第六話 【ペット怪談】猫のマル②
「その日の授業が終わるやいなや、私は教室を飛び出し、全速力で駆けって家に戻りました。マル、死なないで。私を置いて行かないで。胸の中で何度そう叫んだかしれません。我が家が見えて来た時は、心が不安ではちきれそうでした。
玄関に飛び込むと、靴を脱ぐのもそこそこに、私はマルのいる居間へと急ぎました。マルは居間から続く縁側で日向ぼっこをするのが大のお気に入りだったからです。
しかし、その日のマルは、大きな座布団の上に身を横たえていました。もはや立ち上がることもできないマルのために、母が用意したものでした。
私は背負っていたランドセルを下ろすのも忘れ、マルの元に駆け寄りました。そして、『マル、マル!』と何度も名を呼んだのです。けれどマルは、いまにも途絶えそうなほどの、弱々しい呼吸を繰り返すばかりで……その時、私は子ども心に悟りました。マルの命の炎は消え去りかけている。もう二度とマルが私の足に絡みついてくることは無い。膝の上で昼寝をすることも、二人で障子を破って母に怒られることもない。そして、マルの背中や黒い丸のついたお尻をなでながら一緒に眠ることもないだろう。私たちはもう、ここで永遠にお別れなのだ……と。
そう思うと涙がこらえきれなくなり、私はとうとうしくしく泣きだしました。そして泣きじゃくりながら、マルにすがりました。『マル、死なないで。これからもずっと私と一緒にいて』、と。
……その時、奇跡が起きたのです」
「奇跡……」
「ええ。嗚咽する私がマルの頭に触れたその時、マルが確かに私の方を見て『にゃあ』と鳴いたんです。マルは私に返事をしてくれたのですよ。それまであんなに弱ってぐったりとし、目も開けられなかったのに、私の呼びかけに答えてくれたのです。……マルが息を引き取ったのは、それからすぐのことでした」
それが本当に奇跡だったのか、それとも単なる偶然だったのか。僕には分らない。でももし、自分が木村さんと同じ経験をしたとしたら、やっぱりそれは奇跡だと感じるだろう。たとえ死の縁にあろうとも、自分と相手の心は繋がっているのだと。
「きっと、マルにとっても木村さんは大事な家族だったのでしょうね」
僕の言葉に木村さんも深く頷いた。
「そうかもしれないわね。母も言っていたわ。マルはきっと、私が学校から戻ってくるのを待っていたんだって。そして、最後にどうしても私に一言、伝えたくて、私の顔を見るまでがんばっていたのよ……と、そう付け加えました。私も母のその言葉を信じました。それくらい、私はマルに特別な絆を感じていましたから」
指先で目元を拭ったあと、木村さんは悪戯っぽく笑う。
「案外、マルは本当に猫神様の使いだったのかもしれないわね。だからあんな不思議なことが起こったんだわ」
「不思議なこと? それは、どういう……?」
しかし、僕の問いには直接答えず、木村さんは話を続ける。
「マルの死後、私は悲しみに暮れて何日も泣き続けました。姉妹同然に育ったマルがいなくなって、とうとう私は一人ぼっちになってしまったんだ……そう思い込んでいたのね。そんな私を心配してか、両親はどこからか柴犬の子犬を譲り受けてきてくれました。真っ黒な瞳と茶色い毛並みを持つ、ころころとしたかわいい柴犬の子です。けれど私は、その柴犬をすぐに好きになることはできなかった。マルの代わりはいないのだと意地になってしまって……」
「分かります。それがご両親の善意によるものだと理解していても、そう簡単には切り替えられませんよね。子どもなら、なおさら」
「そうなんです。ですから、その柴犬の子が無邪気な顔をして私にじゃれついて来た時も、どうしても頭をなでてやることができなかった。心を開くことができなかったんです」
木村さんはしみじみそう言った。その複雑な気持ちもよく分かる。命の代わりなんてない。柴犬の子に非はないけれど、さりとて木村さんが悪いわけでもないのだ。
すると、木村さんはふと真顔になって言った。
「ところが、その柴犬の子が大きく成長するにつれ、あることに気づきました。小麦色一色に覆われた柴犬のお尻に丸い模様が浮かび上がってきたんです。子犬の時には確かにそんな模様なんてなかったのに、成犬になるにつれて、くっきり鮮明になってきて。それをはっきり認識した時、私は飛び上がるほど仰天しました。そう……その模様がマルのお尻にあったものと同じ位置にあり、大きさもほとんど一緒だったからです。まるで、満月の時のお月さまみたいにきれいなまんまる。
その模様に気づいてからというもの、私は徐々に新しくやって来た柴犬をマルの生まれ変わりではないかと思うようになりました。もちろん、そんなことがあるわけないと分かってはいたのですが……でも、それほど完全な丸模様なんて、そう頻繁に見るものではないというのも事実でしょう?
