第十七話 【バイト怪談】就職氷河期協奏曲④
最後にヤマダさんは言った。
「実は、フリーター時代のことを誰かに話したのは今回が初めてなんです。今までずっと、あの時代のことは自分にとって恥ずべきことなのだという思いがありました。ましてや、そんな過去を人に打ち明けたら、自業自得とか被害妄想と言われるんじゃないかという恐怖が拭えなかった。だから、サクマさんのことも誰にも言えませんでした。でも、この図書館で当時のことを振り返ることができて、ようやくいろんなことが受け入れられたような気がします」
それからヤマダさんは僕をまっすぐに見て笑った。鉛色の重々しい曇天がようやく晴れ、眩しい日の光が差し込んだような笑顔だった。
「ありがとう、夏目くん。僕の話を聞いてくれたのが君で良かった」
それから僕と茜音さんが見送る中、ヤマダさんは狩森図書館を後にした。
僕はヤマダさんの背中を見つめつつ、なぜ彼が下の名を名乗らなかったのかを考えていた。
おそらく、ヤマダというのは彼の本名だろう。ヤマダさんの性格や怪談の中身を考えても、偽名を用いるとは考えにくいし、その必要性も感じられない。ただ、ヤマダさんはサクマさんの下の名を知らなかった。二人は互いのフルネームも知らない、その程度の、決して親密とは言えない間柄だったのだ。
だからヤマダさんも下の名を名乗らないことでバランスを取ったのではないか。多分、彼の律儀で誠実な性格がそうさせたのだろう。
ヤマダさんがこれからも順調に教師生活を送ることができますように。僕はそう願わずにはいられなかった。
ヤマダさんはどんなに苦労しても、教職に就くという夢を諦めなかったのだ。それほどの熱意を持った人を応援するなという方が無理な話だ。それに、ヤマダさんならきっと、自分と同じように苦難に遭っている生徒を見捨てたりしないだろうから。
ヤマダさんを見送ったあとも茜音さんは談話室に戻り、机に就いて原稿用紙をまとめていた。既に書き留めた内容に、注釈や補足説明を入れているようだ。忘れないうちにということなのだろう。
さらにこの書き留めた原稿を推敲して、後日、文書作成ソフトで清書するらしい。そうして初めて資料用として保存されるのだ。そう考えるとかなり手間がかかっていると思う。
僕は熱心に作業をする茜音さんの邪魔にならないよう、そっと近づき声をかけた。
「茜音さん、怪談の書き取りはうまくいきましたか?」
すると茜音さんは羽ペンを机の上に置き、僕に微笑んだ。
「ええ、夏目さんもお疲れさまでした。そろそろお茶にしましょうか」
「本当ですか? やった……じゃなくて、何だかいつもすみません」
「ふふ、気にしないでください。私が好きでやっていることですから」
そんな話をしていると、僕の足元を黒い何かがサッと走り去っていった。おそらく、あの紅と金のオッドアイをした黒猫だ。
あまりにも一瞬のことだったので、その姿をはっきり捉えることはできなかった。でも、大きさを考えてもあの黒猫で間違いない。
いつの間に部屋に入り込んだのだろう。全く気付かなかった。
「うわあ!?」
驚いて仰け反った僕は、腰を茜音さんの机の端にぶつけてしまった。その拍子に、卓上に広げてあった原稿用紙がバサバサと床に落ちてしまう。しまった、ヤマダさんが語った怪談が書き込まれた、茜音さんの大事な原稿なのに。
「す……すみません!」
僕は慌てて原稿用紙を拾おうと身を屈めた。すると茜音さんが鋭い声を上げる。
「だめ、触らないで!!」
その語調の激しさに僕はびくりとして体を硬直させ、茜音さんを見上げた。すると、茜音さんもまた自分自身の発した声に驚いているようだった。
それはそうだろう。普段の茜音さんからは想像がつかないほどの厳しい声音だったから。
茜音さんは小さく咳払いをしたあと、いつもの穏やかな口調に戻って説明する。
「……ごめんなさい。大きな声を出してしまって。でも、私の使っているインクはとても特殊で、人体に触れると害になるので危険なのです」
そういえば、絵の具の中には有害な物質を含むものがあるから気をつけて使用するようにと、中学校の美術で習った覚えがある。ひょっとしたらインクにもそういった類のものがあるのかもしれない。
