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第十六話 【バイト怪談】就職氷河期協奏曲③

 薄れゆく意識の中、あれだけ激しかった雨音も徐々に聞こえなくなっていきました。


 どこか深いところに引きずり込まれる感じがして、意識がプツンと途切れたその瞬間。


 誰かが僕の肩をつかんだんです。そして背後から声がしました。


「おい、しっかりしろ。大丈夫か?」


 その声、そして素っ気ない口調は間違いなくサクマさんのものでした。


 サクマさんはいやに強く僕の肩をつかんでいて、ぐいと後方に引っ張りました。僕はほとんど意識を失っていて脱力状態だったので、踏みとどまることもできず、大きく後ろによろめきました。


 そして、雨でぬかるんだ地面に足を取られ、尻もちをついたんです。


 その時は何が起きたのか分かりませんでした。ああ、自分は意識を失っていたんだと初めて気づいたし、握りしめていたはずの誘導灯もだいぶ前に落っことしていたらしく、半分、泥の中に埋まっていました。自分では全然気が付かなかったのでショックでしたね。


 一方、僕が知らなかっただけでサクマさんもちゃんと復旧工事の現場に来ていたんだということに、どこかほっとしました。


 今思うと、いわゆる虫の知らせというものだったのでしょうか。その日の僕はサクマさんが交通誘導のアルバイトに来ていないことに不安を覚えていました。でも、サクマさんはちゃんとバイトに来ていたのです。それを知り、大きく安堵したのです。


 けれどそれも束の間のことでした。


 僕が尻もちをついてわずか数秒後、すぐ目の前の工事用の大型トラックが走り抜けていったんです。ほんの目と鼻の先のことで、トラックの上げた水しぶきを全身で浴びたほどです。


 トラックがスピードを緩めた気配はありませんでした。夜間である上に、大雨がざあざあと降っていて視界が悪く、トラックの運転手は僕がそこにいることを認識していなかったと思います。


 それに気づき、僕はぞっとしました。


 もし僕が意識を失ったまま先ほどの場所に立っていたら、トラックと接触していたかもしれません。それくらいなら、もしもの話で済みますが、仮に意識を失ったまま前方にでも倒れ込んでいたら、間違いなく大型トラックと正面衝突し、僕の命は無かったでしょう。


 あの時、サクマさんが声をかけてくれたからこそ、最悪の事態を免れることができたんです。


 サクマさんに礼を言わなければと思い、僕は立ち上がって周囲を見回しました。


 ところが、その時には既にサクマさんの姿はどこにも無かったのです。真面目なサクマさんのことですから、おそらく自分の持ち場に戻ったのでしょう。雨足があまりにも強かったため、一メートル先のことすらよく見えず、僕はサクマさんが離れるところにも全く気付かなかったのです。


 幹線道路の復旧工事はまだ続いており、意識を取り戻した僕も交通誘導に戻りました。雨も風も勢いを増しており、身体的な辛さは相変わらずでしたが、非常に怖い思いをしたせいか今度は眠くなりませんでした。


 先ほどのトラックの件は本当に危機一髪だった。思い出しただけで身の毛がよだつ。下手をすれば本当に死んでいたかもしれない。


 そう考える一方で、サクマさんに対する感謝の気持ちも増していました。そうだ、サクマさんにお礼をしよう。今回のみならずいつもお世話になっているのだから、何か差し入れをした方がいいかもしれない。


 そんなことを考えながら誘導灯を振っていると、工事現場の責任者がやって来て工事はいったん中止だと告げました。


 雨は相変わらず土砂降りで全く止む気配がありません。地盤も想定以上に緩んでおり、再び土砂崩れの恐れが出てきたので一度、引き上げようということになったそうです。


 正直なところ、ほっとしました。もはや僕の体力的にも限界だったからです。


 それからすぐに事業所に戻ったのですが、他の多くの現場作業員やアルバイトが集まる中に、サクマさんの姿はありませんでした。どこを探してもどこにもいない。さっきの礼を言いたかったのに。


 そう思って僕は現場作業員の一人に聞いたんです。「サクマさんの姿が見当たりませんけど、どこにいるか存知ですか?」と。


 するとその作業員は思わぬことを言いました。


「サクマは、今日は休みのはずだぞ。何でも昨日の昼間、心臓発作を起こして自宅で倒れ、病院に運ばれたとか。とてもバイトどころじゃないだろ」


 僕は仰天しました。サクマさんが倒れていたなんて、全く知らなかったんです。特に携帯番号やメールアドレスなども交換していませんでしたし、深い親交があったわけではないので当然と言えば当然なのですが、それにしても数日前、工事現場で会った時はいつも通りに仕事をしていてどこにも具合の悪そうなところなんて無さそうだったのに……。