この犬にはきっと、マルの魂が宿っているに違いない。この丸模様がその証なんだ。そう考えると、急激にその柴犬に親近感を抱くようになりましてね。私はその柴犬に小金丸と名付けました。名前の由来は小金のように鮮やかな金色の毛並みを持つことからです。もちろん、小金丸の丸は猫のマルからとりました。新しい『家族』と仲良くしたいとは思いましたけれど、かと言ってマルのことを忘れることはできませんでしたから」
小金丸の姿を思い出したのか、木村さんは柔らかく微笑んだ。
「私は最初、小金丸を邪険にしてしまったのに、不思議と小金丸の方は私を慕ってくれましてね。まるで最初から私のことを知っていたかのように……。それもあり、私たちはいつしかすっかり仲良しになりました。毎日、雨の日も晴れの日も小金丸と共に散歩に行き、学校以外はそれこそ両親の実家に帰省する時まで一緒でした。悩みの多い青春時代、どれだけ小金丸に励まされたことか。
……そんな小金丸が亡くなったのは、私が結婚し家を出た後のことです。死因は老衰でした。二十年近く生きたのですから、柴犬の一般的な寿命を考えると大往生だったと思います」
「そうですか……。マルに続いて、小金丸まで……。当たり前だと言われればそれまでですが、出会いもあれば当然、別れもあるんですよね」
「そうね、人も動物もそれは同じ。出会ったきっかけは些細なことだったとしても、長い時間を共に過ごしていくうち、互いにかけがえのない存在になっていく。だからこそ、失った時の喪失感や悲しみは言葉で例えきれないほど大きいのだわ」
「僕だったら……ショックで二度とペットを家族に迎えようとは思わないかもしれません」
「そういう気持ちはよく分かります。正直に言うと、私もマルや小金丸の他に新しい家族ができるなんて考えられなかった。結婚もしたし、これからは子育てもしなければならなくなる。それならいっそ、動物を飼うのはやめようと……そう心に決めていたわ。
でも……不思議なものでね。こちらに飼う気がなくても、どこからか繋がりができてしまうものなのよ。縁っていうのかしらね。
道端でたまたま拾って、他に貰い手がいなかったフェレットが私の家に運び込まれたこともありましたし、友人や知人からハムスターが子を産んだから、一、二匹もらってくれと頼まれたこともありました。主人が動物好きであったこともあり、私もそれらのペットを受け入れ、飼うことにしました。他にもインコや亀、熱帯魚を飼育したこともありますよ」
そのあまりの種類の多さに僕は目を丸くした。
「それはすごいですね。本当に動物がお好きなんですね」
「ええ、もちろんそれもありますが……一番は心のどこかで確信を抱いていたのかもしれません。マルとの縁はまだ終わっていない、マルはどんなに姿を変えようとも、きっと私の元にやって来てくれると。
現に、うちにやって来る子は、ハムスターにしろフェレットにしろ、インコにしろ熱帯魚にしろ、必ずお尻のところにマルにあったものと同じ黒いまんまるのマークが浮き上がるんです。最初は無くても、我が家で成長すると必ず。……こんな話、信じられないでしょう?」
「まあ……普通はあり得ないと思います」
僕は正直にそう答えた。小金丸までなら、世の中にはそういった偶然もあるのかもしれないと納得できる。でも、他の多種多様なペットにまで黒い丸が浮かび上がるなんて、どう考えても普通じゃない。
ところが木村さんは、僕の返答を聞いて何故かとても嬉しそうに頷いた。
「でしょう? でも、本当のことなのよ。きっと、さまざまな動物に生まれ変わった後も、マルは私との約束を果たしてくれているのだわ。だって私、あの時……今にもこと切れそうなマルに向かって心の底から願ったもの。『マル、死なないで。これからもずっと私と一緒にいて』、と。マルは私の気持ちに応えてくれたのよ。もしくは……猫神様が私の願いを聞き入れてくれたのかもしれないわね。家族の信心深さにたいそう感心なさって」
木村さんは自分の考えに確固たる自信を抱いているようだった。僕はそれにどう答えていいか分からなかった。だって、どう考えても常識ではありえない話なのだ。いくら僕が怪談の聞き手だからと言って、そう簡単に同意することはできない。
かといって、怪談の語り手の話を真っ向から否定したくもなかった。木村さんはこの話をするために、わざわざ狩森図書館に足を運んでくれたのだから。
「そう……かもしれませんね」
どうにかそう口に出したものの、僕の抱いた困惑は隠しきれなかったようだった。木村さんは申し訳なさそうな顔をして言う。
「ごめんなさい、突飛な話をしてしまって。驚かせてしまったわね」
「いえ、そんなことは……」
「自分でも分かっているわ。とても非現実的な話をしているって。でも、既に両親や兄、姉を亡くし、夫とまで死別して天涯孤独の身になってしまった私にとって、誰かがそばにいてくれると思えることはとても大切なことなの」
