第七話 【ペット怪談】猫のマル③
「今回の語り手のお話は、とても不思議でしたね。あれも怪談……に入るのかな?」
僕が首を傾げると、茜音さんは淡く微笑んだ。
「そうですね。あまり怖くはありませんでしたけど……私はああいう温かいお話も好きです」
僕たちはいつものように閲覧テーブルを挟み、向かい合って椅子に座る。
「温かいかどうかは分かりませんよ。ひょっとしたら木村さんは、マルの生まれ変わりと信じたいがために、自分のペットのお尻にことごとく自分で黒い丸模様を描いているのかも……。普通はそう考えるのが現実的です」
本当のところは誰にも分からない。また、それを詮索したところであまり意味はないだろう。分かっていても想像せずにはいられない。もしかしたら、そういった裏があったとしてもおかしくはないのではないかと。
僕の発想にびっくりしたのか、茜音さんは目を見開いた。けれどすぐに、くすくすとおかしそうに笑い始める。
「夏目さんは、あくまで怪談は信じないという姿勢を貫くつもりなのですね」
「あ、いえ、仮定の話ですけどね」
「でも、もし夏目さんの言う通りなのだとしても……それはそれで切ないお話で良いと思います。私は好きです」
茜音さんは蒐集する怪談の中身にはあまりこだわっていないように見える。決して興味がないとかどうでもいいというわけではなく、あくまで語り手の意思を尊重することにしているのだろう。
確かに怪談には怖い話が多いが、怪奇譚は必ずしもその限りではない。狩森図書館は怪奇譚のような奇妙で不思議な話も含め、幅広く怪談を蒐集しているのだろう。
いずれにせよ、怪談や怪奇譚について話す時の茜音さんはとても温かい眼差しをしている。
「茜音さんは本当に怪談や怪奇譚が好きなんですね」
僕が指摘すると、茜音さんはまっすぐに僕を見つめた。
「おかしいと思いますか?」
「いえ、僕もそれはそれでいいと思います。僕は怪談を信じることはできませんが、それを信じる人を否定するつもりもありません」
「ありがとうございます、夏目さん」
それから茜音さんは少しいたずらっぽい目を僕に向ける。
「ただ、夏目さんの主張でいくと、木村さんは嘘をついていたということになってしまいますが……」
「さすがに僕も、そこまでは考えていません。それに、木村さんにとってマルが何度、死んでも生まれ変わって自分のそばにいてくれるのだというのは『事実』なのでしょうから」
小さく首を傾げる茜音さんに、僕は続けた。
「以前、茜音さんは僕に教えてくれましたよね。『聞き手には明らかな『嘘』でも、語り手にとっては紛れもない『真実』……そういったことも決して珍しくはない』、と。僕が怪談を信じられないからと言って、木村さんの信じていることを否定するつもりはありません。木村さんが自分の中の『真実』を信じるあまり周囲に害を為す人であれば話は別ですが、そうではありませんでしたし」
「……。私の言ったことを覚えてくれていたのですね」
茜音さんがあまりにも嬉しそうに微笑むので、僕は思わずどきりとしてしまった。
「そ……それはまあ、ついこの間のことですし……」
正直なところ、こんな反応を返されるとは思ってもみなかった。困ったな、心臓の鼓動が止まらない。心なしか頬が熱いし、耳まで真っ赤になっている気がする。
何とかこの場をやり過ごさなければ。焦って話題を探し、そしてあることを思い出した。
「……あ、そうだ! それより、神御目市には大きな市立図書館があるそうですね。今度、一緒に行ってみませんか? 大きな図書館なら、怪奇譚や民話といった比較的マイナーなジャンルに関する本も豊富に取り揃えているでしょうし、新たな発見があるかもしれませんよ」
神御目市立図書館は高校の通学路の途中にある。狩森図書館から自転車で十分ほどのところだ。図書館の建物は少し古いが現代的で、大きさもそれなりにある。蔵書も充実しているらしい。
ところが茜音さんは、表情を曇らせ首を振ったのだった。
「ごめんなさい、夏目さん。お誘いは嬉しいのですが、私はこの図書館から離れることはできないんです」
