第二十二話 【トンネル怪談】トンネルの向こうには④
茜音さんの指摘はどれもしごく真っ当なものばかりだった。普段の僕ならすんなり納得していただろう。
でも、本当にそうなのだろうか。
ヒナコさんの切羽詰まった様子は、とてもただの思い込みによるものには見えなかった。加えてヒナコさん自身も、いたずらに怪談話をでっちあげ、周りを振り回す人にも見えない。
そもそもスマホのメッセージは後から何度も確認できる。風に揺れる枯れ尾花を幽霊と見間違えるのとはわけが違うのだ。ヒナコさんが語った全てを否定するのは間違っているのでは。
すると、茜音さんは僕の考えを察したのか、念押しするように僕に告げた。
「心霊現象や怪奇現象なんて、そうそう起こるはずがない。……夏目さんも常々そうおっしゃっているでしょう?」
つまり茜音さんは、ヒナコさんやアカリさんに気味の悪いメッセージを送りつけていたのはマユちゃんの霊ではなく、それらはあくまで迷惑メールの一種なのだと考えているのだろう。
怪異なんて存在しない。全ては人の恐怖や不安が生み出した幻にすぎない。
この件に関しては、茜音さんはそう考えているのだ。
「それは……そうですけど……。今回の話は何となく、今までは違うように感じるというか……」
僕はどうにも腑に落ちなくて、口ごもってしまう。うまく言葉にできないけれど、何故か茜音さんの言い分を受け入れることができない。歯車が噛み合っていない感じがするのだ。
すると茜音さんはふふ、と笑う。
「何だかいつもと逆ですね、私たち」
「……」
今日の茜音さんはどこかおかしい。
いつもはこういう風にはぐらかすような言い方はしないし、近寄り難い笑みを浮かべたりもしない。
それに、いつもの茜音さんであれば、決して語り手の語った怪談を否定するようなことは言わないはずだ。茜音さんは怪談を積極的に肯定することもないけれど、絶対に全面否定したりはしない。
それなのに、なぜ今回は頑なに怪談を現実にはなかったことにしたがるのだろう。
(ひょっとして、あの茶封筒の中身に触れて欲しくないのかな……?)
ヒナコさんの体験した怪談が事実だとすると、茜音さんが彼女に手渡した茶封筒の中身は何なのかということになる。あの『鬼』と書かれた紙に、怪異を鎮めるほどの力があるのかと。
だから茜音さんはヒナコさんの怪談を否定するのではないか。
茶封筒の中身が大したものではないということを裏付けるために。
やはり、茜音さんのことは謎だらけだ。
茜音さんは何故、怪談を蒐集しているのか。どうしてこの狩森図書館で館長をすることになったのか。この図書館の館長をする前は何をしていたのか。これまでどこで、どのように生きてきたのか。
そして今回、新たな謎が増えてしまった。茜音さんがヒナコさんに施したまじないは何なのか。茜音さんはどうしてそれを僕に知られたくないのか。
でも他の謎と同様に、僕がその真相を知ることはないのだろう。
心霊現象や怪奇現象を信じない僕でも、ヒナコさんの話はリアルに感じられた。彼女のまとっていた悲壮な空気がそう感じさせたのかもしれないし、或いはスマホという身近なツールが登場したために状況が想像しやすかったのもあるかもしれない。
ヒナコさんの話が本当なのかどうか、茜音さんが彼女に渡した茶封筒の中身は何だったのか。気になることは山のようにあるけれど、今はそれに触れない方がいいだろう。
つまり僕に残された選択肢は黙ることしかないということだ。
すると、茜音さんは押し黙った僕から視線を逸らした。一般開架室は静寂に包まれ、そのせいで柱時計の時を刻む音が妙に大きく感じられる。
それからしばらくして、茜音さんは再び僕の方を見た。その時には、いつもの柔らかい表情に戻っていた。
「少し……疲れましたね。お茶にしましょうか」
茜音さんが運んできてくれたのは、エスプレッソコーヒーと手作りのシュークリームだった。
