第三十話 【因習村怪談】おばあちゃんの下駄⑥
サヤカさんが狩森図書館を去ってから、僕と茜音さんはいつものように談話室を出て、一般開架室に移動した。
茜音さんはこれまたいつものように、ティーセットを用意してくれる。
閲覧テーブルの席に腰かけながら、僕はつい大きなため息をついてしまった。
「はあ……今回の怪談は、何だかいつもに増して不思議な話でしたね」
すると、茜音さんも閲覧テーブルの向かい側に座りつつ、静かに僕の言葉に頷いた。
「そうですね。田舎には良くも悪くも、その地域ならではの独特な文化や風習がまだまだ色濃く残っているのでしょう」
「〈むすめこ祝い〉に〈おのこ祝い〉……か。今でこそ女の子や男の子の成長を祝う伝統行事みたいですけど、昔は村の大人がどの子とどの子を結婚させるか決める場でもあったんですよね。
奥野津の風習は今では考えられません。全体のためとはいえ、あまりにも個人の幸せを蔑ろにし過ぎている。でも、厳しい時代、厳しい場所でみなが生き抜くにはそれしかなかったのかもしれません」
「夏目さんのおっしゃる通りだと思います。ただ、いくら仕方なかったこととはいえ、そんな不条理な社会で生きるしかなかった人々の苦しみや悲しみがそう簡単に癒えるはずもありません。その悲哀や苦悩の蓄積がこういった怪談を生んだのかもしれませんね」
茜音さんの口調はいつもに比べて、どこか淡々としているように感じられた。
茜音さんも女性だから、奥野津 ……特に日美谷の里の仕打ちにはいろいろと思うところがあるのかもしれない。その時はそう思った。
「『キヨ』という名の女の子の存在も謎ですね。かつては日美谷の里に嫁となる若い女性たちを連れ込んでいた語り部の少女だということですけど……でもそれだと時系列が合わないんですよね。
日美谷の里が滅んだのはずっと昔、サヤカさんのおばあさんの、そのまたおばあさんの時代です。もし当時の語り部の女性が生きていたとしたら、かなりの高齢になっているはずです。少なくとも絶対に十代であるはずはない。
『キヨ』という少女……彼女は本当に実在する人物だったのでしょうか」
「それは分かりません。ひょっとしたら、既にこの世の者ではなかった可能性もあります。いずれにせよ、真相は藪の中ですね」
「……ですよね。でも、日美谷の里が土砂崩れで無くなったにもかかわらず、今なお里に縛られ若い女性を勧誘し続けるなんて……少しかわいそうですね。
あるいは、他の人にとって残虐非道な日美谷の里も、彼女にとっては大事な故郷だったのかもしれない。だから里がなくなったあとも、懸命に里のために自らの役割を果たそうとしているのかもしれません」
そう考えると、何だか切なくなってくる。
『キヨちゃん』は生きている人間であるかどうかも分からないし、何人もの若い女性を隧道の奥にある崖下に突き落としてきた危険な存在だと理解しているのに、どうしても彼女のことが嫌いになりきれない。
すると茜音さんは口元にうっすらと笑みを浮かべた。
「ふふ、とても夏目さんらしい解釈ですね」
「そうでしょうか。茜音さんはどう考えているんですか?」
「私は必ずしも『キヨ』という少女が善意で若い娘たちを日美谷に連れて去っていたとは限らないと思います。たとえば……『キヨ』は日美谷の里で虐待されていた嫁たちの恨みや怨念が生み出したものだったかもしれません。彼女たちは自分が受けた苦しみと同じだけの苦痛を他の誰かにも味合わせたくて、若い娘を誰かれ構わず引きずり込もうとしていたのかも」
「まさか……それはさすがに……」
僕がぎょっとしたのを見て、茜音さんは小さく微笑んだ。
「ただの仮説ですよ。怪談のセオリーで考えると、そういったパターンも十分にあり得るというだけの話です」
僕は思わず息を呑む。
くすくすと笑う茜音さんはどきりとするほど美しく、そしてぞくりとするほど怖かった。
もし妖狐のように人間を誘惑して篭絡する魔性のものが存在するとしたら、彼女のような姿をしているのではないかとすら思ってしまう。
何だか、今日の茜音さんは変だ。
前回のウシミトンネルに関する怪談の語り手、ヒナコさんに茶封筒を渡していた時も少し変だったけど、今日は別の意味で変だ。
いつもなら、もっと怪談に対して好意的なのに。
今日はどうしてこんなにも冷淡で、悪意のある解釈をするのだろう。
違和感を抱いたものの、ここで事を荒立てたくなかった。茜音さんの様子が変なのには何か理由があるのだろう。僕はそう考え、話題を変えることにした。
「僕はまだ怪談の聞き手役を始めて日が浅いのでよく分からないんですが、こういった悲惨な話って多いものなんでしょうか?」
すると、茜音さんは「そうですね」と相槌を打ち、手元のティーカップに両手を添える。
「特に古い怪談には陰惨なものが多く見受けられる傾向があります。社会や技術が発達していないぶん、生み出される犠牲も大きかったのでしょう。
それに……怪談は人によって生み出されるものであるため、その特性に大きく左右されます。言うなれば怪談は人そのものなのです。
