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第四十六話 【因習村怪談】キナリ村のキナリ様⑬

 最も恐ろしいのは、扉の向こうからキナリ様が僕を見ているように感じられることだった。


 今も扉の向こうで、頭は人、体は蛇のキナリ様と思しきモノが僕を睨んでいる。


 扉がすりガラス状なのでおぼろげにしか分からないが、キナリ様の強烈で肌を刺すほど鋭い憎悪や怨嗟が僕に向いているのは何故かはっきりと感じる。


 多分、キナリ様は僕を新たなイケニエであると理解しているのだろう。


 唾棄すべきキナリ村の人間の身代わりとして、呪い殺しても構わない存在だと認識しているのだ。


 これほど恐ろしく凶悪な相手に、一人では到底、対処しきれない。


 誰か他の人の力を借りなければ。


 しかし、スマホは風呂掃除の邪魔だからと、洗面所のところにある洗濯機の上に置いてきてしまった。だから、誰かに助けを求めることすらできない。


 おばあちゃんの形見である数珠も同様だ。あの数珠はとても大事なものだから、水に濡らしたくなかった。


 つまり今の僕は全てを失い、完全に孤立無援の状態だった。


 心を支えるものも、助けを求める手段もない。何もない、ただの無力で孤独な人間だった。


 ここで命果てることが運命づけられている、哀れな怪談の登場人物の一人。


(いや……何の力もないわけじゃない。ただ一つだけ、この状況を変えられるかもしれない方法がある……!)


 それは〈言霊の力〉だ。


 発した言葉の内容を現実に顕現させることができる力。


 今まで〈言霊の力〉を使うことには抵抗があった。不用意にその力を使ったことで他者を傷つけるのが嫌だったからだ。


 でも、相手がキナリ様なら……ただ人を憎み、苦しめるためだけに存在してきた呪いに対してなら、〈言霊の力〉を使っても問題はないのではないか。


 キナリ様相手に僕の〈言霊の力〉が作用するかどうか、自信はない。それどころか確証すら何もなかった。けれど、生死がかかっている今、試すかどうかを躊躇している余裕はないのだ。


 やるしかない。


 呪いに殺されたくなかったら……生き延びたければやるしかない。


 僕は心の底から思ったことを言葉に変換し、扉の向こうへ放った。


「こっちに来るな! 今すぐ立ち去れ!!」 


 そしてその瞬間、僕の右手がカッと熱を帯びた。


 茜音さんが〈鬼〉という文字を指で書いておまじないをしてくれた手の平の中で、僕を守っていた不思議な力が爆発したのだ。


 それが引き金を引いたのだろうか。次に浴室の扉の向こうから、女性の絶叫とは別に、猫の唸り声のようなものが響いてくる。


 それを聞き、僕は狩森図書館に棲みついている金と紅の瞳をした黒猫のことを思い出した。洗面所から聞こえてくる猫のような唸り声が、あの生意気な黒猫が僕を威嚇する時の声によく似ていたからだ。


 しかし、その猫のものと思しき威圧的な唸り声は徐々に野太くなっていき、大型の獣が放つような重低音の咆哮へと変化していく。


 一体、何が起こっているのだろう。


 僕は息を潜め、扉の向こうにある洗面所の様子を伺った。


 擦りガラス状のパネルの向こうで、二つの黒い影が対峙している。


 そのうちの一つは人の頭を持ち、蛇の体をしたキナリ様だ。下半身に当たる蛇の部分は僕が想像していたよりずっと長く、とぐろを巻いている。


 その向こうにいる、キナリ様を睨みつつ低い唸り声をあげている黒い獣のシルエットは確かに猫に似ている。だが、大きさは猫よりずっと大きい。もしかするとライオンより大きいのではないか。


