第五十六話 桔梗の苦悩
茜音さんは蘇芳さんといざや桜の誓いを交わしていた時に比べ、さらに大人っぽくなっていた。
だいたい、今の僕と同じくらいの年齢だろうか。
背だけでなく、手足もすらりと伸び、後ろで括った髪もさらに艶めきを増している。立ち振る舞いからも子どもらしさが抜け、巫女装束もすっかり板についている。
蘇芳さんが鬼神として活躍し始めたのと同じく、茜音さんにも狩森神社での仕事が割り振られたようだ。その内容は、御霊の丘の管理や掃除。
もちろん、それらの仕事も大事だというのは分かる。しかし、ずっと巫覡としての修練を重ねてきた茜音さんにとっては、多少なりとも不本意に感じられるだろう。本当は蘇芳さんの使役主のように、鬼の調伏に赴きたいに違いない。
けれど茜音さんは決して腐ることなく、真面目に与えられた仕事をこなしている。
茜音さんはどんどん掃除を進め、見覚えのある場所まで到達した。御霊の丘のふもとにぽっかりと空いた、石造りの洞窟の入り口みたいな場所だ。何となく、古墳の入り口部分を思わせる。
その入り口は木製の格子扉で厳重に封じられており、錠までかけてあった。蘇芳さんが〈鬼神の法〉を受ける時に入っていった石室の入り口だ。
ただ、あの時の石室とは方向が違う。茜音さんが掃除をしているのは、東の石室とは真反対側だ。おそらくこれは鬼神が死に、その魂をいざや桜に還す際に用いられるという石室……別名、黄昏の石室の入り口だ。
黄昏の石室の入り口の奥は真っ暗で、外側からどうなっているのか全く分からない。入り口を塞ぐ格子扉が、余計に物々しさを感じさせた。おまけに石室の奥から常に冷やりとした不気味な風が吹き出している。どうにも不気味で仕方ないが、茜音さんはそれを全く気にせず、周囲の草を抜いたり箒で掃き清めたりしている。
そこへ他の巫女姿の女性がやって来た。確か、桔梗という名の娘だ。
桔梗も茜音さんと同じでとても大人びており、一瞬、そうだと気づかなかった。
桔梗は気怠そうにため息をつく。
「あーあ、仕事つまんない。毎日毎日、掃除ばっかり!」
すると、茜音さんは箒を動かす手を止め、困ったように笑った。
「桔梗、またさぼっているの? ばれたら藤黄さまにしかられるわよ」」
「だって、本当のことでしょう? 私たち、それこそ子どもの頃から一人前の巫覡になるために、たくさん勉強してきたじゃない。それなのに、言霊の才が無いというだけでこんな誰がやっても変わらない、どうでもいい雑用を押し付けられるなんて」
愚痴をこぼす桔梗に対し、茜音さんは晴れやかな表情でいざや桜を見上げた。
「そんなことないわ。御霊の丘やいざや桜は、狩森神社の根幹だもの。むしろ関わることができて光栄なくらいよ」
それを聞き、桔梗は唇を尖らせる。
「茜音は変わらないね。昔から、ずーっと真面目でまっすぐなまま。私はとうてい真似できない」
「桔梗には桔梗の良いところがあるもの。真似する必要なんてない」
「茜音なら絶対にそう言うと思った。本当に真面目なんだから」
そして二人はくすくすと笑った。桔梗と茜音さんは相変わらず仲が良いようだ。そのことに、僕は少しほっとする。
ただ、関係が良好な二人にも違いはあるようだった。茜音さんはある程度、納得した上で自分の職務に励んでいるように見える。しかし一方、桔梗は自分の境遇に不満を抱いているらしい。
それも仕方のないことだと僕は思う。桔梗も茜音さんと全く同じとはいかないまでも、真剣に修練をこなしているところを見ているから。
桔梗は少し声を落として言った。
「さっき、いざや桜に向かう石段のところで、蘇芳さんに会ったね」
「……。うん」
「お兄さん、元気そうだったね。神社の上の人たちの評価も高いそうよ。鬼神として立派な働きをしていると」
「そう……良かった」
茜音さんはそう言うと、再び箒を動かし、掃き掃除を始める。けれど、その表情はとても複雑そうだった。自分のために鬼神となる決心をした蘇芳さんのことを思うと、単純には喜べないのだろう。何とも言えない気持ちがその表情から伝わってくる。
