第四十四話 【因習村怪談】キナリ村のキナリ様⑪
思えば、怪談を聞く間もずっと土屋さんには違和感を抱いていた。この人はただ、純粋に怪談を話したいだけではないのではないか、他に何か目的があるのでは、と。
そして、結果的に僕の直感は正しかったということだ。
やはりこのキナリ村に関する怪談を聞くべきではなかった。
いや、この怪談は何があっても聞いてはならなかったのだ。
まんまと騙されたことに対する怒りがないわけではない。けれど今は、戸惑いや混乱の方が勝った。
自分の身に一体何が起こっているのか、すぐには受け入れられない。僕がニエ様だなんて。何かの悪い冗談としか思えない。
何故そんなことになったのか、わけが分からない。
その時、ふと視界の端を何かが掠めた。
窓の外に誰かいる。
髪は振り乱れ、口をくわっと開き、血走った眼で恨めしげにこちらを睨んでいる。
はっとして窓の方に視線を向けると、そこにはもう誰もいなかった。僕のその仕草を見て、土屋さんはすかさず口を開く。
「あなたにもあれが見えたんですね、夏目さん。……良かった。継承の儀式は成功したんだ」
土屋さんに視線を戻すと、彼はとても満足そうな表情をしていた。まるで、僕がニエ様となったことを心から喜んでいるかのような顔。
土屋さんが本心では何を思っているか、それは分からない。
ただ、僕には彼が人ならざる邪悪な存在であるように思えてならなかった。
土屋さんは青ざめる僕に、勝ち誇ったような口調で言う。
「いま、この瞬間から夏目さんがニエ様です。キナリ村の真実を知ってしまった以上、あなたはもう逃げられない。キナリ様もそれを受け入れざるを得ないでしょう。
何故なら、どれだけ強い呪いの力を持っていたとしても、キナリ様は一人では存在し得ない。ニエ様やキナリ村あってこそのキナリ様なのですから」
――してやったり。そんな感情を隠しもしない口ぶりだ。
それにはさすがに、僕も憤りを禁じえなかった。思わず立ち上がって声を張り上げる。
「土屋さん、やはり最初からそれが狙いだったんですね。あなたは、本当は怪談なんてどうでも良くて、ただイケニエの役を僕に押し付けたかっただけなんだ!」
だが、土屋さんは全ての感情を削ぎ落したような冷徹な瞳で僕に突きつける。
「そうですね。この期に及んで言い訳をするつもりはありません。でも、それで何か問題でも? あなた達は怪談を蒐集しているんでしょう? そして僕は僕の体験した怪奇譚を話しただけだ。責められるいわれはありませんよ」
「それはそうかもしれないけど……あなたはニエ様となる苦しみを誰よりも知っているはずなのに……!」
すると土屋さんは、それまで無表情を保っていた顔をわずかに歪める。そこに浮かんだのは間違いなく罪悪感だ。
しかし、それもほんの一瞬のことだった。
「僕のことはどれだけ恨んでも構いません。もとよりそのつもりでした。自分でも、人としてどれほどあるまじき行いをしているかも分かっています」
土屋さんは左手をぎゅっと握りしめる。その薬指には結婚指輪が冷徹な光を放っていた。
「ごめんなさい。でも僕は、妻を……そして生まれたばかりの息子を守らなければならないんです」
さらに、彼は絞り出すような声で付け加えた。
「……他にどうしようもなかった。こうするしかなかったんだ……!」
そういう風に言われてしまったら、もうそれ以上、言葉を返すことはできなかった。
誰だって自分の家族は大事だ。その大事な家族を守りたいと思うのは当然のことだし、土屋さんが思いつめる気持ちは僕にも理解できるから。
土屋さんは自分が罪を犯すことになっても、家族を守る選択をし、それを貫き通した。きっと土屋さんの家族にとって、彼は良き夫であり、良き父親でもあるのだろう。
ただ、赤の他人である僕にとっては、そうでなかったというだけだ。
うなだれる僕から素っ気なく目を背けると、土屋さんは後ろを振り返って、怪談を記録していた茜音さんに声をかける。
「僕の話はこれで全てです。もう帰っていいですよね?」
茜音さんはいつも通り、静かな声でそれに答えた。
「はい、構いませんよ。怪談蒐集にご協力していただき、ありがとうございました」
「いえ、別に……感謝されるほどのことはしていないので」
