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第十四話 【バイト怪談】就職氷河期協奏曲①

(はあ……どうしよう。憂鬱だな……)


 僕は狩森図書館の前で立ち尽くしていた。


 どうにも落ち着かないので、つい、いつも腕に嵌めている水晶の数珠の玉を指でなぞってしまう。


 今日は狩森図書館でのアルバイトの日だった。


 しかし、いかんせん先日の地下階段にまつわる件が気まずくて、僕は狩森図書館の中に入るのを躊躇っていた。茜音さんにどんな顔をして会えばいいのか分からないからだ。


「やっぱりこの間のこと、きちんと謝るべきだよな。でも、茜音さんは地下のことに触れられること自体に抵抗があるみたいだったし……」


 悩んでいると、足元を何かがサッと勢いよく駆け抜けていく。


「うわあっ!?」


思わず悲鳴を上げ、その場を飛び退いた。そして素早く走り去った小さくて黒い影の方に視線を向ける。

 

 そいつは、いつぞやの黒猫だった。紅と金のオッドアイをした、あの生意気な黒猫だ。


 ふさふさとした毛のせいか、相変わらずその輪郭はおぼろげでよく分からない。でも、黒猫が僕をふてぶてしい目で睨んでいるのは手に取るように分かる。


「お前……脅かすなよ!」


 強い口調で抗議するが、黒猫の方は知らんぷりだ。それがどうしたと言わんばかり。僕のことなど、歯牙にもかけていない。


 狩森図書館に棲みついていると思われるこの黒猫は、何故か僕のことを異常なまでに敵視している。睨んだり威嚇したりするだけならまだしも、事あるごとにこうして僕にちょっかいを出してくるのだ。


 腹立たしくて仕方がないが、どうしようもない。脅かして追い払ってやろうと考えたこともあるが、そんなことをすれば逆に引っ掻かれるかもしれないのだ。それは困る。


 歯ぎしりしていると、僕の声に気づいたのか、図書館の中から茜音さんが顔をのぞかせた。


「夏目さん? どうしたのですか?」


「あ、いえ……すみません。黒猫に驚いて、つい……!」


「黒猫……?」


「ええ、あそこにいる黒猫です」


 僕は紅と金のオッドアイをした黒猫を指して言った。当の黒猫は僕のことなどお構いなしで、呑気に毛づくろいをしている。


 茜音さんはふと微笑んで思わぬことを口にした。


「……そうですか。夏目さんにはあれが黒猫に見えているのですね」


「え……?」


「いえ、何でもありません。それより、中に入りましょう。語り手の方がお待ちですから」


 茜音さんに促されるまま、僕も狩森図書館の中に入った。


 狩森図書館はいつも通り静かだが、談話室の方から微かに物音が聞こえてくる。怪談の語り手が既に到着しているというのは本当のようだ。我ながら怪談の聞き手役としての自覚が芽生えてきたのか、語り手の気配を感じると急に気が引き締まってくる。


 それにしても、先ほど茜音さんは「夏目さんにはあれが黒猫に見えているのですね」と言ったが、それはどういうことなのか。


 あれはどこからどう見ても黒猫だと思うのだが、茜音さんには別の生き物に見えているのだろうか。


 黒猫のくだりは気になったものの、茜音さんの様子はいつもと変わりがなく、僕が地下階段に近づいたことを今も怒っているといった様子はない。僕はそれにひどくほっとした。安堵のあまり、他のことはどうでも良くなってしまうほどに。


 そして、黒猫のこともすぐに忘れてしまったのだった。


「……これは僕が二十代の頃、フリーターをしていた時に体験した話です」


 ヤマダさんは良く通る声でそう語り始めた。


 ここは狩森図書館の談話室。机を挟んで僕の目の前に座るヤマダさんは、だいたい四十代くらいだろうか。とても真面目そうな、眼鏡をかけた男性だった。


 私服だがきっちりした印象で、髪型もさっぱりしていて清潔感がある。彼が今回の怪談の語り手だ。


 ただ、彼の名は少し気になった。怪談の語り手には名を尋ねることにしているが、それは本名でなくても構わない。いつものようにそう説明すると、「それでは一応、ヤマダということでお願いします」と返ってきた。そしてヤマダさんは、下の名は一切、名乗らなかったのだ。


 そこには何か理由があるのか。これまでの語り手にはなかったパターンなので、少し緊張する。


 僕は茜音さんにちらりと視線を向けた。


 彼女はヤマダさんの後ろにある別の机で原稿用紙を広げ、ヤマダさんの語る話を書き留める用意をしている。


 茜音さんはいつも怪談の書き留めに羽ペンとインクを用いているが、そのスピードはとても速い。とはいえ、時には一時間に及ぶこともある語り手の話す内容を全て書き留めるのは、そう簡単ではないだろう。


 茜音さんが少しでも原稿を書きやすいように、語り手に質問して話すスピードを調整したり、詳細を聞き出したりするのも聞き手である僕の仕事だ。


 僕は茜音さんの方を気にしつつ、ヤマダさんに視線を戻す。ヤマダさんもそれを察したのか、再び口を開いた。


「僕には子供のころから夢がありました。それは、教師になりたいという夢です。その夢を抱くきっかけとなったのが、小学五年生の時の担任の先生、早坂先生との出会いでした」