「……! そうだったんですか、ご家族はみな……。すみません、考えが至らなくて……」
「いいのよ。だって、あなたは私の話を聞いてくれたもの。久しぶりに昔のことを思い出して、とても楽しかったわ」
木村さんはにっこりと微笑む。
それを見て僕は悟った。この話は常識的かどうか、科学的にあり得るかどうかは一切関係が無いのだと。
木村さんは自分の考えが真実だと信じている。そして、彼女にとってはそれが全てなのだ。そこに疑問を挟んでも、おそらくそれほど意味はない。
そもそも、僕の仕事は語り手の話の真偽を評価することではなく、茜音さんの怪談蒐集の手伝いをすることなのだ。聞き手である僕がすべきなのは語り手の話を聞くこと、そして彼らが話しやすい雰囲気を作ることだ。
「……それでは、今も何かペットを飼っていらっしゃるんですか?」
僕は木村さんに話の先を促した。すると木村さんは、困ったように右手を頬に添える。
「それがね、私ももう歳ですから、もう新しい家族を作るのはやめようと思っていたのです。私が先に死んでペットを後に残すようなことになってしまったら可哀想でしょう? 大体、あまりにも無責任じゃありませんか。それこそ、つい最近までそう思っていたんですけど……」
茶目っ気のある笑みを浮かべ、木村さんは続けた。
「実はね、私、いま新しくウサギを飼い始めたんですよ」
「ウサギ……ですか」
「ええ。私は趣味で生け花を習っているのですけど、その生け花の先生がウサギの貰い手を探してらしたんです。元は先生のお孫さんが飼っていたウサギなのだそうですけど、お孫さんは長期の海外赴任をすることになり、そのウサギを祖母である先生に預けたのだそうです。
ところが先生はもともと猫アレルギーをお持ちで、ウサギなら或いはと思ったけれど、結局は駄目だったのだとか。慌てて親族内で他にウサギを飼える人を探したのだそうですが、みなペット不可のマンション住まいだったり、既に他の動物を飼っていたりで、引き取り手がいないのだそうです。先生は私が動物好きなことをご存知でしたので、それで相談してこられたのね」
――ほら、この子よ。そう言って木村さんは鞄からスマホを取り出し、待ち受け画面を見せてくれた。そこには耳の垂れた薄茶色のウサギが映っていた。つぶらな瞳がとても愛くるしい。
「この子は既に何年も生きていて、人間で言うとおばあちゃんなのだそうです。それなら私でも最後まで面倒を見切れるのではないかと考えまして、お引き受けすることに決めました。……それでね」
木村さんは僕に向かって身を乗り出し、大事な秘密を打ち明けるかのように声を潜める。
「その子のお尻にもやっぱりあるのよ。マルと同じ、黒い丸模様が……!」
僕が目を見開くと、木村さんはにっこりと笑った。悪戯を成功させた子どもが喜ぶように、それでいて心から誇らしそうに。
「マルは、きっと最後まで私のそばにいてくれる。だから、一人でも何も怖くはないの」
木村さんは囁くようにしてそう言った。
彼女はとても穏やかな表情をしていた。この茶色いウサギがマルの生まれ変わりかどうか、それは誰にも分からない。でも、木村さんの心の中には確かにマルがいる。そして今この時も、木村さんに寄り添っているのだろう。
湯呑みに残っていた茶を飲み干すと、木村さんはそれを茶托に戻して言った。
「さて、これで私のお話はおしまい。……ありがとう、夏目くん。私の話を最後まで聞いてくれて。初めて訪ねる図書館だし不安もあったのだけど、ここに来てみて本当に良かったわ」
そして木村さんは僕に向かって丁寧に頭を下げる。僕も慌てて木村さんに頭を下げた。
「いえ、こちらこそ貴重なお話をしてくださってありがとうございます。木村さんのお話は資料としてまとめられたあと、この図書館で保存されることになりますがそれでもよろしいですか?」
「まあ、そうなの?」
どうやら木村さんはそのことを知らなかったらしく、驚いた顔をした。けれどその表情はすぐに喜びに変わる。
「つまり私とマルと、たくさんの家族のお話が、これからもずっとこの図書館で生き続けるということね。とっても素敵。どうぞよろしくお願いします」
木村さんはそう言い終えると、茜音さんにもお礼を言った。茜音さんも立ち上がって木村さんに頭を下げる。茜音さんが作業をしていた文机には、文字がびっしりと書き込まれた原稿用紙が複数、重ねてあった。どうやら茜音さんの書き取りの方も滞りなく進んだようだ。
それからほどなくして木村さんは狩森図書館を立ち去った。談話室を出る時の彼女の顔がとても満足そうに見えたのは、僕の気のせいではないだろう。
木村さんが図書館をあとにしてから、僕と茜音さんは一般開架室に移動した。
古い書籍が密集したにおいと、重厚な柱時計が時を刻む音。最初はその雰囲気に気後れしたものだけど、最近はだいぶ慣れてきた。




