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第三十二話 【因習村怪談】おばあちゃんの下駄⑧

「確かにあの小僧っ子の力は強い。普段は決して他の人間を寄せつけない鬼の娘が、あの小僧っ子を受け入れたのも分かるというものよ」


「言霊を操る力は鬼譚の蒐集にさぞや役立つであろうからの。利用しない手はなかろうて。鬼の娘も存外したたかよのう。菓子で小僧っ子の心と胃袋をつかむなどという古典的な策に出るとはの。ひひひ……」


(え……?)


 茜音さんが僕を利用している? まさか、そんなことがあるわけ……。


 しかし、扉の向こうのお年寄りたちの言うことを否定することができるほど、僕は茜音さんのことを知っているわけじゃない。


 茜音さんは僕にとっていつだって謎だらけで、僕はそんな茜音さんが好きだけど、それで茜音さんのことが理解できるわけじゃない。


 今すぐここを離れるべきだ。


 ここで何を聞いたって僕にその真偽が分かるわけじゃないんだから。


 頭ではそう思うものの、足はまるで地面に根を張ったかのように扉の前から動かない。僕は息を詰め、お年寄りたちの会話に耳を澄ますしかなかった。


「まったく、鬼の娘はほんに恐ろしい娘じゃ」


「あの娘のせいで、一体どれだけのものが犠牲になってきたか。まさに厄災そのものじゃ」


「少なくとも、狩森家の復興はもう無理であろうよ。穢れた一族の末路としてはしごく妥当であろうがな」


「だが、全ての元凶である鬼の娘は涙すらこぼさず、犠牲となった同族を弔うことすらしない。この図書館にこもって、せっせと鬼譚を集め続けている」


「まさに氷のような心の持ち主じゃ。人の情というものがない」


「仕方がなかろう。自ら鬼へと堕ちたくらいだ。人の情など残っていようはずもない」


 老人たちが何を言っているのか分からない。


 彼らが茜音さんについて喋っているのは何となく分かる。でもその内容はあまりにも現実味を欠いている。


(鬼の娘って……鬼になった娘という意味か……?)


 気づいたその瞬間、僕の脳裏に談話室でのとある光景が蘇った。


 かつて狩森図書館に、ヒナコと名乗る怪談の語り手の女性がやって来た。ヒナコさんは不審なメッセージアプリに困り果てており、それを解決するため、茜音さんは『鬼』と書かれた半紙を茶封筒に入れ、それをお守りとして彼女に手渡していた。


 あの時から不思議に思っていた。何故、お守りに『鬼』の字を選んだのだろうと。


 他にもご利益がありそうな時はたくさんあるのに、何故よりにもよって『鬼』なのか。


 でも、ひょっとしたら、あれにも何か理由があるのかもしれない。


 とはいえ、この世に鬼など存在するのだろうか。


 鬼は昔話などによく出てくる妖怪だ。心霊現象や怪奇現象ともまた違う。完全におとぎ話の存在なのに、この世に実在するのだろうか。


 それとも、『鬼』というのは何かの比喩表現なのだろうか。


 僕がぐるぐると思案する一方、老人たちは楽しげに話し続けた。


「あわれな小僧っ子は鬼の娘の思惑など知りもせず、あの娘に懸想しておる」


「あれもまた、尋常ならざる力を持つゆえであろうな。普通の人間ならば、鬼の娘には近づこうとも思わぬはずだ。なにせあの鬼の娘は、人ではない。人と共に生きるにはあまりにも異質すぎる」


 老人たちは再び、ひひひ、と下卑た笑い声をたてる。


 彼らは僕が茜音さんに好意を寄せていることに気づいているのだ。


 なんだかとても居心地が悪い。本当に親戚のおじさんやおばさんの会話を盗み聞きしている気分になってくる。


 すると、他の老人が会話に加わった。


「……しかし、あれほどの力を秘めているなら、あの小僧っ子、我らにとっても利用価値があるやもしれんぞ」


「そうさなあ。血肉にもさぞ強い力が宿っているであろうよ。おまけに若くて活きもいい」


「けへへ、確かにたいそう美味そうじゃ。人肉の味は今でも忘れられん」


 一瞬、何を耳にしたのか分からなかった。完全に脳がそれを理解するのを拒絶していた。


(人肉……? 人肉だって……!? この人たち、人肉を食べて生きてきたのか!?)


 人肉を食べ、それを嬉々として語るなんて、常識的にも倫理的にも絶対にありえない。人間のすることじゃない。


 でも彼らが人間ではなかったら。


 たとえば、もし……人を喰らう鬼であったら。十分にあり得るのかもしれない。


(この人たちは、人ではないんだ! 人間を喰い殺す鬼が、図書館の地下でひそひそと話し合っている……!!)