 それに、さっき僕がトラックに轢かれかけた時に声をかけてくれたのは、間違いなくサクマさんだった。一体どういうことなんだろう。僕は夢でも見ていたんだろうか。


 呆然としていると、今度は突然、事業所に電話がかかって来て所長が対応に出ました。最初、勢いが良かった所長の声の調子はだんだん低くなり沈痛さを帯びていって、その様子から何か悪いことが起こったのだということが伝わってきました。


 何だか嫌な予感がする。まさか……ひょっとして、所長の電話はサクマさんに関することなのではないだろうか。そう思いついた瞬間、心臓が早鐘を打つのがはっきり分かりました。


 いや、そうとは限らない。所長は仕事先と今後の復旧工事について話し合っているに違いない。


 ……しかし、頭でいくら否定しても不安は膨らむばかりで、胸の圧迫感も増していく。あまりの鼓動の速さで息が詰まるほどでした。


 しばらくして所長は電話対応を終え受話器を置くと、僕たちの方を振り返って言いました。


「いま、サクマのご家族から連絡があったんだが……サクマな、病院で亡くなったらしい。死因は心不全だそうだ」



※※※


 

「……心不全、ですか。お年寄りに多いイメージのある病気ですね」


 僕が指摘すると、ヤマダさんは悲痛な面持ちでそれに答えた。


「そうですね。ただ、不健康な生活習慣や過剰なストレス、そして運動不足などが重なると、若者でも心臓の病になることがあるのだそうです。サクマさんも僕と同じで、たくさんのバイトを掛け持ちしているようでしたし、中には夜勤など時間の不規則なものもあったでしょうから、無理が祟って体を壊したのではないか……そう思えてなりませんでした。ひょっとしたら何か持病があったのかもしれませんが、だとしても、余裕のある人間らしい暮らしができていたら突然死は十分に防げたのではないでしょうか」


 その可能性は十分にあるような気がする。サクマさんもヤマダさんと似たような境遇にあったのだとしたら、少し体調が悪くてもアルバイトの方を優先させただろう。その結果、病院に運ばれた時には既に手遅れになってしまっていったのかもしれない。 


「何ていうか……言葉がないですね。大学を卒業しても就職先が無くて、それでも奨学金は返済しなければならなくて……そのために一生懸命にバイトをしたら、働きすぎてしまって突然死……あまりにも救いが無さすぎる」


 はっきり言って、今回の話は何よりもその現実が一番恐ろしい。下手な怪奇譚(ホラー)よりずっとホラーだ。ヤマダさんは淡々とそれに答えた。


「当時は珍しい話ではありませんでした。先ほども言った通り、念願の就職を果たしても常軌を逸した過酷労働と低賃金で心身を壊すという人も多かったですし、結局は就職できようとできまいと同じ地獄ですよ。

 それに、さらに追い打ちをかけたのは、僕たちにはそれをおかしいと感じる事すら許されなかったということです。こんなの異常だ、改善すべきだ。心の中でどれだけそう思っていても、口に出すことは絶対に許されなかった。そんなことを言えば、また『氷河期の甘えが始まった』と揶揄されるだけ。だから全ては自己責任と片付ける以外になかったんです。サクマさんもそういった風潮の犠牲になった一人かもしれません」


 ヤマダさんは言葉を詰まらせ、俯いて目をしばたかせた。


 僕はかける言葉が見つからなかった。当時を知らない僕がどんな励ましの言葉を口にしようとも、それは欺瞞にしかならないだろうから。だから、黙してヤマダさんの次の言葉を待つしかなかった。


 気持ちが落ち着いたのか、しばらくしてヤマダさんは口を開く。


「……ただ、一つ腑に落ちないことがあります。それは、幹線道路の復旧工事の際、意識が朦朧としてフラフラしていた僕の肩をつかんだのは誰かということです。

 あの時、僕は確かにサクマさんの声を聞きました。それどころか強く後ろに引っ張られ、尻もちまでついたんです。しかし、実際のサクマさんは心臓発作を起こして自宅で倒れ、病院に搬送されていたわけです。外を出歩くことはもちろん、工事現場に来られるわけがありません。

 それどころか、アルバイト先の事業所に電話がかかってきたタイミングを考えると、サクマさんはあの時点ですでに亡くなっていた可能性が高い。どう考えてもサクマさんは、物理的にはあの場所に存在し得ないんです」


 熱弁するヤマダさんに対し、僕は遠慮がちに尋ねた。


「その……気を悪くされるかもしれませんが、ヤマダさんの勘違いという可能性はありませんか? 復旧工事の時は悪天候で風雨の勢いが凄まじく、寝不足も相まって意識が朦朧とするほどの酷い体調不良だったんですよね? それほどの絶不調なら脳もうまく働いていなかったでしょうし、幻覚を見たとしてもおかしくないのではないでしょうか」


「それは十分にあり得ると思います。というか、常識で考えたならそれが事実なのでしょう。それでもね、僕は思うんですよ。あの時、サクマさんは本当にそこにいたんじゃないかって。そして魂となっても『こいつ、また危ないことをしているな。仕方のない奴だな』と言いながら手を貸してくれたんじゃないでしょうか。