「でも……それならこのインク、茜音さんにとっても危険なんじゃないですか?」
茜音さんはそんなインクを使って大丈夫なのだろうか。思わず心配になってそう尋ねると、茜音さんは僕から視線を逸らしつつ言った。
「ええ。でも、私は取り扱いになれていますから。それに……どうしてもこのインクでなければならないのです」
それはどういうことだろうか。僕は首を傾げた。
怪談の書き留めをするためには、この危険なインクでないといけないということか。そこに必然性は感じられないのだが、何か事情があるのだろうか。茜音さんの表情は硬く、単に愛用しているとか、手に馴染むとか、そういった軽い理由ではなさそうだが。
そういえば、このインクは少し特徴的なにおいがする。染料や顔料、または溶剤といった、一般のインクに含まれる素材が放つにおいではない。もっと禍々しくて、おぞましくて、体がにおいそのものを拒絶するような感覚を覚えるのだ。
そういえば、インクで書かれた字を長く見つめていると、だんだんそれが動き出すというか、脈打つようなかんじも……。
じっと原稿用紙を見つめる僕に気づいたのだろうか。茜音さんはさりげなく原稿用紙を引き出しにしまい、僕に笑いかけた。
「……一般開架室に移動しましょうか」
茜音さんが用いているインク壺の中に入っているものは何なのか。気にならないではなかったが、さりとて問い詰めるほどのことでもない気がして、僕はそれ以上、インクについて触れるのはやめることにしたのだった。
一般開架室に移動すると、ほどなくして茜音さんが給湯室から紅茶を運んできてくれた。瞬く間に部屋の中が紅茶の香りに包まれる。ただ、紅茶の香りにしてはいやに甘酸っぱい。
「あ、今日の紅茶はいつもと香りが違うんですね」
僕が指摘すると、茜音さんは嬉しそうに微笑んだ。
「そうなんです。たまには別のものをと思いまして、今日はアップルティーを淹れてみました」
そう説明しながら、茜音さんは慣れた手つきで僕の前に紅茶の入ったティーセットを置く。
「ありがとうございます。これはこれでいい匂いですね」
色はいつもの紅茶と変わりない。だが、匂いが明らかに違う。言われてみれば、確かに林檎の香りがする。続いて出されたのは四角い形をしたシンプルなケーキだった。
「それから、こちらはパウンドケーキです」
僕は驚いて目を見開いた。
「ひょっとして、このケーキも茜音さんの手作りですか?」
「ええ。私、パウンドケーキは昔から得意なんです」
「ケーキまで焼けるなんて……茜音さん、すごい!」
すると茜音さんは、ふふふ、と笑って顔をほころばせた。誉められたことを喜ぶ少女のような、純粋無垢な笑顔だった。
「このケーキは他のケーキ類に比べても、比較的、作り方が簡単なのです。その割においしくできるので、よく作るんですよ」
「なるほど、一口にケーキと言ってもさまざまなんですね。それもそうか。スポンジケーキの他にもパイとかタルトとか、ムースケーキとかもありますもんね。このパウンドケーキもすごくおいしそうです。いただきます」
フォークでケーキを切り分け口に運ぶと、バターの芳醇な香りが口の中に広がる。その中に、微かにつんと鼻孔を刺激する香りも混じっている。
「あ、お酒の味がする」
すると茜音さんは、閲覧テーブルを挟んで僕の向かい側の席に座りつつ、その正体を明かしてくれた。
「香りづけにラム酒を加えているんです。ほんの少量なので、夏目さんでも大丈夫だと思います」
「確かに、そこまで酒の味は強くないので食べやすいです。ラム酒が入ることで味がぐっと大人っぽくなるというか……上品になりますね。とても美味しいです。アップルティーにもこれまたよく合いますし」
「ふふ、喜んでもらえて良かったです。夏目さんが良ければまた作りますね」
お菓子のことについて話す時の茜音さんは心から楽しそうだ。そこには何のわだかまりも感じられない。だから僕も気兼ねなく話すことができる。
こんな時間が永久に続けばいいのに。そう思わずにはいられない。
茜音さんがこのままずっと、幸せそうならいいのに。
そうして他愛のない会話を交わしながら、ひと時のティータイムを楽しむ。それが一区切りついてから、僕は今回の怪談について話題を転じた。