 けれど、キナリ様と巨大な獣が睨み合っていたのはわずかな間だった。


 獣が咆哮を上げつつキナリ様に飛びかかっていったことで、両者の膠着状態が破られる。


 脱衣所がひっくり返るような大乱闘。


 二つの巨体がぶつかり合う凄まじい物音。


 何かが洗濯機や洗面台に激しく打ち付けられる音や、洗剤などの備品が散乱する音も聞こえてくる。


 時おり、浴室の扉にも細長い蛇の体が激しく打ち付けられ、バシンと大きな音をたてる。


 僕は目をぎゅっと瞑り、浴室のドアを抑え、ただひたすら嵐が過ぎ去るのを待った。


 激しい喧噪が幾度となく聞こえてきた後、ついにひときわ大きく、耳をつんざくような女性の悲鳴が響き渡る。


 そして物音はぱったりと止み、洗面所は静まり返った。


 しばらくして、浴室の照明が元に戻る。LEDライトの鮮やかな光が視界を鮮やかに照らし、体じゅうが緊張で強張っていた僕も、ようやく力が抜けた。


 そしてその時、ようやくシャワーヘッドから湯が出しっぱなしになっていることに気づいた。


 湯を止め、恐るおそる浴室から洗面所の方に出る。


 洗面所はしっちゃかめっちゃかだった。棚に収納していたタオルやバスタオルを始め、歯ブラシや歯磨き粉、洗顔料や整髪剤など、ありとあらゆるものが散乱している。


 また、洗剤も床にぶちまけられており、洗濯籠もひっくり返っていた。


 さらには洗面台の鏡はひびが入って割れており、その破片がそこらじゅうに散らばっている。おまけに照明も破壊されており、洗面所と隣接している狭い台所も食器や袋に入った食パン、パスタなどが散乱していた。


 あの黒い獣と化け蛇は、よほど激しく暴れ回ったのだろう。


 ただ、今はもう誰もいない。


 キナリ様の姿はもちろん、猫に似た大きな黒い獣もいない。


 洗面所も台所も、不気味なくらい、しんと静まり返っている。


「……。今のは一体、何だったんだろう……?」


 チカチカと点滅する洗面所に照らされた、二つの巨体。


 あれらは何だったのだろうか。


 片方の人頭蛇身の化け物は分かる。キナリ様だ。彼女はニエ様となった僕を呪い殺そうとして現れたのだろう。


 では、もう片方の黒い獣は何だったのか。


 あの黒い獣は僕に危害を加えず、むしろ僕を助けてくれたように見えた。でも、それは何故なのだろう。僕にはあの黒い獣に助けてもらうような心当たりが全くない。


(ひょっとして、コンジ様……か? いや、コンジ様は鳥の翼と嘴を持つ神さまだったはずだ。あの黒い獣に翼はなかった。それなら、あれは一体……?)


 するとその時、突然、甲高い電子音のメロディーが響いた。


 静寂を薙ぎ払うようにして。


 僕は一瞬、びくりと体を強張らせた。けれど、すぐにそれがスマホの着信音だと気付く。


 しかし、洗濯機の上に置いていたはずのスマホはどこにも見当たらない。おそらく、他の洗剤やタオルと一緒に吹き飛ばされたのだろう。


 着信音を頼りにスマホを探すと、ちょうど洗面台と洗濯機の間に落ちているのが見つかった。その奥にはおばあちゃんの形見である水晶でできた数珠も落ちている。


 急いでスマホを拾って着信画面を確かめると、発信者は茜音さんだった。


 しかし、僕はその画面をタップするのをためらった。


 先ほど、普通では絶対にあり得ない、あまりにも異常で恐ろしい体験をしたせいか、この通信は本当に茜音さんのものだろうかと疑ってしまったのだ。


 それに以前、怪談の語り手から聞いた話で、この世ならざる者からメッセージアプリを介し、メッセージが届いたという体験談があった。「ウシミトンネルで待ってる」という、恐怖のメッセージを送られたという、トンネルにまつわる怪談だ。


 この通信が茜音さんからのものからだという保証はない。


 ひょっとして、これもキナリ様の罠なのでは……。


 そうこうしているうちに、何故か画面を触ってもいないのにスマホが通話状態に切り替わった。そして、スピーカーから聞き慣れた声が流れてくる。


「夏目さんですか?」


「……! 茜音さん……」


 僕が声を上げると、茜音さんがほっとした気配が伝わってくる。


「ご無事ですか? お怪我はありませんか?」


「……はい」


「そうですか……良かった」


 スピーカーから流れてくるのは、いつもの茜音さんの声だった。


 とても優しくて、心を落ち着かせてくれる不思議な声。


 他の誰でもない、間違いなく茜音さん本人だ。


 茜音さんは申し訳なさそうに続けた。


「ごめんなさい、夏目さん。怖い思いをさせてしまいましたね」


「え……?」


「鬼は全てこちらで処理するつもりだったのですが、そのうちの一体がそちらについて行ってしまって。けれど、もう大丈夫ですよ。キナリ村の呪いは全て清め祓いましたから」


(鬼……)