土屋さんは急いで床に置いていた通勤鞄を手にすると、談話室をあとにしようとする。もはや、こんな場所に一分一秒でも居たくない。そう言わんばかりに。
すると、茜音さんがその背中に声をかけた。
「土屋さん」
「な……何ですか?」
「どうか、お体を大事になさってくださいね」
茜音さんの優しさに溢れたその言葉に、土屋さんははっきりと狼狽し、顔を歪めた。
今にも泣きだしそうな、苦しげな顔。
そして、「……失礼します」と短く答えると、逃げるように談話室を飛び出していったのだった。
それきり、彼はもう二度と戻らなかった。
談話室は沈黙に包まれる。残されたのは茜音さんと、茫然としたまま椅子に座り込む僕の二人だけ。つい先ほどまでこの部屋に土屋さんがいて、怪談を話していたことが嘘のようだった。
ざわざわと、風が木々の枝を揺らす音が、窓の外から聞こえてくる。談話室ではおなじみの光景だが、今はどこか遠い世界のことのように感じられた。
もし僕が今この瞬間にこの世界からいなくなっても、この葉擦れの音は変わらず続くのだろう。
それがどうにも不思議であり、同時にひどく残酷なことのように思えてならなかった。
土屋さんが狩森図書館を去ってから、僕と茜音さんはいつものように一般開架室に移動した。一般開架室では、やはりいつものように古い柱時計がコチコチと時を刻み、古書たちが独特のにおいを放っている。まるで己の存在を主張するかのように。
ところが、僕にはそれらの光景に構っている余裕は全くなかった。土屋さんの怪談があまりにもショックで完全に放心してしまっていたからだ。
土屋さんがいなくなり、衝撃も収まってくると、今度は強烈な不安が込み上げてくる。
本当に僕はニエ様になったのだろうか。
確かに先ほど、談話室で幻覚らしきものは見た。凄まじい形相をした女性の幻覚だ。
けれどあくまで一瞬だったし、彼女が蛇の体を持つかどうかまでは確かめられなかった。
あの時の僕は、土屋さんが怪談を話すふりをして、実はニエ様の継承の儀式を行っていたことに大きな衝撃を受けていた。そのせいで気が動転し、たまたまおかしなものを目にしてしまっただけなのかもしれない。
必死でそう自分に言い聞かせ、気持ちを落ち着かせようとするが、その程度ではとうてい不安を打ち消すことはできなかった。
もし、本当に僕が新しいニエ様になったのだとしたら。これからどうなってしまうのだろう。
土屋さんの話を聞く限りでは、これから僕はひどい咳に見舞われ、原因不明の体調不良に苦しめられるらしい。そして衰弱しきったあと、キナリ様の幻覚が見えるようになるという。
しかし、呪いの影響はそれで終わりではない。土屋さんの言ったことが本当なら、僕の寿命はあと五年から十年以内に尽きてしまうのだ。
いや、キナリ村の儀式が行われていた時でさえニエ様はそれくらいしか生きられなかったのだから、村が廃れた今、残された時間はもっと短いと考えていいだろう。最悪の場合、いま通っている高校を卒業することもかなわないかもしれない。
しかも、ニエ様となった者は死後も魂が成仏することはなく、永遠の苦しみを与え続けられる。
そしてキナリ様に取り込まれ、永遠に呪いの一部としてこの世を、あるいは誰かを恨み続けなければならないのだ。
許さない、お前だけは絶対に許さない。
同じ地獄のような苦しみを味わせてやる……と。
僕の人生はどうなってしまうのだろう。近い将来、僕は本当に死んでしまうのだろうか。
もしそうなら、とても納得できない。何も悪いことはしていないのに、どうしてこんなに突然、未来を閉ざされなければならないのか。
僕はまだ、何もやり遂げていないのに。
「……さん。夏目さん」
僕は、はっとして顔を上げる。すると茜音さんが心配そうに僕の顔を覗き込んでいた。
「あ……茜音さん……?」
「顔色が悪いですよ。大丈夫ですか?」
気づけば茜音さんがいつものようにお茶を出してくれていた。
おそらく茜音さんは、僕がぼうっとしている間に給湯室へ行き、お茶とお菓子をお盆に乗せ、この一般開架室に戻ってきたのだろう。僕はあまりにも悶々としすぎていたため、それに全く気が付かなかったのだ。
「あ……ありがとうございます」
「今日はマフィンを用意してみました。良かったらお召し上がりください」
しかし、僕はとても何かを口にする気にはなれなかった。