しまった、いきなり距離を詰め過ぎただろうか。そうだよな、これじゃまるでデートのお誘いみたいだ。高校生の僕なんて、大人っぽい茜音さんに比べればまだほんの子どもだろうし、相手にされなくても仕方がない。僕は慌てて両手を振る。
「そ……そうですよね! 茜音さんはこの図書館の館長ですもんね。怪談蒐集もしなければならないのだから、おいそれと休館にはできないでしょうし」
「……本当にごめんなさい」
「いいんです、気にしないでください」
とはいえ、全くショックを受けないわけではなかった。僕は謎多き茜音さんのことをもっと知りたいし、できるだけ親しくなりたいと思っている。それは事実だからだ。
もっとも、茜音さんは決して僕に悪感情を抱いているわけではなさそうだった。一緒に神御目市立図書館に行かないかという誘いは断られてしまったけれど、狩森図書館の館長をしている茜音さんの立場を考えるとそれも当然だと理解できる。
きっとまた機会は訪れるだろう。その時には、今よりもっと茜音さんと親密になれていたらいいのだけど。
ただ、引っかかっていることもある。それは、この図書館にはほとんど利用客が来ないということだ。
訪問者はいるが、みな怪談の語り手ばかり。図書館の利用客はこれまで一人も見たことがない。今も狩森図書館の中にいるのは、僕と茜音さんの二人だけ。そのせいか、図書館の中はいつも静まり返っている。
だから、狩森図書館の仕事を理由に市立図書館への誘いを断られると、つい本当だろうか、体よくあしらわれているだけなのではと勘ぐってしまうのだ。
(前々から気になっていたんだよな。いくら私立図書館だからって、あまりにも利用客が少なすぎる。狩森図書館の経営は大丈夫なのだろうか……? 建物の維持だけでも莫大な費用がかかりそうだけど……)
もっとも、今の僕はその疑問を口に出せるような立場ではない。僕はあくまで一介のアルバイトにすぎないからだ。茜音さんのことも狩森図書館のことも全くの謎だらけで、でもそこに僕が立ち入っていいのどうかもまだ分からない。焦るべきではないと分かってはいるけれど、つい、小さなため息が漏れてしまう。
するとその時、茜音さんが遠慮がちに口を開いた。
「あの……夏目さん」
「な、なんでしょう?」
「私、クッキーを自作してみたんですけど、お茶と一緒にいかがですか?」
「あ、はい、いただきます!」
茜音さんは以前と同じように給湯室に向かい、それから数分後、洒落たトレーにティーセットと菓子皿を乗せて一般開架室に戻ってくる。
茜音さんのクッキーはいたってシンプルだった。
抹茶やココアといった味付けは全くされていないし、ナッツやチョコチップも入っていない、ごく普通のプレーンクッキー。素朴だけど、きつね色に焼けていておいしそうだ。
僕はそれを一つ手に取って口に運んだ。サクサクとしていて柔らかく、ほどよく甘くて、小麦とバターの香りが鼻から抜けていく。
「あ、うま……!」
思わず呟くと、茜音さんの顔はぱっと輝いた。
「本当ですか? ……良かった」
「いや、本当に美味しいです。茜音さん、よくお菓子を作るんですか?」
「ええ。でも、誰かに食べてもらったのはこれが初めてです。私はあまり外の人との付き合いがないので……。夏目さんに喜んでもらえて良かった」
茜音さんは心から嬉しそうに微笑んだ。まるで純朴な少女みたいに。
その仕草を目にし、僕の胸は再び高鳴った。いつも冷静で落ち着いている茜音さんも、そういう表情をすることがあるのか、と。
そして、ふと気づく。もしかしたら、茜音さんは僕のためにこのクッキーを焼いてくれたのかもしれない。そうであるという証拠はどこにも無いし、別に深い意味など何もないかもしれない。でも少なくとも、茜音さんにとっての僕は、ティータイムを一緒に過ごしたいと思える相手ではあるのだろう。
(余計な詮索はやめよう。古い図書館みたいだし、きっといろいろ事情があるんだ。まだバイトに入ったばかりの僕があれこれ立ち入るべきじゃない)