 その時、僕は気付いた。キナリ様の額には角が二本、生えていたことに。


 ひょっとして茜音さんの言う鬼とはキナリ様のことなのではないだろうか。


「……」


 僕は思わずスマートホンを持っていない方の手で顔を拭っていた。シャワーヘッドから浴びた湯と冷や汗で、全身ぐっしょりと濡れそぼっている。だが、そんな事には全く意識が向かないほど混乱していた。


 分からないことはたくさんある。茜音さんに尋ねたいことも、山ほどある。


 だがともかく、茜音さんによると、僕はキナリ様……つまり呪いの影響から解放されたらしい。  


 しかし、それでは茜音さんはどうやって鬼を祓ったのだろう。キナリ様の呪いは非常に強力で、千年ものあいだ誰もそれを解くことはできなかった。


 そんな凄まじい呪いを、茜音さんはどうやって消滅させたのか。


 もしかして、先ほどの巨大な黒い獣を使って……? 


 だとしたら、そんなことができる茜音さんは一体何者なのだろう。


 そもそもあの黒い大きな獣は何だったのだろう。 


 不意に地下で聞いたヒソヒソ声のことを思い出す。彼らは茜音さんのことを『鬼の娘』と呼んでいた。自ら鬼に堕ちた、恐ろしい娘だと。


 それと同時に、かつて茜音さんが口にしていた言葉も思い出す。


 ――鬼を退けることができるのは、鬼の力のみですから。


 どうしてだろう。


 茜音さんはとても優しくて、いつも僕を励まし、守ってくれようとするのに、何故か彼女には常に鬼という言葉がつきまとっている。


 僕にとって、茜音さんは鬼からほど遠い存在だ。むしろ真逆だと言っていい。


 それなのに、何故。


 それとも、鬼という言葉には僕の知らない別の意味があるのだろうか。


 ぼんやりとそんなことを考えていると、不意に茜音さんが通話口の向こうで口を開いた。


「お風呂」


「……はい?」


「しっかり温まってくださいね。風邪を引いてはいけませんから」


 どうして茜音さんは僕が風呂に入ろうとしていたことを知っているのだろう。僕の言動をそばで見聞きしていたわけでもないだろうに。


 いや、よく考えればおかしなことは他にもある。茜音さんは僕に電話をしてきて開口一番に『ご無事ですか?』と尋ねた。『お怪我はありませんか?』、と。それはつまり、茜音さんは僕の身に異変が起こったことを知っていたということだ。


 でも、茜音さんはどうやってそれを察知したのだろう。


 しかしそれを尋ねる前に、茜音さんは言葉を続ける。


「今日はもう遅いのでお話はこれくらいにしておきます。次の怪談蒐集の際、また狩森図書館でお会いしましょう。おやすみなさい、夏目さん」


「お……おやすみなさい……」 


 僕が答えると、ほどなくして通話は切れた。部屋の中に再び静寂が戻ってくる。


 けれど、僕はすぐにその場から動くことができなかった。


 あまりにも常軌を逸した出来事が一度にたくさん起こりすぎて、何が何だか、もうわけが分からない。何だか悪い夢でも見ていたようだ。


 でも、僕が体験したことは決して夢ではない。目の前の散らかった部屋がその証拠だ。


 この世に心霊現象なんて存在しない。怪奇現象なんて、存在するはずがない。そう思い込むことで、僕は何とか自分の過去と折り合いをつけようとしてきた。


 でも、もうそれは通用しない。


 言葉では説明のつかない不可思議な出来事は確かに存在する。僕が認めようと認めまいと、間違いなく存在するのだ。


 その事実を突きつけられ、僕は呆然としてその場に立ち尽くすしかなかった。


 その後、僕は結局、湯船に湯を張らずシャワーだけですませた。とてもゆっくり風呂に浸かる気分ではなかったし、洗面所の片付けもしなければならなかったからだ。


 散らかった私物は元の場所に収めればそれで終わりだが、粉々に割れた鏡の方は備え付けなので、明日、マンションの管理会社に連絡をしなければならない。最悪の場合、両親にも連絡がいくだろう。そうしたら、また心配をかけてしまうだろうか。それを考えると少し憂鬱だった。


