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第八話 【タクシー怪談】後部座席の女①

 その日も僕はアルバイトのため、狩森図書館に向かった。


 学校の授業が終わってから図書館に直行したので、今回も制服を着たままだ。


 狩森図書館のバイトは曜日が決まっているが、時おり予定日外の時に茜音さんに呼ばれることがある。そういった時は、事前に携帯のコミュニケーションアプリに連絡がある。今日も高校の昼休憩の際に連絡が入ってきた。そのため、急遽、こうして狩森図書館に足を運んだというわけだ。


 竹林のそばにある駐輪場に自転車を停め、雑木林を潜って狩森図書館の重厚な玄関扉を開ける。すると、茜音さんが僕を出迎えてくれた。


「すみません、夏目さん。突然、このような形で怪談の聞き手役をお願いすることになってしまって」


「気にしないでください。僕、クラブ活動をしていないので、比較的、時間の融通が利くんです。話し手の方はこれから来られるんですか?」


「ええ。遠方からのお客様で、交通手段や日程の都合上、今日しか時間が取れないのだそうです」


 そんなに遠くから狩森図書館に足を運ぶ人がいるのか。


 しかも、怪談を話すためだけに。


 僕はそのことにひどく驚いた。ひょっとしたら、この図書館の存在は一部の界隈ではよく知られているのかもしれない。


 談話室で待機していると、ほどなくして怪談の語り手が姿を現す。


 語り手は七十代ほどの物腰柔らかな男性だった。頭は総白髪で、上品な笑みを浮かべている。ポロシャツにベスト、スラックスと服装もきちんとしていて、肩に革製のショルダーバッグをかけていた。ハンチング帽がよく似合っている。


 男性はそのハンチング帽を脱ぐと、僕たちに向かって軽くお辞儀をした。


「すみません。少しお尋ねしますが、こちらが狩森図書館で間違いありませんか?」


「はい。私は館長の狩森茜音です」 


「僕は怪談の聞き手役を務めます、夏目悠貴です。本日はよろしくお願いします」


 茜音さんと僕はほぼ同時に立ち上がって男性に頭を下げる。男性は茜音さんに促され、談話室の中に足を踏み入れた。


「……いえ、こちらこそ、お時間を取っていただきありがとうございます。それにしても、こんな若い方々が怪談のお相手だとは思いもしませんでした。怪談を蒐集しておられると聞いていたので、てっきり学者さんか民俗学系の研究者の方かと思っていたのに」


 男性は驚いた様子ではあったものの、僕や茜音さんに悪印象を抱いたというわけではなさそうだった。にこにこして物珍しそうに談話室の室内を眺めている。


 茜音さんは給湯室からお茶を運んできて男性に出した。それから中央のテーブルに僕と男性が向かい合い、そして茜音さんは入り口そばの文机と、それぞれいつもの定位置に座ったあと、僕は男性に名前を尋ねる。もちろん、本名を明かすのが嫌であれば匿名でも構わないことも付け加えて。


 すると男性はにこやかに笑って自己紹介を始めた。


「私は野沢(のざわ)清史(きよし)といいます。今はもう廃業しましたが、現役時代はタクシーの運転手をしていました。山深い田舎の村で生まれ育ちましてね。子どもの頃は川で魚を釣ったり、季節の木の実やキノコを採ったり、年から年じゅう野山を駆けずり回って過ごしたものです。ですが、就職を機にとある地方都市へ移り住みました」


「そうなんですね。その……やはり田舎では仕事がないからですか?」


「それもありますが、私が中学生になったころ、ちょうど地元でダム開発の話が持ち上がりましてね。今では私の故郷は水の底に沈んでいます。ですから遅かれ早かれ村から離れなければならなかったのですよ」


 野沢さんの口調はさっぱりしていた。故郷に未練がないわけではないだろうが、いかんせん何十年も前の話だ。とうに気持ちの整理はついているのだろう。


「けれど、最初からタクシーの運転手になろうと思っていたわけではないんです。実家の都合もあって、私は高校や大学に進学することができませんでした。ですから、その後の人生を考えても手に職をつけるのが望ましいだろうと考え、まずは金属加工を担う町工場に就職したのです。ところが、その工場というのが、とんでもない労働を強いるところでしてね。今でいうところのブラック企業ですよ」


「ブラック企業って……最悪じゃないですか」


 僕は思わずそう口にしていた。まだ高校生だから就職はしたことがないものの、ブラック企業と呼ばれる一部の企業や会社がいかに悪逆非道かは、ニュースなどでそれなりに知っているつもりだ。


