第九話 【タクシー怪談】後部座席の女②
野沢さんは僕の言葉に頷きつつ、沈んだ声音で語り続ける。
「……最初はね、気味が悪いな、気持ち悪いなと思ったんですよ。というのも、みかんタクシーではそれぞれのドライバーが運転する車両は、あらかじめ決められていましたからね。ひょっとして私の乗っている車の後部座席には、私にも見えない何者かが乗り込んでいるのではないかと、薄気味悪くなったんです。
思えば他にも奇妙な現象はいくつかありました。気づけばいつの間にか車両のフロントガラスに手形がべたべたとついていたり、運転中にたびたび車内からパシッという何かが破裂するような音が聞こえてきたり……とね。あと、ふわふわと奇妙な光が浮遊していたり、対向車の全くない場所でカメラのフラッシュをたいたような強烈な光が瞬くこともありました。
それにあの頃、妙な体調不良にも悩まされていましたね。子どもの頃から体力だけが取り柄だったのに、みかんタクシーで勤務を始めてから体じゅうに悪寒が走ったり、不意にキーンとした耳鳴りに襲われるといったことが、やたらめっぽう増えたのです」
そういえば、聞いたことがある。心霊現象には特有の音や光現象が伴うことがあると。野沢さんが体験したのもそれなのだろうか。前者はラップ音、後者はオーブ現象と呼ばれているのだとか。
また、怪奇現象に出くわした者が謎の体調不良に見舞われるのも、怖い話の定番だ。そちらは霊障と呼ばれていたような気がする。
「……私はもともと、あまり霊や怪奇現象を信じる性格ではありませんでした。ですが、一方で私の子どもの頃はまだまだ古い迷信……つまり河童や天狗、化け狐などの怪奇譚が身近に残っていた時代で、私自身も当たり前のようにそういったものに触れて育ちました。ですからその手の話を百パーセント否定する気にもなれなかったのです。
ひょっとしたら、いま運転している間にも後ろの座席には若くて髪の長い女の幽霊が……などと考えると居てもたってもいられず、私は頻繁に後部座席を振り返るようになりました。赤信号に引っかかった時は特にバックミラー越しに後ろを確認したりね。
最も緊張したのは同じみかんタクシーのドライバーと町中ですれ違う時です。彼らはいつも通り、私がタクシーを走らせて来るのに気づいて挨拶をしてくれるのですが、私は何食わぬ顔をしてそれに返事を返しつつも、内心ではそれはもう不安で……本当に落ち着きませんでした。
対向車を走るドライバーと一瞬だけ目が合うでしょう? その時、思うのです。あの目は何を見ているのだろう。対向車線で車を走らせる私、そして〈迎車〉の表示板と、誰もいないはずの後部座席。でもそれは全て本当のことだろうか。彼には私の見えない何かが見えているのではないか。
むしろ私が髪の長い女性客の姿を見ることができないだけで、彼女はずっと最初からこのタクシーに乗っていたのかもしれない。そう思うたび背中がぞくりと寒くなったものです」
確かに運転中のタクシーの車内は一種の密閉空間だ。そんな中、見えない誰かがすぐそばにいて、しかも自分の後ろにずっと座っているかもしれない。
昼間はまだ明るいからともかくとして、夜間やトンネルを走っている間、闇に紛れてその誰かが運転している自分を凝視しているのがバックミラーやサイドミラーに映り込むかもしれない。
顔の大部分を覆い隠すほどの黒い髪、その下から運転手に向けられる血走った目。
そして、どこにも逃げ場はないのだ――……。
想像するだけで背中に鳥肌が立つのを感じた。もしそんな状況になったら、僕だったらとても運転どころではなくなると思う。
野沢さんは机の上で右手と左手を組み、親指をせわしなく動かした。
「ほら、タクシーは様々なお客様を運びますでしょう? こう……少し特殊といいますか、泥酔されたお客様や産気づいた妊婦のお客様など、正気を失っていたり差し迫った事情を抱えていたり、そういった方々がご利用されることもよくあります。
怪談まがいの噂も全く聞かないわけではありませんでしたしね。
ただ、どんなお客様でも、目的地に到着すればそこで終わり。縁は切れる。けれど、例の髪の長い女性客はずっと私のタクシーの後部座席に座っているわけです。そうでもなければ、他のみかんタクシーのドライバーたちがみな口を揃えてその女性客の姿を見たとは言わないはずです。いつどこで彼らと出会うか、そのタイミングは決まっておらず完全にランダムなのですから」
緊張からか。野沢さんの肩が不意に一瞬、びくりと跳ねる。
「それを考えると、余計に胃の裏側がざらざらしてくるというか……気温の暖かい日でも後部座席が目に入るたび鳥肌が立ったものです。ああ、きっと今も彼女はそこにいるのだろうな……と」
談話室に沈黙が下りた。