人はみな、誰しも優しさや愛しさといった美点を持ち合わせていると私は信じています。けれど、醜さや残虐さもまた間違いなく人の持つ一面なのです。ですから、それらを怪談から切り離すことはできないのです」
「考えてみれば、世間一般で語られる怪談もおどろおどろしいものが多いですしね」
思えばこれまで狩森図書館にやって来た語り手の怪談は、どれもそれほど陰鬱ではなかった。
みな、それぞれの事情を抱えており、自らの怪談にも思い入れのある人ばかりで、怖さだけではなく優しさや感謝の気持ちも抱いていた。
だからつい忘れそうになるが、怪談とは本来、恐ろしいものなのだ。
僕は目の前に置かれたティーカップの中で揺れる紅茶の表面を見つめつつ、呟いた。
「今はもう存在しない日美谷の里のために、お嫁さん候補を誘導する『キヨ』という語り部の少女……彼女は今も里のために若い女性を探し求めているのでしょうか」
それに対し、茜音さんは口元からティーカップを遠ざけつつ答えた。
「さあ、どうでしょう。断定はできませんが……サヤカさんの話によると、彼女が嫁にできると認識していたのは〈むすめこ祝い〉に参加していた少女だけのようでした。つまり、奥野津が衰退し〈むすめこ祝い〉も行われなくなれば、『キヨ』もおのずとその役割を終えるのではないかと思います」
「なるほど……サヤカさんが言っていた通りですね。良いものも悪いものも、いつかは全て等しく失われていく……世の中、そういうものなのかもしれません。『キヨ』という子が何者であったかは謎のままですが、いつか彼女が日美谷の里の呪縛から解放される日が来るといいですね」
すると茜音さんは、どこか遠くを見つめるような目つきになる。
「……そうですね。私も心からそう思います」
それから茜音さんは僕の方を見て微笑んだ。
いくつもの感情が折り重なった、黄昏色に染まった空のような眼差しをして。
「夏目さんは本当に優しい人ですね」
何故だろう。茜音さんは確かに笑みを浮かべているはずなのに、何だか今にも泣きだしそうに感じられた。
僕はハッとして茜音さんの顔を見つめる。
それと同時に、ある考えが唐突に僕の中に湧き上がった。ひょっとして茜音さんは『キヨ』という少女に自分、もしくは自分の知り合いを重ね合わせていたのではないか。だからどんな怪談に対しても鷹揚な茜音さんが『キヨ』に対してだけは辛辣な解釈をしたのでは。
どうしてそんな考えが浮かんだのかは自分でも分からない。
ただ、茜音さんの声音や表情から、『キヨ』に対する複雑な感情が感じられたのは確かだ。
『キヨ』に対して手厳しい評価を下しつつも、本当は彼女が救われることを願っている。それは、彼女のことをとても他人事だとは思えないからなのではないか。
けれど実際には、茜音さんは涙の一滴もこぼしておらず、静かに僕を見つめていた。
とても……とても静かに。
どうやら僕は早とちりをしてしまっていたらしい。自分が一方的な思い込みをしてしまったことが何だか気恥ずかしくなってきて、僕はつい目の前に出されたクッキーに手を伸ばす。
茜音さんは怪談のバイトを終えたあと、必ずお茶と手作りのお菓子を振舞ってくれる。今日はチョコチップクッキーと紅茶クッキー、そしてざらめクッキーの詰め合わせだ。
以前、振舞ってくれたプレーンクッキーのバージョン違いだろう。どれも風味が違っているが、さくさくほろほろとした食感は失われていない。
それと一緒に出されたのはダージリンティーだ。香りが強く豊潤で、クッキーの多彩な甘さに負けていない。
ほっと一息ついていると、二階から微かにパタパタと子どもの足音が聞こえてきた。それほど大きな音ではない。気のせいと言われればそうかもな、という程度の足音だ。
実際、以前の僕であれば気づかなかったかもしれない。でも今は違う。
この図書館は普通ではないということを知っている。そして、足音がするからと言って二階に上がっても、おそらく誰の姿もないということも。
こういったことに慣れてきたからか、サヤカさんの話も割とすんなり受け入れることができた。怪奇現象や心霊現象が本当に存在するのかどうか、以前ほど気にならなくなってきたのだ。
サヤカさんはとても落ち着いていて口調もはっきりしていたので、彼女の話に信憑性が感じられたというのもある。日美谷の里や『キヨちゃん』の話は嘘や作り話ではないと。
もちろん、本当のところは分からない。子どもの頃の記憶なんてたいてい曖昧だし、幼さゆえに物事の一面しか見えていなかったりする。
だが、それは些細な問題だと思うようになっていた。
理屈では説明がつかない現象は確かに存在する。しかも、想像していたよりもずっと身近にそれは存在するのだ。
どんなに否定したところで、科学では説明できないそれらの事象が消えてなくなるわけではない。そして、他のどんな心霊現象や怪奇現象よりもこの狩森図書館の方がよほど怪奇であり不思議な存在だということに気づいたのだ。
(茜音さんは狩森図書館の『心霊現象』に気づいているのかな……?)