 僕の反応を見て野沢さんは苦笑した。


「ええ。工場ですから、暑いとかうるさいとか、重労働であるといった点は覚悟の上でした。ところがそれに加え、先輩工員による殴る蹴るの暴力は当たり前。手や足が出るならまだいい方で、ひどい時は工具を振り回して容赦なく殴りつけてくるんです。もう、体じゅう痣だらけですよ。先輩工員の機嫌次第でいくらでも暴力を振るわれるものですから、私ら新入りはいつもビクビクして作業をしていました。

 加えて工場内では日々、下っ端の従業員に対する罵詈雑言が当然のように飛び交い、陰口や悪口、いじめまがいの行いも横行していました。当然、職場の雰囲気は最悪です。そんな劣悪な労働環境に耐えかね、作業員が突然、失踪してしまうことも珍しくなかった。

 そんな中でも、私は必死で工場での仕事に食らいついていたのですがね。無理が祟ったのか、とうとうある日、作業中に手を怪我しまして、即日クビになってしまいました」


「それはひどい話ですね。いくらブラック企業といったって酷すぎます」


 眉をひそめると、野沢さんは大きく頷く。


「当時はまだ高度経済成長期の真っただ中でしたからね。確かに巷には景気のいい話が溢れていましたが、労働者の権利や健康状態、労働環境などは今よりずっと軽視されていて、それが当たり前の時代です。何せ、過労死が勲章とされていたくらいですから。コンプライアンスなんて言葉はもちろん、概念すらもありはしませんよ」


「そうなんですか。昔はすごい好景気で、世の中は希望に溢れていたという話をよく聞きますけど、大変な部分も多かったんですね」


「ふふ、今の若い人たちには、いろんな意味で信じられない世界でしたよ」


 野沢さんは微笑んでから話を続けた。


「そんなこんなで、突如、失業してしまった私は、慌てて次の職を探しました。とはいえ、学歴はもちろん専門性も身についていない若造に、世間が優しくしてくれるわけが無かった。再就職活動は難航し困り果てていた時に、とあるタクシー会社が求人を出しているのを見かけたのです。

 資格の面など不安は多々あったのですが、追い詰められていた私は駄目もとでそのタクシー会社に問い合わせをしました。すると、どうやら感触は悪くない。ただ、タクシードライバーになるには一般の自動車免許……いわゆる第一種免許を三年以上、保有していることの他に、第二種免許の取得が必須だということを説明されました」


 野沢さんによると、故郷を出た直後に普通免許を取っていたので、第一種免許の方は問題なかったそうだ。ただ、二種免許を取るためには勉強しなければならないし、資格を取るための資金もいる。


 野沢さんは金属加工工場でためた貯金を全て使って第二種免許を取得し、再び例のタクシー会社に連絡したそうだ。すると、そのまま採用されることが決まったのだという。


「実際に就職してみると、そのタクシー会社……ここでは仮に、みかんタクシーとしましょうか。金銭面での待遇も悪くはなく、何より非常にアットホームな雰囲気で、ドライバー同士の仲もいい。業界のことなんか何も知らない私をみな歓迎してくれ、それはもう親切にしてくれました。社長も前に勤めていた工場長のように威張り腐ることなく、他の社員やドライバーたちから慕われているようでした」


 仮称なのは想像できるが、どうして『みかんタクシー』なのだろう。そう疑問に思った僕の考えを察したらしく、野沢さんはいたずらっぽく笑う。


「私の故郷では、みかんが名産品だったんですよ。それで、です」


 そういうことだったのか。疑問が晴れた僕は、野沢さんに自分の感じたことを伝える。


「……でも、本当に良かったですね。世の中にはひどい職場が存在するのは間違いないんでしょうけど、中にはちゃんとした良い会社もあるんですね」


「当時の私もそう思いましたよ。これぞまさしく、捨てる神あれば拾う神ありだ、とね。特に工場で辛い目に遭ったばかりでしたから、みかんタクシーでの勤務は私にとって天国のように感じられました。

 ドライバーの先輩たちも、とても面倒見の良い人たちでしてね。接客の仕方やタクシーを流すときのコツ、ちょっとした抜け道やどこの飲食店が美味しいかなど、さまざまなことを教えてくれました。

 もともと、ドライバー同士のコミュニケーションが活発な会社でしてね。こう、タクシーで街中を走っていると同じみかんタクシーの車両とすれ違うことも珍しくないんですが、そういう時はみな互いに合図を送りあったりしていましたね。みかんタクシーが営業していたのは地方都市の郊外で、人口もそれほど多くなかったため、競合する他社のタクシー会社は三社くらいのものです。つまり、単純計算して四台のタクシーとすれ違ったら、その中の一つはみかんタクシーということになる。そういう、ローカルな環境も関係していたかもしれません」