タクシーの運転手は一日の大半をタクシーの中で過ごす。その間、常に意識させられるのだ。怪異とも呼べる存在のことを。それがどれだけ恐怖か。また、どれほどのストレスを受けるか。
僕にも容易に想像することができた。
「その女性は何者なのでしょうか。本当に、幽霊……なのでしょうか?」
僕は野沢さんにそう尋ねた。
僕は心霊現象を信じていない。むしろ、そんな話がごろごろ転がっているわけがないと常日頃から自分に言い聞かせているくらいだ。
しかし、目の前に座っている野沢さんの顔を見ると、とても嘘を言っているとも思えない。
しかも、どうやら野沢さん自身は一度も後部座席に座る髪の長い女性を見たことがない様子だ。本当にその女性は存在しているのだろうか。
僕の問いに、野沢さんは首を捻った。
「さあ……私には何とも。いかんせん、例の後部座席の女性は、私には全く姿が見えなかったのでね。
しかし、同僚のドライバーの指摘は続きました。『おい野沢、今日もあの髪の長い女性客を乗せていたな』、『しかし、いくらなじみの客とはいえ、表示板の表示はきちんとしろよ』……毎日毎日、そう注意され続けた結果、自分が自覚していた以上に追い詰められていたんでしょうね。とうとうタクシーの営業中に事故を起こしそうになってしまいまして。
幸い、その時は大事に至らなかったのですが、これは危ない、いつか大きな事故を起こしてしまう、人身事故にでもなったら大変だと大きな危機感を抱き、私はついにそのことを他の誰かに相談してみることにしたんです。
とはいえ、大の大人が心霊現象に悩んでいるなんて、おいそれと口にすることはできません。ましてや、みかんタクシーのドライバーに打ち明けるなんて、もってのほかです。彼らは善意で私に忠告してくれているのでしょうから。
あの女性は存在しない幽霊なのではないかなどと口にしたら、きっと気を悪くさせてしまうでしょう。それだけは避けたかった」
その気持ちはよく分かる。誰だって、敢えて人間関係を損ねることをしたいとは思わない。自分の所属する組織に対して恩を感じていたら、なおさらだ。
「幸い、当時、私には行きつけの居酒屋がありましてね。そこの大将と仲が良かったので、それとはなしに後部座席の女性の話をしてみたんです。すると、大将はからからと笑うんですよ。『ははは、お客さん、そんな幽霊なんているわけないでしょ。そいつはね、きっと仲間のドライバーにからかわれているんですよ』と言ってね。
……その時、私は初めて気づいたんですよ。みかんタクシーのドライバーたちが私に対して嘘をついている可能性があることに」
もちろん、それは大いにあり得るだろう。正直、僕も疑問を抱いたくらいだ。みかんタクシーのドライバーたちは本当のことを言っているのだろうか、本当に髪が長くて若い女性が後部座席に座っているのを目撃したのだろうか、と。
「でも、野沢さんは他にも奇妙な体験をしているんですよね? タクシーのフロントガラスに手の跡がついていたり……あと、他にも奇妙な音を聞いたり、不思議な光を見たとも仰っていました」
敢えて質問をぶつけると、野沢さんは何でもないことのようにすんなり答えた。
「ええ、その時は怪奇現象に違いないと思っていたのですがね、冷静に考えるとそれなりに原因の説明がつくことばかりなのです。
まずは謎の手形ですが……私たちドライバーも昼は食事をとるために休みますし、飲食店に入ることもあります。そういった時に、他の誰かが故意、あるいは不注意でフロントガラスに触れてしまい、手の跡を残したのかもしれません。
また、奇妙な音がした理由は車の調子が悪かったからかもしれませんし、光の方もね。道路の周囲というのは信号や電光掲示板など光を発する物が多く設置されていますから、そういった光がたまたま私の目に飛び込んできただけという可能性もあります。
そもそも光は人間の予想を越えた軌道を描くことも多いですし、反射光ともなると光源を特定するのは難しいでしょう」
「なるほど……たしかに筋は通っていると思いますが……。では、霊障とも見られる体調不良の原因は何なんでしょう? それを気のせいで片づけるのは、少々、乱暴なのではないでしょうか?」
「それも簡単な話ですよ。タクシードライバーというのはけっこう激務なんです。暑かろうと寒かろうと、それこそ台風の日も雪の日もタクシーを走らせなければならないのですから。ですので、あまりの忙しさに体調を崩したとしても何ら不思議ではありません。
また、タクシードライバ―は不特定多数のお客様と接する仕事ですので、他の……例えば事務職などに比べても風邪や感染症にかかりやすいとも考えられます」
野沢さんの説は、言われてみると確かにその通りだと頷けるものばかりだった。怪奇現象は存在しないがモットーである僕としても、幽霊の存在よりもよほど受け入れやすい。