僕が気付いているくらいだ。図書館の館長である茜音さんが気付いていないとは考えにくい。
とはいえ、今のところはそれを面と向かって尋ねる勇気もなかった。そのため、この問題は宙ぶらりんになったままだ。
(茜音さんに変な質問をして嫌われたくないしな)
二階の足音はすぐに止み、聞こえなくなった。僕はそれを特に気にすることなく茜音さんに話しかけた。
「サヤカさんが話してくれた怪談の怖いところは、キヨという少女から逃れられても日美谷の里への誘惑からは逃れられなかったというところですね。サヤカさんは里の呪いと表現していたけれど、それもあながち間違っていないような気がします」
サヤカさんやその姉、従姉妹を含む四人の女性たちは、結婚することでようやく日美谷の里の呪縛から逃れられた。彼女たちが日美谷の求める人材ではなくなったため、里への誘惑から解放されたのだ。
逆に言うと、四人の女性たちが結婚していなければ、今でも里に魅了されたままだったかもしれない。
そして、その魅惑に抗いきれず、山奥の隧道を潜った人もいたかもしれない。
そうなれば、万が一の事態も十分あり得ただろう。
「でも、何かしらの儀式が行われたとか、呪具が用いられたというわけでもないのに、呪いにかけられるなんてことがあるんでしょうか。呪いって、藁人形を使う丑の刻参りとかみたいに何らかのアイテムや行動が必要とされるものが多いイメージなんですが……それとも、呪いをかける側がもはや人ではなく呪いそのものと化してしまっているのなら、関係ないのかな?」
「そうですね……」
茜音さんは少し考え込んでから、まっすぐに僕を見る。
「夏目さんは言霊という概念をご存知ですか?」
――言霊。
まさかその言葉が茜音さんの口から発せられるとは思いもしなかった。
僕の心臓は大きく跳ね上がる。
「え……ええ。言葉にはそれそのものに力が宿っているとか、そういう考え方のことですよね?」
何とか平静を装って答えると、茜音さんは頷いて説明を続けた。
「よくご存じですね。古来から言葉には霊的な力が宿っていて、その言葉を口にするとその通りのことが現実に起こると考えられてきました。良い言葉を発すれば良いことが起こり、不吉な言葉を発すると不運や凶事を引き寄せるといった具合に、です。ですから、特にめでたい場では不吉な忌み言葉は避けられてきました」
茜音さんはティーカップを持ち上げ、紅茶を一口飲んでから、再び話し始める。
「言葉に力が宿るなら、言葉の蓄積によって成り立つ物語や怪談にも霊的な力が宿っていてもおかしくありません。むしろ、筋道の通った構成や、聞く者の感情を揺さぶる展開は、物語や怪談の秘める霊的作用をより高めるとも考えられます。
中には、もはや呪術と呼んでも差し支えないほどの力を宿した物語や怪談もあるでしょう。そういった力の宿るお話を聞かされた者は、いわば呪いをかけられたみたいにその力から逃れられなくなるのかもしれません」
「それはつまり、怪談を聞いただけで呪いにかかる可能性があるということですか?」
もし〈言霊の力〉を持つ僕が誰かに怖い話をしたら、それが現実となり、その誰かを苦しめたり傷つけたりすることもあるのだろうか。
内心で冷や汗をかきながら尋ねると、茜音さん淡く微笑んだ。
「これも、ただの仮定の話です。そういうこともあり得るかもしれないという、推測を前提にした話ですよ」
「そ……そうですか。そうですよね」
僕はぎこちなく笑ってそう答える。
とはいえ、胸の内では動揺が抑えきれなかった。
確かに、茜音さんのしてくれた話はただの仮説かもしれない。でも、筋は通っている気がする。特に怪談は恐怖などネガティブな感情を誘う話が多いから、影響が大きそうだ。
僕は〈言霊の力〉を持つせいか、何だか他人事とは思えなくてついあれこれと考えてしまう。
どうにも心が落ち着かないのだ。
(大丈夫……〈言霊の力〉は使わない。もし使いそうになっても、ばあちゃんの数珠がきっと守ってくれる……!)