今はまず、求められていることに全力で答えよう。そして茜音さんの信頼を得られるよう、一歩ずつ努力していこう。僕は改めてそう決意する。
クッキーを食べながら紅茶を飲み、そして本のことや怪談について語り合う。楽しいひと時を過ごしていると、不意に柱時計が午後五時を告げた。
「もう、ずいぶん暗くなってきましたね。夏目さん、時間は大丈夫ですか?」
茜音さんに尋ねられ、僕は慌てて帰り支度を始める。
「ああ、本当ですね。すみません、そろそろ帰ります。クッキー、ごちそうさまでした」
「いえ、お口に会ったようで良かった。お疲れさまでした。また来週もお願いします」
「はい、こちらこそお願いします」
「それから……地下室には絶対に近づかないでくださいね」
「……。ええ、分かっています」
この図書館のことも茜音さんのことも、まだ謎だらけだ。けれど僕にとっては、茜音さんの謎めいた神秘的なところも大きな魅力の一つとなりつつあるのだと気付いた。
謎があるからこそ、もっと茜音さんのことを知りたいと思う。謎があるからこそ、神秘のヴェールの下に何があるのかと、好奇心をかき立てられてしまうのだ。
もちろん、それが全てではないけれど。
茜音さんに別れを告げ図書館の廊下に出ると、一般開架室よりもずっと暗くて少し驚いた。照明がアンティーク調の壁かけ照明だけだからだろうか。廊下に設置してあるガラス扉のついたアンティーク調の飾り棚や、一抱えもある古めかしい天球技など、さまざまな調度品の落とす影がより一層、濃く深く感じられる。
足音のやたら響くその薄暗い廊下を歩き、図書館の玄関に向かう途中のことだった。突如、小さくて黒い影が目の前にひゅっと飛び出してくる。
「うわっ」
僕が驚いて足を止めると、その影もまた廊下の真ん中で立ち止まった。そしてゆっくり僕の方を振り返る。
闇の中に溶けてしまいそうなほどの、真っ黒な毛。そして血を垂らしたような紅と、薄闇の中でも鮮明に輝く黄金のオッドアイ。長い尾がゆらりと揺れる。
それは一匹の黒猫だった。長毛種なのか、それとも周囲があまりに暗すぎるのか。輪郭が何だかもやもやとしている。でも、猫だということははっきり分かった。
「びっくりした……やっぱり猫がいたのか。狩森図書館に棲みついているのかな?」
以前も狩森図書館の窓の外をこれくらいの小さな影が素早く横切って行った。正体はこいつだったのか。
僕はほっとしたが、一方の黒猫の方は耳を大きく尖らせ、こちらを睨みつけるようにし、これでもかととげとげしい声で鳴くのだった。全く愛想がないどころか、間違いなく威嚇されている。もしくは、自分の縄張りで新参者の僕が好き勝手しないよう見張っているかのどちらかだ。
何故だか分からないけれど、この黒猫は僕に対して強い敵意を抱いていて、それを隠そうともしていない。同じ猫でも木村さんの話していたマルとは全く違う。
まさか……飛びかかってきたり、引っかいたりしないよな。僕はわずかに後ずさりした。
こういう時はどうしたらいいのだろう。もしこの黒猫が襲ってきたら、手元の学生鞄でぶん殴ってやるべきか。我知らず、右手に嵌めた水晶の数珠に触れる。不安なときはそうして心を落ち着けるのが習慣になっている。
黒猫の方も僕の意図に勘づいたのだろうか。毛を逆立て、シャーッと唸りながら僕と対峙する。双方に緊張が走ったのはおそらく気のせいではない。
だが、それも一瞬のことだった。赤と金の瞳をした黒猫は、不意に興味を失ったように僕から視線を外すと、ひらりと身を翻しどこかへ立ち去ってしまう。
(……知らなかった。猫って、けっこう怖いんだな)
あの黒猫には気をつけよう。次に出会っても、絶対に近づかないようにしなければ。
狩森図書館の外に出ると、日はすっかり沈み、月が上り始めていた。真っ暗な雑木林を抜け、竹林のところまで来ると、車が行き交っているのが見えてきて少しほっとする。
僕は自転車にまたがってライトを点け、まっすぐマンションに帰宅したのだった。