桔梗もそれに気づいたのか、すぐに話題を変えた。
「蘇芳さんの使役主となった織部さん、堂々としていて格好いいよね。子どもの頃から、これからの狩森神社を引っ張っていく優秀な巫覡になるだろうと期待されてきた人だけど、いよいよ頭角を現したという感じ。いまや若手の巫覡はみな彼に憧れているわ」
すると、茜音さんの口元にも笑みが戻った。
「織部さんは昔から誰よりも努力して、突出した言霊の才や見鬼の才に慢心することなく、調伏の技術に関しても研鑽を摘んできた人だから……。こうなるのはある意味、必然だったと思う。織部さんが兄さまのそばにいてくれるなら、私も安心だわ」
しかし、桔梗はどちらかというと不満げだ。
「そりゃ、織部さんが努力家なのは認めるけどさ。それでも思わずにはいられないよ。ここは生まれながらに才能を持った一部の人だけが輝ける場所なんだって。才を持たない私たちは永遠に何もできず、このまま徒花に終わるだけなんだわ」
「桔梗……」
茜音さんは悲しそうな顔をした。どうしてそんなことを言うの、と言いたげなのが伝わってくる。
桔梗はそれに反発するようにまくし立てた。
「茜音は悔しくないの? 幼いころからあんなに弓箭の修練に励んでいたじゃない。今も時間がある時は弓道場に立っているの、私、知ってるよ。でもこのままじゃ、その努力は一生、日の目を見ることはない……! これまでずっと巫覡を目指してきたのに、言霊の才がないばかりに巫覡の仕事ができないなんて、こんなの……こんなの、あんまりだよ!」
茜音さんは今も弓箭の練習を続けているのか。僕は目を見開いて、茜音さんの方を見た。当の茜音さんは、バツの悪そうな顔をする。
「……。私が今でも弓箭の修練をしていること、ばれていたんだ」
「当たり前でしょ。一体いつからの仲だと思っているの? 物心がついたころから一緒だったんだよ、私たち。血の繋がりはなくても、ほとんど姉妹のようなものだよ!」
桔梗は怒ったような口振りでそう言った。親友として、隠し事をされるのが我慢ならなかったのだろう。それを察したのか、茜音さんも降参したような口調で桔梗に謝った。
「……そうだったね。隠しててごめんなさい。でも、私が弓箭の修練を行っているのは、巫覡に未練があるからではないの。兄さまが今、この瞬間も鬼神として働いているのだと思うと、何だか私もじっとしていられなくて……それで心を落ち着けるためにも、ひとり隠れて弓道場に通っていたのよ。
それに私は、今の仕事に不満を抱いていないわ。確かに巫覡になれなかったことが全く悔しくないと言ったらそれは嘘になるけれど……それよりもいざや桜や御霊の丘の管理に携われることがとても誇らしいの。
いざや桜の中には、今も鬼神となった母がいる。父は鬼神になることは叶わなかったけれど、それでもいざや桜の中で眠りについていると信じているわ。父や母だけじゃない。鬼神となった大勢の巫覡たちの魂が今もここに眠っている。そして、鬼神となったことで穢れてしまった魂を浄化し、あるべきところへ還す役割を、このいざや桜が負ってくれている」
茜音さんと桔梗の頭上では、いざや桜が満開の花をつけた枝を揺らしている。そのたびに、たくさんの花びらが二人に降り注ぐ。まるで、茜音さんと桔梗を、そしてすべての狩森の巫覡たちを祝福するかのように。
桔梗も両手でその花びらを受け止めながら口にする。
「それは……私だって分かっているわ。……〈鬼神の法〉で鬼神にさせられた者は体のみならず、その魂までも浸食され、徐々に本物の鬼と化す。その段階になると、もはや使役主となる巫覡の言霊の力でさえも十分に干渉することができない。そんな〈鬼〉に侵食され、穢れた魂は野に放つとさらに厄介な〈鬼〉や怨霊となってしまう。だからそうなる前に、役目を終えた鬼神を西の石室……別名、黄昏の石室の中で眠りにつかせ、その魂をいざや桜に還す」