茜音さんはコーヒーを淹れることもできるのか。しかもエスプレッソは専用の機械が必要だし、難しいと聞くのに。改めて、茜音さんについて知らないことばかりだと気付かされる。
僕と茜音さんは閲覧テーブルを挟んで座り、コーヒータイムを楽しんだ。
シュークリームはフワフワで柔らかく、中のクリームはバニラビーンズがよく効いていて香りも良い。一方、エスプレッソは濃縮された心地良い苦さが体に染み渡る。まるで疲れた脳をマッサージしてくれているかのようだった。
いろいろとモヤモヤしていたが、おかげで少しすっきりした。
「はあ……何だか生き返ったような気がします。シュークリームの甘みにエスプレッソの苦みがよく効くというか……」
ほう、と溜め息をつきながらそう言うと、茜音さんも同じように息を吐き、にっこりと笑った。
「分かります。甘いお菓子には苦いコーヒーがよく合いますよね」
茜音さんはすっかりいつもの穏やかな様子に戻っているように見える。そこで僕は今回の怪談の話をしようと思いついた。いつもそれが習慣になっているからか、怪談の話をしないのはかえって落ち着かないのだ。
茶封筒に触れなければ、たぶん大丈夫だろう。そう考え、僕はさっそく茜音さんに話題を振った。
「……今回のヒナコさんが話してくれた怪談の聞き手役をするのは、正直なところ少し疲れました。ヒナコさん自身もすごく緊張しておられましたし、話の内容も何ていうか……スマホをよく使う僕にとっては他人事に感じられなかったです。
ほら、スマホって最先端の技術っていうイメージじゃないですか。そういったものでも怪談の舞台装置になってしまうんですね」
すると茜音さんは、その話題に興味を惹かれたのか、頷いて言った。
「人のいるところに怪談あり、ですからね。未来の技術が現実となれば、そのうち宇宙ステーションの怪談やリニア新幹線の怪談なども生まれるかもしれません。そう考えると、怪談の可能性は無限大ですね」
茜音さんはどことなく嬉しそうに見える。この人は本当に怪談が好きなんだなあと僕は微笑ましく思う。
「でも、ヒナコさんの主張通りに考えれば、ヒナコさんはたまたまアカリさんと気が合い楽しい青春時代を送ったけれど、そのせいでトンネルの怪談に巻き込まれてしまったわけじゃないですか。そもそもヒナコさんがアカリさんと友だちにならなければあんなことにはならなかったのかもしれないですけど、友達ってそう簡単に選べないというか、なろうと思ってなれるものでもないですし。何ていうか……難しいですよね」
幽霊や怪奇現象を信じないことを信条としてきた僕が、なぜヒナコさんの話にはこうも感情移入してしまうのか。
それはきっと、早朝に見た夢のせいだ。忘れたと思っていたはずの過去が甦ってきたからだ。
あるいは、狩森図書館での体験も関係しているかもしれない。この図書館で頻発する怪異現象に触れていると、幽霊や怪奇現象など存在しないと主張することに無理があると認めざるを得なくなる。
怪異や心霊現象なんて存在しない。どれだけそう主張し、そして自分自身にも言い聞かせたことか。
でも、それももはや無意味になりつつあった。
すでに僕自身が気付いていたからだ。怪異を否定するのは所詮ただの欺瞞、自分にとって都合のいい偽りにすぎないと。
すると茜音さんは、僕の葛藤を見透かしたように柔らかく微笑む。
「どちらが良い悪いと簡単に決められないこともありますよ。結局は、ありのままに受け入れるしかないのでしょう。ただ……怪談の語り手の方たちが、この狩森図書館に来て少しでも救われるなら、この図書館が存在し続ける意味もあるのだと……私はそう思えるのです」
そう語る茜音さんの口調は慈愛に満ちていた。とても優しく、そしてどこか悲しい。先ほどの煙に巻くような返答をしていた時とは全然違う、僕の好きないつもの茜音さんだ。