 でも、鏡の他に大きく破損したものはないのだから、それで命が助かったことを思うと安いと捉えるべきなのかもしれない。


 シャワーでもそれなりに温まったからか、それともキナリ様の呪いから解放されたからか。あれほどひどかった咳はぴたりと止んでしまった。押し潰されそうな疲労感も無くなり、体も軽くなった気がする。


 もっとも、キナリ様の呪いが本当に解けたのか、僕には分らない。その実感は全くと言っていいほどない。


 ただ茜音さんは、鬼……つまりキナリ様を『処理』し、呪いを清め祓ったと言っていた。


 呪いの元凶であるキナリ様がいなくなったから、キナリ様の呪いも解けたということなのではないだろうか。


(これからキナリ村はどうなるのだろう……?)


 シャワーを浴び、洗面所や台所を片付け、僕は早々に休むことにした。今日はもう、何もする気にならない。


 だが、ベッドに横たわっても目が冴えて全く眠れなかった。今日一日だけであれだけのことがあったのだから、当然と言えば当然だ。ぼんやりと天井を見つめているうちに、ふと行ったことのない、どこにあるのかも分からない村のことが頭の中に浮かんだのだった。


 過疎化で消滅寸前に陥っているキナリ村はもちろん、ご神域や長虫岩(ながむしいわ)もキナリ様から解放され、やがて朽ち果て自然に還る。


 本来、あるべき姿へ戻っていく。


 きっとそれで良いのだろうと僕は思う。


 だって、もう二度と呪いに苦しめられる人はいないし、ニエ様になる人が新たに決まることもないのだから。


 誰かの犠牲の上に成り立つ日常は、もしそれにどれだけ歴史があったとしても、間違っているのだと僕は思う。きっといつか破綻しただろうし、むしろ今までよくもったと言うべきなのかもしれない。


 キナリ様は殺された子どもや女性たち、そして無数の毒蛇の怨念が生み出した呪いだ。しかし千年もの時が過ぎる中でその呪いはあまりにも大勢を苦しめ、犠牲にし、地獄に引きずり込んでしまった。


 そのために、もはや元来の呪いを越え、それそのものが鬼と化しつつあったのかもしれない。


 そういえば、土屋さんも言っていた。アツシさんが、「たとえ村が無くなっても、キナリ様は永遠に存在し続ける」と言っていたと。


 キナリ村とキナリ様は奇妙な共生関係にあり、どちらかが消滅すれば、残る片方も崩壊する。それが当初の在り方だったのだ。


 しかし、キナリ様はあまりにも多くを殺し過ぎた。


 そのため、いつしかキナリ様自身が変質してしまったのだ。


 呪う相手はキナリ村の血筋の者でなくても構わない。誰でもいい、呪うことができたら、苦しめ死に至らしめることさえできれば何だって構わない、と。


 それが鬼でなくて何だというのだろう。


 村は滅び、神さまもいなくなり、全ての呪縛が解かれる。そうすればキナリ様の呪いに取り込まれた歴代のニエ様の魂も、本来あるべき場所へと戻っていくのではないだろうか。


 最後に、土屋さんの顔が脳裏に浮かんだ。


 あれから土屋さんはどうなっただろう。彼は今、生きているのだろうか。それとも……アツシさんと同じように、もう既にこの世にはいないのか。


 最初は僕を騙し、ニエ様の役目を押し付けた土屋さんのことを強く恨んだ。茜音さんが行っている怪談蒐集を悪用されて、腹が立って仕方がなかった。でも、ほんのわずかな間だけでもキナリ様の呪いを味わったことで、その心境に変化が生まれていた。


 土屋さんには助かって欲しい。


 彼もまた、キナリ様から解放されて本来の自分を取り戻して欲しい。


 今はそう願わずにはいられなかった。


 歴代のニエ様もきっと同じだったのではないかと思う。


 ニエ様になったことに絶望し、キナリ様の呪いに嫌というほど苦しめられ、それでも最後にはゆるしたのではないか。


 村を、自分を、そしてキナリ様をゆるしたのではないか。


 だからキナリ村はあれほど長く存続することができたのだろう。それが良いことか悪いことかは別として。


 僕はその晩、なかなか寝付くことができなかった。


 ベッドの上で何度も寝返りを打ったり、羊を数えてみたりしたけれど、どれも全くの無駄だった。


 けれど、その間、咳は一度たりとも出なかったのだった。



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