それを聞き、茜音さんは嬉しそうに桔梗へ微笑みかけた。
「昔に習った座学の内容をよく覚えているのね」
桔梗はどこか恥ずかしげに頬を染める。
「まあね。私は剣や棒、弓箭といった調伏の実技より、その方法論や歴史などを学ぶ座学の方が得意だったから」
つまり茜音さんや桔梗の話をまとめると、いざや桜は鬼神が生まれ、そして死の眠りにつく場所でもあるのだ。
僕は満開の桜の花を湛えるいざや桜を見上げた。
二千年もの歳月を生き抜いてきたという大きなしだれ桜は、圧倒されるほどの存在感と惹きつけられるような神秘性を同時に放っている。生命の力強さと、近づきがたいほどの神聖さをその身に兼ね備えているのだ。
この桜が生と死を同時に司っていると言われても全く違和感はないし、むしろ納得さえしてしまう。
茜音さんもいざや桜を見上げてそっと呟いた。
「そう、鬼神となった兄さまも、いずれはその役目を終え、このいざや桜で眠りにつく時が来る。だからこそ、いざや桜を守り続けなければならないと思うし、それに関わることができて本当に幸せなの。もし兄さまが眠りについても、いざや桜が存在し続ける限り、ずっと一緒にいられるでしょう?」
茜音さんは透明な瞳をしていた。それは自分の生き方を、運命を、そして全てを受け入れている者の目だった。
誰よりも美しく、そして残酷な瞳。
それを目にした桔梗は苦しげに表情を歪める。そして、肺の奥から絞り出すような声で言った。
「……茜音はすごいね。事実上、お兄さんを失い、こんな閑職に追いやられても、それでもそんなに前向きで一生懸命になれるなんて。……でも、私はいや。こんなの、どうしても耐えられない……!」
「桔梗……けれど、あなたのお父さんもその昔、鬼神になったのでしょう? そして今では、鬼神となった他の巫覡たちと同じように、このいざや桜で眠っているはず……」
「分かっているわ。だからよ! だから嫌なの! 怖くて怖くて仕方ないのよ……!! ……茜音も知っているでしょう? 私の父には言霊の才があったわ。ちゃんとあった! だから巫覡としてたくさん働いたのに……最後は鬼神にされてしまったの。あんなに狩森神社に尽くしたのに、それでも……!」
桔梗は強い恐怖を感じているのだろう。顔を青ざめさせ、身を震わせた。そして自分の両腕を抱きしめる。
「父でさえそんな扱いだったのに、私なんかが真っ当な扱いをしてもらえるわけがない! 絶対に暁の石室に放り込まれるに決まってる! どうせ役に立たないのだから、せめて鬼神にでもなって狩森神社のみなのために働けって……!」
桔梗の様子は尋常ではなかった。彼女はそれほど恐れているのだ。いつか自分が不本意な形で鬼神にされてしまうのではないかと。
茜音さんは慌てて桔梗のそばに行き、彼女の背をさする。
「そんな……考えすぎよ。巫覡になれなかった神職がみな鬼神になるわけではないもの。まだ桔梗が選ばれると決まったわけではないわ」
「でも、絶対に鬼神に選ばれないという保証もないわよね?」
「それは……そうだけど……」
「誰が鬼神になるかは、狩森神社の上層部が決める事よ。私には何の決定権もないし、選択肢すら与えられていない……! ねえ、本当に鬼神って必要なの? 何故、この世の鬼を祓うために私たち狩森の人間が、我が身を……そして魂までも差し出さなければならないの?」
桔梗の悲痛な叫びに、茜音さんは言葉を詰まらせた。
それはきっと、普通の感覚を持った人間であれば誰しもが疑問に思うことだろう。狩森神社の巫覡たちだって、本心ではおかしいと思っている者も多いのではないか。誰もが蘇芳さんや茜音さんのように、全てをありのまま受け入れられるわけではないのだ。
茜音さんはそのことをどう受け止めているのだろう。桔梗の問いに何と答えるのだろうか。それとも、狩森神社の巫覡として、彼女の問いには答えないのか。僕は固唾を飲んで二人のやり取りを見つめる。