だからこそ、彼女の言葉はすとんと僕の中に入ってきたのだった。
「ありのままに受け入れるしかない……」
茜音さんの発したその言葉を聞き、表現しようのない感情で胸がいっぱいになった。
まさか茜音さんが祖母と同じことを言うなんて。
祖母はよく僕に言っていた。「ありのままの自分を、そしてありのままの世界を受け止めなさい」、と。
でも、僕は昔と変わらず何も受け入れられていない。自分の事も、周りのことも、そして過去のことも。
黙りこくった僕を心配してか、茜音さんが声をかけてくる。
「……夏目さん? どうかなさいましたか?」
「あ、いえ……ちょっとおばあちゃんのことを思い出してしまって」
「そういえば、以前もおっしゃっていましたね。夏目さんはおばあちゃん子だったと」
「ええ。でも、おばあちゃんは僕が高校に進学する少し前に、亡くなってしまったんですけどね」
祖母が亡くなった時のことを思い出し、僕は弱々しく笑う。それを目にした茜音さんは、はっとして僕の右腕に視線を向けた。
「ひょっとして、その数珠もおばあさまから?」
「はい。僕にとっては形見のようなものです」
小さく答えると、茜音さんは申し訳なさそうに視線を伏せた。
「そうだったのですか……ごめんなさい。私、不躾なことを言ってしまいましたね」
「いえ、それはいいんです。この数珠が僕にとってお守りなのは事実ですから」
僕は右腕に嵌めた数珠を左手で握りしめる。すると、茜音さんが身を乗り出し、閲覧テーブルの向こうから手を伸ばしてきた。そして数珠を嵌めた僕の右手にそっとその手を重ねる。
ほっそりとしていて、そしてとても温かい手。茜音さんは僕の目を見つめて言った。
「何かあったら、いつでも言ってください。私で良ければお話を聞きますから」
茜音さんの瞳を見つめ返していると、何故か不意に胸が締め付けられ、涙が零れそうになった。茜音さんがどことなく祖母に重なって見えたからかもしれない。
祖母はいつも僕を心配して守ってくれていた。
どんなことがあっても、祖母だけはいつも僕の味方だった。
けれど、僕の祖母と茜音さんが似ていると思ったのがばれたら、茜音さんは気を悪くするかもしれない。しかも、そのせいで涙まで出そうになったなんて。だから何も悟られぬよう敢えて明るい声を出す。
「す……すみません。急に身の上話なんてしてしまって。僕はただのアルバイトなのに」
ところが、茜音さんは静かに首を振った。
「いいえ、私にとって夏目さんは『ただのアルバイト』などではありませんよ」
思わぬ言葉に僕は目を見開いた。
それはどういう意味だろう。僕にとって茜音さんが特別な人であるのと同じように、茜音さんにとって僕は特別な存在なのだろうか。
いや、まさか。そんなはずはない。
だって、僕はあくまでただの怪談の聞き手役で、茜音さんの特別になれるようなことはまだ何ひとつ果たしていない。
そりゃあ、もし僕が茜音さんにとって特別であるのなら、そんなに嬉しいことはないけれど。きっと茜音さんは僕を励ますために、わざとそういう言い方をしただけなのだろう。
もっとも、茜音さんの本心は分からない。目を瞬かせる僕に、茜音さんはただ静かに微笑むばかりだった。
それからすぐに夕刻になり、僕は家に戻ることにした。
「……それでは、今日はもう帰ります。エスプレッソとシュークリーム、ごちそうさまでした」
「いえ、こちらこそ次もよろしくお願いしますね」
いつものやり取りを済ませ、僕は一人で図書館の玄関に向かう。
薄暗い廊下を通り過ぎ、二階に上がる階段の前まで来た時だった。上から誰かが、ぎし、ぎし、とゆっくり歩く音が聞こえてくる。いつもの子どもが走り回る足音ではない。どちらかというと、杖を通いたお年寄りが歩く音みたいだ。
ヒナコさんが帰ってから来館者はいない。僕と茜音さんの他には誰もいないはずなのに。