 しかも、いつ彼らが扉をぶち破り、こちらに飛び出してくるか分からない。


 いつの間にか自分は抜き差しならない状況に立たされている。


 僕はこの時、初めてそのことに気づかされた。


 扉の向こうの老人たちに、僕がここにいることを知られないようにしなければ。僕は必死で息を潜める。恐怖で足ががくがくと震え、一刻も早くこの場を離れたいのに一歩も動けない。


 おまけに、扉の向こうから容赦なく年寄りたちのヒソヒソ話が聞こえてくる。


「小僧っ子には手を出さぬ方が良いのではないか? さすがに鬼の娘も黙ってはおらんだろう」


「なあに、気にすることはない。ばれなければ良いだけのこと」


「ほっほ、では(わし)は小僧の右腕をもらうぞ」


「では、(わし)は小僧の太腿をいただくとしようか。腿は特に脂がのっておるからのう」


(わし)は断然、目玉じゃな。あのとろりとした舌触りはたまらんからなあ」


「鬼の棲み処に迷い込んだのが運の尽きよ。ほんに哀れな小僧っ子よのう」


 老人たちの声はいやに弾んでいた。彼らが冗談ではなく、心から人肉を食べるのを楽しみにしている様子が伝わってくる。


 一方、彼らとは逆に、僕はどんどん体から血の気が失せていった。


 何かで殴られたあのように頭がガンガンし、視界もぐらぐらと揺れる。体じゅうの筋肉が強張り、吐き気さえ催すほどだった。


 指先もかじかんで震え、思わず拾ったばかりのスマホを落としそうになる。


 物音を立てれば彼ら……この扉の向こうにいる鬼たちにきっと僕の存在を知られてしまうだろう。


 慌ててスマホを空中でキャッチし、ほっと一息ついた時だった。扉の向こうから、はっきりと老人の声が聞こえてきた。


 喉元に刃を突きつけるような殺気がこもっていて、なおかつ不快な粘り気のある声。


「……おや、あの小僧っ子がすぐそこに来ているようだよ」


 その途端、ひそひそ声がぱたりと止んだ。


 僕はぎくりとして扉の方を振り返る。


 水を打ったような静けさが暗闇の中に広がった。キーンと耳鳴りがするほどだ。


 だが、何も物音がしなくても、そこには悪意の気配が満ちていた。


 この目で確認しなくとも分かる。ヒソヒソ声の主たちが扉越しに僕を見ている。そして今も、どう食すのが最良かと品定めをしているのだ。


 その様を想像するだけで、濃厚な闇に押し潰されそうになった。生理的嫌悪感と本能的な恐怖で我を失いそうになる。


 徐々に早まる呼吸を何とか抑えようとし、その弾みでごくりと喉を鳴らした瞬間。


 分厚い木製の扉がガタガタッと音を立てた。僕は思わず、


「ヒッ……!」


 と小さく声を漏らす。


 ガタガタ、ガタガタ……音はだんだん大きくなっていく。


 何かが扉を破り、こちらへ現出しようとしている。


 今はまだ扉にかけられた閂がそれを防いでいるが、いつまでもつかは分からない。その証拠に、閂はミシミシと音を立てている。


 開かない扉に業を煮やしてか、カリカリという音も聞こえてきた。まるで爪で扉を引っかいているような音だ。


 カリカリ、カリカリ。ガリガリ、ガリガリ、ガリガリガリガリガリガリガリガリ……。


「う……、う……! うわああああ!」


 僕はとうとう、弾かれたように走り出した。手掘りの隧道は真っ暗で何度も壁にぶつかったし、床に散らばった瓦礫に足を引っかけて転んだりもしたが、構わず走り続けた。


 幾つも折れ曲がった階段を一気に駆け上がり、ようやく図書館の一階に到着する。


 けれど、それでも僕は走り続けた。恐怖のあまり完全にパニックになっていた。


 図書館の長い廊下を走り抜け、一般開架室の前まで来た時、誰かが目の前に飛び出してきた。


 このままでは確実にぶつかるだろう。


 僕は反射的にそれを避けようとする。しかし、途中でバランスを崩し転倒してしまった。


「うわあ!」


「きゃ……!」


 慌てて起き上がろうとするが、腰が抜けてしまったのか、なかなか立ち上がることができない。そんな僕を、先ほどの誰か……茜音さんが覗き込んだ。


「夏目さん、大丈夫ですか?」


「あ……茜音さん……?」


 茜音さんは僕が顔面蒼白で肩を激しく上下させているのに気づいてか、身を屈め、僕のそばで膝をついた。


「夏目さんがなかなか戻ってこないので、心配していたんです。……何かありました? 鬼でも見ましたか?」


「えっ……?」


 すると茜音さんは、ふふ、と小さく笑う。