ただ、それだと大きな疑問が残る。
「でも、もし野沢さんのタクシーの後部座席に髪の長い女性客なんて最初からいなかったとしたら、どうしてみかんタクシーのドライバーの皆さんはそんな偽りの存在をでっちあげて嘘をついたのでしょうか?」
しかも女性客の存在を指摘したのは、一人や二人ではないという。つまり彼らは口裏を合わせていた可能性があり、はっきり言ってかなり悪質な行為に当たるのでは。
野沢さんも顔を曇らせて頷いた。
「私もすぐにその疑問が頭に浮かびました。新人タクシードライバ―に対し、何度も後部座席に女性の幽霊がいることをほのめかせば、当のドライバーは大なり小なりそれを気にするでしょう。特にその手の話が苦手な人にとっては最悪のシチュエーションでしょうし,、そうでなくたって注意が散漫になったり運転に集中できなくなってもおかしくはない。
最悪の場合、事故に繋がることも考えられます。冗談やいたずらにしてはあまりにも度が過ぎている。それは、みかんタクシーのドライバーも理解していたはずです。
そもそも、独立経営をしている個人タクシーとは違って、タクシー会社に属するドライバーは運命共同体的なところがあります。何しろ、同じ会社のドライバーが事故を起こせば、無事故無違反の他のドライバーたちも『事故を起こしたタクシー会社の運転手』という目で見られるのですから。いわば、タクシー会社のドライバーは連帯責任を負っているようなものなのですよ。
特にみかんタクシーはのどかな郊外に事業所を構えており、地域密着型でお客様との距離も近かったものですから、なおさらその傾向が強かった。つまり、新人ドライバーにいたずらを仕掛けるのは、あまりにもリスクが高すぎるのです」
確かに理論上はそうだろう。けれど、人間は必ずしも理論通りの正しい行動をするとは限らないのだ。
「でも……こう言っては何ですが、世の中にはそういった物事の善悪や損得を冷静に考えられる人ばかりではないですよね。もしそうなら、イジメはこの世からとっくになくなっているはずです」
これもまた、敢えてひねくれた問いをぶつけてみたのだが、野沢さんは特に反論することなくあっさりとそれを認めた。
「夏目さんの指摘の通りですね。どれだけ表面では笑っていても、何が原因で恨みや妬み嫉みを買っているか、誰にも分からないものです。私もそれに気づき、俄かにみかんタクシーのドライバーたちに警戒心を抱いたんです。ところが……」
「何か起こったんですか? 嫌がらせをされた……とか?」
「いいえ、残念ながら何も。悪意を見出せるほどの出来事は何ひとつ起こりませんでした。みかんタクシーのドライバーたちは私が入社した時と同じように気さくに接してくれましたし、喫煙所でもいつものようにドライバーどうしで会話をしていました。昨夜はへべれけ状態になって泥酔している男性客がしつこく絡んできて大変だったという愚痴や、最近はよく某所で警察が取り締まりをしているからそのあたりの道は避けた方がいいといった情報共有。あとはひいきにしているプロ野球チームの話題など、いつも通り和気藹々とした雰囲気でしたね。
中には私に声をかけてくれる先輩ドライバーもいましたが、大抵、『野沢、そろそろこの会社にも慣れただろう? 困っていることがあったら何でも相談しろよ』といった声がけが多く、そこに悪意は全く感じられませんでした。
そんな中でも、時たま例の後部座席に座った女性の話題が出ていたのですが、その時もね、陰湿な感じは全然しないんですよ。みな心から善意で私に忠告してくれるとしか思えなかった。考えてみると、みかんタクシーの人間関係は良好で職場環境も整っており、これと言って大きなトラブルもないのですから、そもそも噓をついてまで他者に嫌がらせをする理由が無いのです」
野沢さんの言うことが本当であるなら、確かにみかんタクシーはとても働きやすい職場であるようだし、同僚のドライバーがわざわざリスクを負ってまで、手の込んだ嫌がらせをする理由はないように思える。
「そうですか……でも、彼らが嘘をついていないとなると、本当に女性の幽霊か何かがいたということになってしまいますが……それは何となく釈然としませんね」
野沢ざんも困り果てた顔をして、首を縦に振った。
「当時の私も、その辺をはっきりさせたいと思いました。でないと仕事に集中できませんからね。迷った末、私は意を決して同僚のドライバーたちに尋ねることにしました。本当に私がタクシーの表示板を〈回送〉や〈迎車〉にしている時、後部座席に髪の長い女性が座っているところを目撃したのか。もし本当にその場面を目撃したのなら、その女性の雰囲気や容姿を詳しく教えて欲しい、と」
「みかんタクシーの方たちからは、どのような答えが返ってきたんですか?」




