの七分なのに、それが妙に遠く見えた。取り戻せるはずの短さなのに、一度ずれたまま戻ってこないものみたいだった。
私は椅子に座り、テーブルの上のノートを開いた。何か書こうとして開いたのではない。開いておけば、そのうち一行くらいは落ちてくるかもしれないと思っただけだった。言葉はいつも、決意のあとではなく、手持ち無沙汰の近くに来る。
けれど今夜は、何も来なかった。
白いページは白いままで、私の中もそれに似ていた。空っぽ、というのとは少し違う。何かがあるのに、まだ輪郭だけが届いていない状態。郵便受けに配達票だけ入っていて、本体は翌朝になる、みたいな感じ。
そのとき、台所の時計が一度だけ、変な鳴り方をした。
こ、とも、か、ともつかない、小さな音。
秒針が七のところで止まっている。
私は立ち上がった。
壊れたのだろうかと思う。でも次の瞬間、秒針はふっと動き出し、今度はいつもより少しだけ早く進んだ。二秒分くらいを慌てて取り戻すような動きだった。
私は時計の前まで行った。
丸い、どこにでもある安い壁掛け時計。白い文字盤に黒い針。生活感のない顔をして、毎日同じように時刻を差し出してくる道具。なのに今夜は、その白い盤面が妙に眠たそうに見えた。
「急がなくていいのに」
気づくと、そう口にしていた。
もちろん、時計が答えるはずはない。
けれど、答えはあった。
それは音ではなく、理解として来た。
朝が、少し遅れているだけです。
私は時計を見たまま、しばらく動かなかった。
今のは自分の考えだろうか、と最初に思う。疲れていて、そんなふうに勝手に意味をつけただけかもしれない。深夜の部屋では、無言の物にまで気持ちが映ることがある。
でも、その言葉は私の癖と少し違っていた。私はたぶん、そういうときもっと説明的に考える。故障かもしれない、とか、電池が弱っている、とか。朝が遅れている、なんて、そんな曖昧でやわらかい言い方は、あまりしない。
「朝が」
私は小さく繰り返した。
時計の針は何事もなかったように進んでいる。遅れたまま、律儀に。
窓の外を見る。向かいのマンションの廊下は暗く、非常灯だけが眠らない色で光っていた。空はまだ黒い。けれど、真夜中の黒ではなかった。もう少しでほどける黒。朝に渡す準備をしている黒。
私は急に、可笑しくなった。
たまにある。何も面白くないのに、世界のほうが少しだけ真面目すぎて、そこに可笑しさが生まれる夜が。
朝が遅れている。
それなら台所の時計の七分の遅れは、故障ではなく親切かもしれなかった。部屋だけが先に知って、少しだけ時間を緩めてくれている。まだそちらへ行かなくていいと、見えない誰かが伝えているような。
私はテーブルに戻り、ノートに一行書いた。
朝はときどき、少し遅れて来る。
書いたあとで、それが文章なのかただの報告なのか、自分でも分からなかった。でも、書く前より少しだけ息がしやすかった。
私は続けて書く。
その遅れは、寝坊ではない。 置いていかれそうなものを、 暗いうちに拾うための時間なのだと思う。
そこまで書いたとき、時計の音が少し変わった気がした。気のせいかもしれない。けれど、さっきまで硬かった秒針の刻みが、ほんのわずかにやわらいだ。責任感で進んでいたものが、ようやく納得して進み始めたような音だった。
私はペンを置いた。
置いていかれそうなもの。
その言葉に心当たりがあった。最近の私は、何かを失ったというより、何かを置いたまま先へ行こうとしていたのだと思う。言えなかったこと。決めなかったこと。返事をしなかった感情。そういう細いものを、生活の隅に仮置きしたまま、ちゃんと生きるほうを優先してきた。
それは間違いではなかったはずだ。
でも、仮置きのままでは、朝に連れていけないものがある。
時計は今も七分遅れている。
けれど、私は急に、その七分を責める気になれなかった。むしろそれは、遅れではなく余白に近かった。本来なら一続きに流れてしまう時間の中に、こっそり挟まれた、小さな受け取り時間。
私は白湯をひと口飲む。もうほとんど冷めていた。冷めているのに、飲み込むとちゃんと体の内側に落ちていくのが分かった。温かさだけが飲み物ではないのだと、そんな当たり前のことを少しだけ新しく思う。
やがて、窓の外がほんのわずかに薄くなった。
青とも灰色ともつかない色が、黒の底からにじみ出てくる。朝だ、と断言できるほどではない。けれど夜ではいられなくなった色だった。
私はもう一度、時計を見る。
三時五十八分。
スマートフォンは四時五分。
まだ七分。
なのに、なぜかもう正しい気がした。
遅れているのではない。この部屋の朝は、この速度で来るのだと思った。外の世界より少しゆっくり。拾い損ねたものが取り残されないくらいの速さで。
私はノートを閉じた。
今日がうまくいくかどうかは分からない。起きたあとで、また急いで、また何かを先送りにして、また普通の顔で日々のほうへ戻っていくのだろうと思う。それでも、今夜この七分があったことは、たぶん消えない。
全部は拾えなくていい。
全部を説明しなくていい。
朝に連れていけるぶんだけ、持っていけばいい。
そう考えると、少しだけ世界が軽くなった。
窓の向こうで、ようやく鳥が一度だけ鳴いた。早すぎる一声だったのか、続きはなかった。けれど、その途切れた鳴き声は、この部屋の時計によく似合っていた。
私は立ち上がり、壁の時計に手を伸ばす。
直そうとして、やめた。
今日はこのままでいい、と思った。
遅れたままの時刻にも、役目がある夜がある。
台所の時計は何も言わない。ただ白い文字盤の上で、黒い針が静かに朝を遅刻させていた。私はそれを少しだけ信じながら、薄くなり始めた部屋の中に立っていた。