「冗談ですよ。夏目さんがあまりにも慌てた様子だったので、つい……。それとも、本当に何かあったのですか?」


「あ、いえ……。何も……何でもありません」


 本当のことなど言えるはずもなかった。


 あれだけ止められていたのに地下に行ってしまったこと、そして隧道の奥にある扉の向こうから鬼たちが密やかに歓談しているのが聞こえてきたこと。


 そんな話を茜音さんに打ち明けられるわけがなかった。


 僕は気まずくなり、茜音さんから視線を逸らす。すると、茜音さんは小さく目を見開き、首を傾げた。


「……あら?」


「え?」


「夏目さん、肩に何かついていますよ」 


 僕の肩に茜音さんの手が伸びてくる。そして、彼女の華奢な指先が、僕の肩についていた薄紅色の破片をつまんだ。


 何かの花弁だ。まだ瑞々しい。


「これは……桜の花びら? 変だな、もう桜の季節はとっくに終わったのに」


 僕は眉根を寄せた。実際、季節はとっくに春を過ぎ去り、今や初夏を迎えつつある。町中で自転車を走らせていても、まず桜の花を見かけることはない。


 それなのに、この桜の花びらはいつどこで、僕の制服にくっついたのだろう。


 全く心当たりがないのだが。


 茜音さんは、しきりに不思議がる僕を食い入るようにじっと見つめていた。まるで何かを探るように、あるいは冷徹に観察するように。


 その感情の無い無機質な瞳に、僕はどきりとする。まるで、茜音さんに何もかも見透かされているような気分になってくる。


 けれどしばらくして、茜音さんは、ふと目元を緩めた。


 その時にはもう、いつもの茜音さんに戻っていた。


「大丈夫ですよ」


「え……?」


「何があっても、夏目さんは必ず私が守りますから。大丈夫です。心配はいりません」


 茜音さんはそう言って微笑んだ。包み込むような優しい笑顔。


 茜音さんの温かい眼差しを見ていると、だんだん僕の気持ちも落ち着いてくる。


 そう、大丈夫。きっと大丈夫だ。


 心配はいらない。


 茜音さんがそばにいてくれれば、きっと。


 しばらく一般開架室の閲覧テーブルで休んでいると、ようやく一心地ついた。部屋の中に響き渡る柱時計の音が妙に心地良い。地下階段を下りたこと、隧道の奥にある閂付きの木製扉の奥から聞こえてきたひそひそ声のこと。全ては夢だったのではないかと思えてくる。


 あれは一体、何だったのだろう。


 気になることは山ほどあれど、僕はあまり考えすぎないよう努めた。


 気持ちは落ち着いてきたものの、今はまだいろいろと混乱している。そんな頭で考えを巡らせても、きっとろくな結果にはならない。


 それからしばらくして、僕は家に戻ることにした。既に夕日は落ち始め、夜の帳が降りようとしている。

 学生鞄を担ぎ、一般開架室を後にしかけたその時、茜音さんが僕に小さな紙袋を渡してくれた。


「これは……?」


 戸惑う僕に、茜音さんは言った。


「今日、お出ししたクッキーの残りです。良かったらお家で召し上がってください」


「あ……ありがとうございます。わざわざすみません」


「いえ。夏目さん、今日はずいぶんお疲れのようでしたから。しっかり休んでくださいね」


「……はい」


 確かに今日はなんだかとても疲れた。早く帰って、シャワーを浴びて寝よう。


 狩森図書館の周囲を覆う薄暗い雑木林の小道を歩いていると、不意に背後で、地下で聞いたヒソヒソ声が聞こえたように感じた。ぎょっとして後ろを振り返る。しかし、今度は何も聞こえない。きっと風に揺れる木の葉のこすれ合う音が、誰かの囁きのように聞こえたのだろう。


 ただ、黄昏の中たたずむ狩森図書館を見つめていると、知らず知らずのうちに地下の老人たちの言葉が脳裏によみがえるのだった。


 ――確かにあの小僧っ子の力は強い。普段は決して他の人間を寄せつけない鬼の娘が、あの小僧っ子を受け入れたのも分かるというものよ。


 ――言霊を操る力は鬼譚の蒐集にさぞ役立つであろうからの。利用しない手はなかろうて。




 茜音さんがお土産に持たせてくれたクッキーは、乾燥剤が同封してあったからか風味が全く損なわれておらず、図書館で食べた時と同じでとても美味しかった。


 口の中でサクサクホロホロと崩れるクッキーは妙に儚くて、僕の胸を締めつけるようだった。



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