「人生を変えるほどの出会いですか。早坂先生はとても立派な先生だったんですね」


「ええ。少なくとも、僕にとってはヒーローですよ、今でも」


 ヤマダさんは朗らかに笑ってそう答えた。恩師について語る彼の表情は、どこか誇らしげでもあった。


「あれは五年生になったばかりの頃。学級会で学級委員やクラス委員を決めなければならず、それぞれ立候補で志望者を募っていたのですが、学級委員長だけは仕事が煩雑なこともあってか希望者が全くおらず、最後まで空白のままでした。

 仕方なくそのまま投票を行ったところ、なぜか僕が最多の票を獲得してしまい、半強制的に学級委員長になることに決まってしまったんです。

 僕は困り果てました。というのも、その頃の僕はとても大人しく気弱で、人前で話すことはおろか仲の良くないクラスメートに話しかけるのさえためらうほどの人見知りだったからです。そんな僕が票を多く獲得したのも、おそらく単に体よく面倒事を押し付けやすそうだと判断されたからでしょうね。決して他のクラスメートから学級委員長に相応しいと評価されたわけではなくて」


「ああ……何となく分かります。ありますよね、そういうことって」


 僕もどちらかというと体よく面倒事を押し付けられていた側なので、その状況はよく分かる。ヤマダさんも苦笑しつつ頷いた。


「こんな自分に学級委員長など務まるわけがない。学級会が終わってから、僕は担任の早川先生に直談判に行きました。自分に学級委員長など無理だ、他の人に変えて欲しいと。

 ところが、そんな僕に早川先生はこう言ったんです。『ヤマダは別に学級委員長をやるのが嫌だというわけじゃないんだな? ただ自信がないだけなんだよな? だったら学級委員長になってみないか?』、と。

 『え、でも、僕は……』僕がそう渋っていると、先生はさらに付け加えました。『心配するな、先生もヤマダをサポートする。ヤマダは学級委員長に向いていると思うぞ』。

 ……その時はとてもそう思えないし、厄介事を押し付けられただけのような感じがしてとても気が重かったんですが、学級委員長の任期は一学期の間だけだったので、仕方なく受け入れることにしたんです」


 それを聞き、僕は顔をしかめた。


「何だか……ちょっと嫌な話ですね。クラス委員や学級委員長って面倒ですし、押し付け合いになりがちなのは分かるんですが、大人しい生徒を狙って丸投げというのはモヤモヤするというか……」


 せめて先生がしっかりしていたら、投票の結果を見直してくれたかもしれないのに。何だかヤマダさんが気の毒すぎる。苦々しい顔をする僕に、当のヤマダさんは微笑んだ。


「僕も当初はそう思っていました。実際、最初の学級会はさんざんでしたよ。まず、クラスのみなの前に立つことができなかったんです。どうしても足が震えてしまって。おまけに、大きな声が出ないから、何を言っても誰にも聞こえていないんです。その後も学級会で司会をするたび、『何を言ってるのか分かりませーん』と、しょっちゅう揶揄われていました。

 それでも学級委員長を続けられたのは早坂先生の助力があったからです。先生はそういう茶化しをする生徒を放置せず、きちんと注意してくれましたし、僕にも『ヤマダはちゃんとしたことを言っているんだから、堂々としていればいいんだぞ。ただ、声はもう少し大きい方がみんな聞きやすいかもな』と言ってアドバイスをしてくれました。

 先生のアドバイスを聞きながら自分なりに工夫しているうちに、僕も徐々に慣れてきましてね。大きな声も出せるようになったし、提出物の回収や行事の段取りなども、てきぱきとこなせるようになりました。最初は揶揄っていたクラスメートたちも少しずつ僕のことを学級委員長として認めてくれるようになり、そうして一学期が終わる頃にはすっかり学級委員長が板についていました」


「それは……すごいですね。いくら子どもの頃のこととはいえ」


 僕は感嘆の声を上げた。子どもは成長が早いというけれど、きっとそれだけじゃない。それほどの成長を遂げたのはヤマダさん自身の努力もあったのではないか。


 理不尽な状況に不貞腐れず、一生懸命に学級委員長を務めた、その姿勢がきっと彼に大きな成長をもたらしたのだ。


 ヤマダさんは笑って言った。


「いちばん驚いたのは僕自身です。自分が人前に立てるなんて思いもしなかったし、教室の後ろの方まで届くほどの大声を出せるようになるとも思っていなかった。何より変わったのは、クラスメートの態度です。

 それまでの僕は極度に内向的な性格で、友人にもどちらかというと軽く扱われていました。いじめというほどではないのですが、うっすらと皆から馬鹿にされているというか……」


「分かります、分かります。ヒエラルキーってやつですよね。子どもの社会って、そのあたり容赦がないですから」


「ええ、本当にそうです。けれど、学級委員長になってからはそれがなくなりました。仲の良い友人もいれば反りの合わないクラスメートもいたし、喧嘩になることもありましたが、少なくとも見下されることはなくなりました。あの頃、周りにもよく言われましたよ。『ヤマダくん、学級委員長になってから雰囲気が変わったね』、と。