「……それにしても、今回の語り手のお話は厳しい社会情勢を反映したものだったせいか、聞き手である僕も身につまされる思いがしました。正直、とても辛かったです。怪談としては心温まるものだったのが唯一の救いでしたね」
しみじみと溜め息をつくと、茜音さんもそれに頷いた。
「確かにそうですね。この図書館には様々な年代の方がやって来て怪談を話してくださいます。その多くは語り手の体験談です。そのお話に耳を傾けていると、それぞれの時代ごとに特有の苦難があったのだということを気づかされます」
茜音さんの言葉を聞き、僕は前回の怪談の語り手である野沢さんのことを思い出した。野沢さんは、いわゆる高度経済成長期の恩恵を最も受けた世代であるが、若い頃はヤマダさんと同じように苦労していた。
きっと、生きるのが簡単な時代なんてない。だからこそいつの時代も、その時代ごとの怪談が存在しているのだ。
「ヤマダさんはサクマさんの魂が自分を救ってくれたのだと信じているようでした。茜音さんはどう思いますか? 既にこの世にはいない人が、生きている人間を救うなどということがあるんでしょうか」
そう尋ねると、茜音さんは口にしていたティーカップを受け皿に戻して言った。
「そうですね……常識で考えれば全ては意識が朦朧としていたヤマダさんの見た幻覚だったという可能性が一番高いのでしょう。けれど私は、現実か否かを詮索するよりヤマダさんの思いを尊重したいと考えています。ヤマダさんにとってはご自分の経験が『真実』なのでしょうから」
とても茜音さんらしい返答だと僕は思った。語り手に対する優しさとリスペクトに溢れている。
以前の僕であれば、その意見に反論していたかもしれない。けれど、今回はそういう気になれなかった。
「僕はやっぱり、霊とか魂とかそういったものの存在を信じる気にはなれません。でも、そんな僕でも、サクマさんのような幽霊ならいてもいいんじゃないかと思います。それはさすがに都合が良すぎでしょうか?」
すると、茜音さんは柔らかく微笑み、首を横に振る。
「いえ、そういう考え方もとても人らしくて良いと思います。私も……語り手であるヤマダさんの怪談蒐集に携わることができて良かったと、今回は特にそう感じています。もちろん、どの方の怪談でも関わることができるのは大変ありがたいことなのですが、ヤマダさんはきっとご自分の話をずっと誰かに聞いてほしいと切望されてきたでしょうから。それを叶えるお手伝いができたことがとても嬉しいのです」
茜音さんの言葉を聞き、僕は最後にヤマダさんから、「僕の話を聞いてくれたのが君で良かった」と感謝されたことを思い出した。
もしかしたら、ヤマダさんはずっと自分の抱えてきた苦しみを誰かに話したかったのかもじれない。でも実際にはそれを誰にも打ち明けられずにいたのだろう。
だからこそ、彼はこの狩森図書館に来たのだ。
自らの想いを他の誰かに伝えるために。
ただ、ヤマダさんにとって、サクマさんのとのエピソードは厳密には怪談ではないと思う。何故なら、ヤマダさんは魂となって目の前に現れたサクマさんに対して、全く恐怖を抱いていなかったからだ。
むしろ、命を助けられたと恩義すら感じている。
もしサクマさんとのエピソードに関して、怖い話ですね、不気味ですねといった感想をヤマダさんに伝えようものなら、ヤマダさんは激しく憤ったことだろう。
けれどそれでも、ヤマダさんは狩森図書館を訪れた。たとえ怪談という不本意な形をとってでも、自分の体験を誰かに知って欲しかったのではないだろうか。
そして狩森図書館はヤマダさんのような人のためにこそ存在しているのかもしれない。僕は不意にそう気づいた。
語り手が誰にも話せないような類の話。もし仮に話したとしても、幻覚や妄想と一蹴されて顧みられることのない怪奇譚。
しかしそれでも、その怪奇譚には誰かの、何かしらの強い想いが込められているのだ。
どうか忘れないで。お願いだから目を背けないで。
そう、自らの存在を主張するかのように。
日常生活においては自然に発露されることのない秘められたそれを受け取る場、それが狩森図書館なのではないか。