自分が新しいニエ様になってしまったかもしれない。その衝撃で胃の辺りがごろごろするし、お菓子を口にしても飲み込めそうにない。
不安のあまり、閲覧テーブルの向かい側に座った茜音さんに、おずおずと尋ねる。
「あの……茜音さん。呪いって本当に存在するのでしょうか?」
「……夏目さん?」
「茜音さんは以前、僕に話してくれましたよね。言葉には霊的な力……言霊が宿っている。だから無数の言葉によって構成される物語……特に怪談は、霊的な力をさらに増幅させていて、もはやそれそのものが呪術と言っていいかもしれない、と。
土屋さんの話していたニエ様継承の儀式は、村の成り立ちを聞くだけでニエ様となり、キナリ様の呪いに蝕まれるようになってしまう。これも呪術の一つとは言えないでしょうか?」
つまり、キナリ村怪談は、それを話して聞かせるという行為そのものが一つの呪術だったのでは。
そして僕は、そうとは知らずに、いつの間にか呪術をかけられていたのだ。
ただ、怪談の聞き手役のアルバイトをしていただけなのに。
自分で口にしつつ、その恐ろしさに顔から血の気が引いていく。すると茜音さんは、僕を励ますように言った。
「落ち着いてください、夏目さん。キナリ村の真実を聞いただけで、必ずしも呪われるとは限りませんよ。あれはあくまで私の立てた仮説に過ぎないのですから」
「そう……ですよね。単に僕が考えすぎているというだけですよね」
引き攣った顔で答えつつ、僕は不安を紛らわすために紅茶を飲もうとティーカップに手を伸ばす。
しかし、ティーカップを手に取った途端、ガタガタと右手が震え始めてしまった。ティーカップと受け皿がぶつかり合い、カチャカチャと甲高い音を立てる。
「あ……す、すみませ……」
ティーカップや受け皿に傷がついたら大変だ。僕は慌てて持ち上げかけたカップを受け皿に戻そうとする。
しかし、いちど露わとなった動揺はなかなか収まらない。落ち着こうとすればするほど、手が震えてしまう。
その一部始終を見つめていた茜音さんは自分の席を立ち、テーブルを迂回すると、僕の元にやって来てとなりの椅子に座った。そして僕からティーセットを受け取ったあと、小刻みに震える僕の右手を両手でそっと包み込む。
「ごめんなさい、夏目さん。私が怪談の聞き手役をお願いしたばかりに、怖い思いをさせてしまいましたね」
「いえ、茜音さんが謝るようなことでは……。僕の方こそ、すみません。普段は怪奇現象や心霊現象など信じないと豪語しているのに」
「いいえ、土屋さんのあのような話を聞いた後なら……しかもあなたが次のニエ様だなどと言われたら、どんなに勇敢な人でも不安になるのが当たり前です」
茜音さんの声は、とても穏やかで優しくて、気づいた時には僕は自分の中に巣食っている不安を口にしていた。
「僕……本当にニエ様になってしまったのでしょうか? 僕も土屋さんやアツシさんのようにさんざんキナリ様の呪いに苦しめられ、そして最後には死んでしまうのでしょうか……」
今にも消え入りそうな弱々しい自分の声を聞き、僕は自分が思っていたよりもずっと動揺していることに気づいた。
同時に、それまで理性で「まさか、そんなことがあるはずがない」と、どうにか保っていた心の均衡が崩れ、奥底にあった恐怖が爆発し溢れ出そうになる。
僕は茜音さんの手をぎゅっと握り返した。
そうしないと、自分自身がどこかへ消えてしまいそうだった。
そんな僕に、茜音さんは先ほどと変わらぬ落ち着いた声で、けれどきっぱりと断言した。
「そんなことは絶対にありません。たとえ何が起ころうと、私が必ず夏目さんを守りますから」
「でも……!」
「夏目さん、手の平を出してください」
不意に茜音さんからそう告げられ、僕は目を瞬いた。
「手の平……?」
「ええ、右手の手の平です」
僕は言われた通り、右手の手の平を茜音さんに差し出した。すると茜音さんは自分の指で僕の手の平に文字を書く。
最初は何を書いているのか分からなかったが、やがてその文字が〈鬼〉であることに気づいた。
「今のは……?」
「おまじないです」
「おまじない……」
「まじない……いわゆる咒術は、超自然的、あるいは霊的な力を借り特定の人やモノ、場所などに対して、望んでいる現象を現実に引き起こす行為や方法のことを指します。