僕がぎょっとして階段を見上げると、すぐに音は止んでしまった。日が落ちたからか、一階に比べてずいぶん明るい二階も今は真っ暗で、僕が立っているところから様子を知ることはできなかった。
この狩森図書館はおかしなことだらけだ。蔵書はひどくジャンルが偏っているし、そのせいもあってか図書館の利用者はほとんどいない。来館者は怪談の語り手だけ。
僕は最初、怪談蒐集は茜音さんの個人的な趣味だと思っていた。でも、実際の利用者の割合を考えると、まるで怪談蒐集の方が「本業」なのではないかと思えてくる。
ところが、滅多に人が来ないにもかかわらず、いつも閑散としている図書館からは常に何者かの気配が漂っている。実際に人がいないはずの二階や三階から足音や話し声がしたり、無人の部屋から物音が聞こえたりする。また、謎の人影を目にすることすらある。
地下に至っては言わずもがなだ。以前は茜音さんに、地下に近づくなと念押しされていたが、今はそんな忠告が無くても自ら近づかないようにしている。
思えば、図書館の怪奇現象は僕が地下階段に近づいたことから始まった。地下に何があるのか興味がないわけではないが、それよりは薄気味悪さの方が勝っている。
気味が悪いと言えば、あの黒猫もだ。赤と金のオッドアイでいつも僕を睨みつけ、そして威嚇してくる小さくて黒いやつ。あの憎たらしい黒猫は絶対に僕には懐かず、気づけばそこにいてこちらを見つめている。まるで僕を見張っているかのように。
そういえば、時おり僕の足元を何か黒いものがサッと通り抜けていく。大きさからしてあのオッドアイの黒猫だろうと思っていたが、あれは本当に黒猫だったのだろうか。
異様なまでに動きが早く、僕が肉眼で捉えられるのはその残影だけ。だから実のところはっきりと確認したことはない。
そして何といっても、最大の謎は茜音さんだ。普段はとても落ち着いていて物静かな人なのに、何故だか時々、ふと怖いと感じる瞬間がある。
決して暴力的な雰囲気をまとっているわけではないし、精神的な威圧を受けるわけでもない。そういった恐怖とは種類が違う。これ以上近づいてはならないという警告を心身の感覚全てが発してくる、そういう怖さだ。
それに、彼女が普段なにをしていてどこに住んでいるのかといったことも、全く分からない。狩森図書館の中には居住スペースがないから、茜音さんもどこかに居を構えていて図書館に通っているのだろうと考えられるが、不思議なことにその様を全く想像することができないのだ。
それほど何の情報もない。
茜音さんがヒナコさんに渡した茶封筒は何だったのだろう。彼女は地下に何を隠しているのだろうか……。
奇妙なことは山ほどあれど、それでも僕は狩森図書館でのバイトを辞めるつもりはなかった。図書館で起こる奇怪な現象を全て足したとしても、それでも茜音さんに対する好意の方が勝るからだ。
茜音さんの優しいところ、落ち着いていて大人っぽいところが僕は好きだ。
この図書館を大切にしていて怪談を誰より愛しているのに、時おりとても寂しげな表情をするところも大好きだ。
彼女が僕に何か隠し事をしていることは分かっている。それどころか、嘘をついているんじゃないかと思うこともある。
それこそ、茶封筒を巡る問答をした時のように。
それでも、茜音さんを好きだと思う気持ちは変えられない。
図書館を訪れると、必ず茜音さんが笑顔で僕を出迎えてくれる。そんな時、僕は茜音さんのことはもちろん、世界のことも自分の事ですら愛おしいと感じる。
もしかしたら、これが幸せということなのだろうか。そんな考えさえ湧き上がってくる。
僕は茜音さんが好きだ。
もう、茜音さんと出会う前の生活には戻れない。それくらい大好きだ。
だから、僕の足が狩森図書館から遠のくなんてあり得ない。
この先に何が待ち受けていたとしても。