 我ながら現金なもので、それほどの変化を実感すれば学級委員長も悪くはないんじゃないかと思い始めまして、結局、僕は二学期や三学期も自ら立候補して学級委員長を務めました。

 五年生の最後に早坂先生から『ありがとうな、ヤマダ。お前が学級委員長を頑張ってくれたおかげで、先生もクラスのみんなも、とても助かったよ』とねぎらいの言葉をかけられた時は本当に嬉しかった。今でも僕の大切な思い出です。本当に……早坂先生にはどれだけ感謝しても感謝しきれません」


 つまり、早坂先生は影に日向に、ずっとヤマダさんを支えてくれていたのだろう。ただの事なかれ主義な無責任先生ではなかったのだ。


 当時のことを思い出して感極まったのか、ヤマダさんは少し言葉を切った。そして再び話し始める。


「……あとから知った話なのですが、私の母は当時の私の大人しさを心配し、家庭訪問の際にそのことを早坂先生に相談していたそうなんです。それで早坂先生は何かのきっかけになればと思い、僕に学級委員長を勧めたのでしょう。

 つまり先生は、僕に学級委員長の仕事を押し付けたわけではなく、きちんと僕の問題点や課題を把握した上で、それらを克服する成長のきっかけを作ってくれたんです。頑張ればきっとできるようになると僕を信じて。

 それを知った時、僕、胸を打たれたんですよ。先生って世間的に悪く言われる職業の筆頭格みたいなところありますけど、それでも一人の先生との出会いが人生を変えることはあるのだと……それに気づいた時、震えるほど感動したんです。

 そして、いつしか自分も先生になりたいと思うようになっていました。早坂先生のように、特別ではなくとも人を正しい方へ導けるような、そういう人間になりたいと」


「それじゃ、ひょっとしてヤマダさんはいま先生をされているんですか?」


「ええ、そうです。今は中学校で数学の教師をしています。子どもの頃の夢をかなえることができたという形ですね」


 確かに言われてみると、ヤマダさんの雰囲気はとても学校の先生らしいと思う。服装だけでなく全体的に堅実な雰囲気だし、責任感も強そうだ。声が良く響くのも、常に生徒たちの前で話をしなければならないからだろう。


 子どもの頃の夢を叶えて教師になったのなら、ヤマダさんはきっと、とても充実した人生を送ってきたのだろう。僕はそう考えた。


 ところが、ヤマダさんはふと真顔になる。


「……ただ、そこに至る道程は決して易しくはなかった。冒頭にもお話ししましたが、僕は教育学部に進学し真面目に大学の授業に出て、教育実習をこなし教員免許を取得するなどすべて順調に進めていたのですが、教員採用試験には受からなかったんです。僕の出来が悪かったというのも一因かもしれませんが、そもそも当時は教員採用枠というのが極端に少なかった。正規の教職員になれるのは百人に一人とか、それくらいのレベルでした。

 というのも、僕が大学を卒業した当時は未曽有の大不況と呼ばれ、新卒の就職口は全くと言っていいほどなかったからです。大学の同期で一般企業の就職希望者の中には、百社を超える企業の面接を受け、一つも内定が取れなかったという者も数多くいましたね。

 行政機関もそれに倣ったのか、公務員の採用枠もまた激減しました。当然、教師の採用も控えられたということです。また、当時すでに少子化が叫ばれていましたから、それに合わせて教師の数も減らしていこうという動きもあったのかもしれません」


「聞いたことがあります。就職氷河期のことですよね?」


 その言葉だけは聞いたことがある。僕が生まれていない時代のことなので、詳しくは知らないけれど。


 すると、ヤマダさんは眉根を寄せて頷いた。


「そうですね。当時はどこにも働き口がない、それが当たり前でした。労せず職にありつけたのはコネやツテのある者がほとんどです。血の滲むような努力をして就職できても、奴隷すら青ざめるようなひどい扱いを受け使い潰されてしまう……そんな話が珍しくありませんでした。

 また、それを社会問題として捉えるような機運も低くて、僕たちは何の支援も受けられなかったんです。それどころか、働きもしない無能、社会のごく潰し世代と常に罵られ、嗤われました。おかしいですよね。どこにも働く場所なんてないのに、世間は好きで無職を選んだ怠け者と僕たちを責めるんです。

 ……僕たちは就職というチャンスすら与えられず、頭ごなしに社会の落伍者と決めつけられ、社会の一員となることを徹底的に拒絶された世代なのだと思います。当時、テレビで聞いた言葉が忘れられません。『就職氷河期は社会の産業廃棄物。ただのゴミならまだリサイクルなど使い道があるが、氷河期はリサイクルすら値しない何の役にも立たない無能ども。地面に埋めるしかない産業廃棄物なのだから、どれだけ粗末に扱っても構いはしないのだ。雇ってもらえるだけありがたく思え。お前の代わりはいくらでもいる』、と」


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