一般的には、咒術は見えない力で人を害したり呪い殺したりする恐ろしい力だと考えられがちなのですけれど、使い方次第では逆にお守りにもなるのです。呪いと加護は本来、表裏一体のものなのですよ。ただ、力の方向性が違うだけで……。
いま、夏目さんに施したのは魔除けのおまじないです。何があろうとも、それがきっとあなたを守るでしょう。ですから、大丈夫ですよ。どんなことが起ころうと、あなたは死にません。私が約束します」
「……」
茜音さんの澄んだ瞳が僕を見つめる。
いつもと変わらず静かなのに、今の茜音さんからは何か不思議な圧力のようなものを感じる。
決して威圧したり睨んだりしているわけではない。とても穏やかな、いつも通りの茜音さんだ。けれどその神秘的な瞳からは何かを跳ね返し、毅然と打ち払うような力強さを感じるのだ。
そして、そんな茜音さんの瞳を見つめ返していると、自分の中に渦巻いていた不安や恐怖、悲しみや怒りといった感情が、すっと解けて消えていくように感じられる。
「少し、落ち着きましたか?」
「……はい」
「良かった。……夏目さん、忘れないでください。あなたは決して独りではないということを」
やはり茜音さんは優しい。
とても優しくて、そして強い女性なのだと、このとき僕は気付いた。
茜音さんがそばにいてくれるだけで安心できる。何かに守られているようなぬくもりを感じ、恐怖に揺さぶられていた心が鎮まっていく。
その細い身体の、どこからそんな強さが沸き上がってくるのだろうと驚嘆させられるほどに。
それから、茜音さんは紅茶を淹れなおしてくれた。
温かいお茶を飲み、茜音さんの作ってくれたマフィンを口に運ぶ。マフィンのほのかな甘さが傷ついた心を癒してくれる。キナリ様の呪いのことも、自分がニエ様となったかもしれないことも、だんだんどこか遠い出来事のように思えてくる。
僕は何をあんなに怖がっていたのだろう、何故、あんなにも怯えていたのだろう、と。
それからしばらく一般開架室で過ごし、僕は帰宅の途に就いたのだった。
ところが、狩森図書館を出てしばらくすると、再び胸の内で不安が頭をもたげる。
確かに茜音さんの施してくれたおまじないのおかげで、恐慌状態にあった僕の心は静まった。けれど、僕の不安や恐怖の根本は完全に取り除かれたわけではない。そのせいか、狩森図書館から離れれば離れるほど、ニエ様やキナリ様のことが頭の中に甦ってきてしまう。
まるで、魔法が解けてしまったかのように。
決して茜音さんを信じていないわけではない。僕を心配し、少しでも励まそうとしてくれるその気持ちはとてもありがたい。
でも、千年の長きにわたって多くの人々を苦しめてきたキナリ様の呪いが、おまじないくらいで弱まるなんてとても思えなかった。
千年もの間、キナリ様の呪いを解くことができた者は誰一人としていない。
キナリ様はそれほど恐ろしい存在なのだ。
黄昏時に沈む神御目市の中を自転車で走り抜ける。季節は初夏にさしかかり、日が落ちても温かく感じる日が増えてきた。でも今日は、何だかやけに肌寒く感じる。疲れているのだろうか。
赤信号に引っかかり、自転車を停めると、不意に咳が出た。二、三度ほど咳き込んですぐに治まる程度の軽いものだ。
――でも。
(あれ……?)
どきりと心臓が跳ねた。
今の咳はひょっとして……。
「風邪でもひいたかな……」
しかし、他に喉が痛いとか熱っぽいなどといった、風邪特有の症状があるわけではない。
まさか……まさか今のは、ひょっとして、キナリ様の呪いなのでは。
(……そんなわけない。呪いにしては、いくら何でも進行が早すぎる。だって土屋さんからキナリ村の話を聞いてから一日はおろか、一時間も経っていないんだぞ。きっとたまたま、空咳が出ただけだ)
精神的な負荷を強く受けたせいか、今日は何だかとても疲れた。体じゅうに疲労が溜まっているかんじがする。
夕飯はいつも節約を兼ねて自炊をすることにしているが、今日はコンビニで買った弁当とお茶で簡単にすませることにした。
ところが、コンビニで買い物をし、マンションに戻って私服に着替えたあとも咳は止まらない。
あまりにもひどくて、弁当の白米も呑み込めないほどだった。
(この咳……普通の咳じゃない。まさか、本当にキナリ様の呪いなんじゃ……?)