茜音さんは、桔梗の不信感ともいえる強い疑問から逃げなかった。視線を伏せ、とつとつと自分の考えを語り始める。
「……確かに、人為的な力によって人を鬼にするということは、ある意味、この世の摂理を歪めることだと思う。鬼神となる当人はもちろん、家族や友人、恋人といった周りの人間も大きな犠牲を払うことになるわ。それに、鬼神の使役主となる巫覡にとっても全く危険がないわけじゃない。かつては鬼神を制御しきれなかった巫覡が鬼神に喰われたという事件もあったと聞くもの。
そして何よりも深刻な問題は、〈鬼神の法〉によって穢れた魂は元の状態に戻るのに百年、時には千年、万年という長い年月が必要だということよ。その役目を担っているのがこのいざや桜。二千年生き続けてきたいざや桜の中で育まれた莫大な〈気〉の力が、穢れた魂の〈鬼〉を少しずつ……けれど着実に清め祓ってくれている。
つまり、いざや桜のおかげで私たちは自在に鬼神を生み出すことができ、同時に役目を終えた鬼神を眠らせることもできる。いざや桜の存在があって、どうにかこの仕組みは回っているのよ。
でも、それは本当に正しいことなのかしら。もし……もし何らかの理由でいざや桜の力が十分に働かなくなってしまったら……もしくは、いざや桜そのものが失われてしまったら、一体どうなってしまうんだろう。その時、いざや桜で眠っている、かつて鬼神となった狩森の巫覡たちの魂はどこに行くんだろう……」
茜音さんは誰にともなくそう囁いた。それは誰かに向けた疑問というわけではなく、自分自身に問いかけているように見えた。狩森の巫覡として、何を選択するのが正解なのだろう、と。
「いざや桜が……失われる……?」
桔梗も目を丸くする。そんなことが起きるなんて、考えたこともなかったという風に。
茜音さんは悲しみを湛えた瞳で、いざや桜を見つめた。
「私たちはずっと、本来、手を出すべきではなかった禁忌を犯し続けている。ひょっとしたら……私たちはただ、いたずらに罪を重ねているだけなのかもしれない……」
「茜音さん……」
茜音さんはいざや桜の存在や狩森神社の方針に対して、決して批判したり憤っているわけでは無いようだった。むしろ、我が事として思い悩み、そして何より悲しんでいるように見えた。あくまで、狩森神社に属する者の一人として。
(確かに、いくら鬼を祓い、世の中を助けるためとはいえ、巫覡を鬼神にするのはあまりにも残酷だし、リスクも高い。今は良くても必ずいつか行き詰る。そして実際にこの先、いざや桜や狩森神社は……。茜音さんは既にこの時、その可能性に気づいていたのかもしれないな)
けれど、現状の狩森神社においてそれを口にするのはタブーに近いだろう。何せ、狩森神社は〈鬼神の法〉や鬼神の存在があってこそ、これほどまでに栄えることができたのだから。
茜音さんもおそらくそれを知っていて、けれど敢えて口にしたのだ。一人で悩み、苦しんでいる親友のために。
桔梗もまた茜音さんの気持ちに気づいただろう。顔を歪め、泣きそうな顔になる。
「私は……私は鬼神になるなんて絶対に嫌。ただでさえ、狩森の巫覡として生きてきて、これまで良いことは一つも無かった……! ただ、自分がいかに無力か、そしていかに無価値かを思い知らされただけ。それなのに、これ以上の侮辱を受けるなんて耐えられない! 鬼神となって自分の考えも記憶も全て毟り取られてしまうなんて……!」
「桔梗……鬼神になるのが怖いのね?」
「怖いよ、ずっごく怖い。決まってるじゃない! いつも寝る前に考えるの。いつか私もあのくらい石室に閉じ込められる日が来るかもしれないって……いくら考えないようにしても、その光景を想像してしまう。そのせいで眠れない時もあるくらいよ……!! こんなことなら、狩森の巫覡になんて生まれなければ良かった! もっと……もっと自由になりたかった!!」