 だって、トラックが近づいてきたあの時、僕は確かに意識を失っていたんです。それなのに、ぶつかる直前にタイミング良く後方によろめいて尻もちをつくなんて、あまりにも話ができすぎています。

 ……僕の考えが科学的でないことは重々承知しています。それでも、僕は今でも自分はサクマさんによって救われ、生かされたのだと信じているんです」


 ヤマダさんの目は至って真剣で、そして揺るぎのない確信に満ちていた。もはや彼の前では、科学的証明や論理的思考など何の意味も為さないのだろう。


 サクマさんは死後もヤマダさんを心配し、助けてくれたのだ。だからこそ自分は今もこうして生きている。誰が何と言おうと、それがヤマダさんにとっての真実なのだ。


「……それからしばらくして、僕はとある中学校の非常勤講師になりました。どうしても教師になるという夢が忘れられなかったからです。どんな形であれ、子どもと関わる仕事がしたかった。もちろん他のアルバイトも続けていて忙しかったんですが、どれだけ大変でも非常勤講師の仕事はやめませんでした。長きにわたるフリーター生活で、根性だけは鍛えられていたので、何とか耐えられたんです。

 その非常勤講師の仕事を八年ほど必死で続けた結果、僕の仕事ぶりが認められとうとう正規雇用されることになりました。順風満帆とはいかなかったけれど、僕はどうにか自分の夢を叶えることができたんです」 


「そうですか……本当に良かったです。大変な苦労が少しでも報われて。若輩者の僕が言うのもなんですけど、困難に打ち勝って夢を叶えたヤマダさんはとても立派だと思います」


 正直なところ、ヤマダさんの話を聞き、僕は嘆息するばかりだった。ボロボロの雑巾のように使い潰され未来が全く見通せない。夢も希望も全てが色褪せ、意味を失っていく。


 何よりそういった時代が本当にあったという事実に戦慄した。そして、その時代は二度と復活しないとも限らないのだ。


 でも、そんな中でも、ヤマダさんは自分の夢を叶えた。確かに他人より遠回りをしたかもしれない。それでも屈することなく、自分の意志を貫き通したのだ。


 そのことに何だか救われるような気持ちだった。


「そう言われると、少し照れますね。でも……ありがとうございます」


 ヤマダさんは少しだけ微笑んだ。自分の半生を誇るわけでもなければ、卑下するわけでもない。彼の口調は一貫して淡々として落ち着いていた。


 それからヤマダさんは談話室に一つだけある上げ下げ窓の方を見る。


「……最近、教え子の同窓会に行ったんですよ。もうすぐ就職活動が始まるということで、みな、とても不安がっていました。今は氷河期の頃ほど仕事がなくて困るという状況ではありませんが、就職活動の大変さは変わりませんね。それどころか、今は昔よりずっと情報が溢れていて、そこの精査や取捨選択から始めなければならないので、昔とはまた違った苦労があるようです。

 まだ経験も足りていない、どれが本当に重要な情報かという知識もない状態で社会という荒波の中に放り投げられ、最初の船出でつまずいたらもう二度と浮上できない。自分たちの行く手には過酷な船旅が待ち受けていることが分かっているからこそ、みな希望より不安が勝ってしまうのでしょう。僕も何か力になってやりたいとは思うものの、こればかりはどうしようもありません。せいぜい教職志望の子にアドバイスするくらいが関の山です。

 ただ……悩む教え子の姿を見ていると、辛いフリーター時代の事やサクマさんのことが思い出されました。そして、自分たちが味わった理不尽きわまりない思いを教え子にはさせてはいけないなと思ったんです。まあ、僕一人の力なんてたかが知れているのですが、それでも自分にはその責任というか……使命があるんじゃないかと思えてならないんです。思えば僕の夢は早坂先生によって導かれたものだし、それに……この命もサクマさんに繋いでもらったものだから」


 談話室に沈黙が下りる。窓から視線を戻したヤマダさんは静かに締めくくった。


「僕の話は以上で終わりです」


 そして、ほっと小さく息をつく。肩に背負った重荷を下ろすことができて、ようやく一心地ついた……そんな様子だった


 。茜音さんの方を見ると、どうやら怪談の書き取りは順調に進んだようだ。僕はヤマダさんにいつもの確認をする。


「分かりました。ヤマダさんのお話は怪談としてこの図書館で保管することになりますが、構いませんか?」


「ええ、もちろん」


「大変なお話をしていただき、ありがとうございました」


「いえ、お礼を言うのはこちらの方です。こういった話は、身近な人には却ってしにくいですからね。でも……教え子の同窓会に参加して、どうしても誰かに伝えたくなったんです。サクマさんの……そして、僕たちの話を」


 心なしか、ヤマダさんの目元は潤んでいるように見えた。それはきっと、過去の辛い出来事を思い出したからというだけではない。

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