 当時のことが懐かしく思い出されるのだろう。野沢さんの目元は優しく、穏やかだった。


「とにかく、みかんタクシーは居心地が良かった。みかんタクシーという恵まれた労働環境でドライバーの仕事を身につけることができたからこそ、自分は一生タクシードライバーで食っていこうと決心することもできました。ですから、今でもみかんタクシーにはとても感謝しているんです」


「何だか、とても心温まるお話ですね。そういうお話を聞くと、人の縁って本当に大事なんだなと思います。こちらから選ぶことはできないし、悪縁に見舞われることもあるけれど、良縁に恵まれれば人生が開けることもあるんだなって」


「ええ、そうですね。まさしくその通りです」


 しかし、僕は再び疑問を抱いた。


 確かにみかんタクシーのエピソードは良い話だ。けれど、野沢さんは怪談をしに狩森図書館を訪れたのではなかったか。これまでのところ、怪談はその気配すら感じられないのだが。


 すると、野沢さんも僕の心境を察したのか、急に真顔になって声を潜めたのだった。


「……ただね、そのみかんタクシーで、奇妙なことが起こるようになったんですよ」


「奇妙なこと……ですか?」


「ええ。タクシーには車両の前方に表示板が取り付けられているのをご存知ですか?」


「はい、僕はまだ学生なのであまりタクシーに乗ったことは無いんですけど……〈空車〉とか〈賃送〉とかですよね?」


「そうです。〈空車〉はお客様を乗せていない状態、逆に〈賃送〉はお客様を乗せている状態のことですね。一方、タクシーはお客様を全く乗せていない、或いは乗せられない状態もあります。代表的なものですと、〈迎車〉や〈回送〉の時がそれです」


 なるほど、と僕は相槌を打った。


「確かに〈迎車〉は乗客の迎えに向かう時だから、タクシーの後部座席は当然、空ですよね。〈回送〉中は電車やバスなどでも乗客は乗れませんし」


「その通りです。お客様も表示板の内容を確認してからタクシーに乗るかどうかを決められますからね。表示板の操作にはとりわけ気を使っていました。……ところがある日、みかんタクシーのベテランドライバーからとある指摘を受けたのです。『おい野沢、後部座席に客が乗っている時は表示板を〈迎車〉じゃなく〈賃送〉にしなきゃ駄目じゃないか』、とね」


 思わぬベテランドライバーの忠告に、野沢さんは驚いて答えたそうだ。


『え……? いえ、ちゃんと切り替えているつもりなんですけど』


『いや、変わっていなかったぞ。後部座席に若い女性客を乗せていたのに、表示板は〈迎車〉になっているのを見たんだからな』


「……そのベテランドライバーが言うには、町中でタクシーを走らせていた時に、偶然、私の運転していた車両を見かけたそうです。そして、後部座席にお客様がいるにもかかわらず表示が〈迎車〉になっていることに気づいたのだとか。

 けれど、その話を聞いた時、私は違和感を抱きました。後部座席に座っていたという若い女性客が、長い黒髪をしていたという説明を聞いたからです。

 その日に髪が長く、おまけに若い女性客を乗せた覚えが、私には全くありませんでした。いくら駆け出しとはいえ、その日に担当したお客様のことはさすがにしっかり覚えています。特徴的な容姿をしたお客様ならなおさらです。

 ですから、ベテランドライバーの助言を受けた時、どうも妙だなとは思ったのです。けれど、そうは言っても私より何年も勤続している方の忠告ですし、自分でも気づかないうちにミスをしてしまったのだろうと考え、気をつけねばと心を改めました。ところが……」


 野沢さんは眉根を寄せる。


「注意をしてきたのはそのベテランドライバーだけではなかったのです。私はその後、みかんタクシーの他のドライバーたちからも似たような指摘をたびたび受けるようになりました。彼らの指摘はいつもだいたい同じで、町中でタクシーを流している時、たまたま私の運転する車両を見かけたが、後部座席に髪の長い女性が座っていたにもかかわらず、表示板が『賃送』以外になっている……つまり『空車』や『回送』などが誤って表示されているというものです。そして、やはり私にはそんなお客様をお運びした記憶はないのです」


 確かに、同じ指摘を何度も受けたら、自ずと表示板の扱いに慎重になるだろうし、客の年齢や性別、容姿にも注意を払うようになるだろう。だが、どんなに気をつけても、そんな客を乗せた事実は全くない。にもかかわらず、他のドライバーからの指摘は止むことが無かったそうだ。


 野沢さんは溜息をつく。


「わけの分からない注意も一度や二度くらいなら大したことはないのですが、それが何度も重なり、多い時ですと一日に幾たびもとなると、さすがにこう……気が滅入りましてね」


「お気持ちは分かります。それじゃ運転に集中できませんよね。そもそもタクシーは安全が第一なのに」



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