第十三話 【タクシー怪談】後部座席の女⑥
用を足してトイレから出ると、廊下はますます真っ暗になっていた。
照明は点いているが、古い壁かけ照明であるせいか、あまり役に立っていない。むしろその仄かな明かりが、図書館の不気味さに拍車をかけているような気さえする。
トイレを出るとその真向かい、つまり廊下の突き当りの右側に階段があるのが目に入った。いつも茜音さんが近づくなと忠告する、地下へ降りるための階段だ。
階段の周辺は日が差し込まず、壁かけ照明の灯りも届かないので、真っ暗闇に包まれている。目を凝らさなければそこに階段があることに気づかないかもしれない。
ただ、その配置には妙な点があると僕はつねづね思ってきた。
二階や三階に上がる階段は、図書館の入り口から入ってからすぐのところにある。それなのに、地下に下りる階段だけはそれらと切り離され、図書館の目立たない最奥に設置してあるのだ。
まるで、誰にもその存在を知られないようにしているかのように。
(……どう考えても変な間取りだよな。二階や三階に上がる階段と地下への階段をわざわざ別にするなんて、図書館の施設を運営する上では紛らわしいし不便でしかないだろうに。
逆にもしそうせざるを得ない理由があるとしたら……それぞれの建設された時期が違うとか、そもそもの用途が別だった……かな。地上の図書館部分と地下部分が作られた時期や目的が別で、あとから辻褄合わせで無理やり階段を分けるしかなかったのかもしれない)
僕は手洗い場で洗った手をハンカチで拭きながら、一般開架室に戻ろうとした。
しかしその時、不意に誰かの声が聞こえた気がした。
しかも一人ではなく、複数人がひそひそと会話する声。中高年くらいの年齢に達した男女の声で、なんとなく盆や正月に祖母の家に帰郷した際、居合わせた親戚のおじさんやおばさんが話している声に似ている。
誰か数人が話しているのは分かるが、会話の中身までは分からない。僕は最初、狩森図書館に利用客がやって来たのだと思った。
(珍しいな。この図書館に怪談の語り手以外の人が来るなんて。でも、何か……ちょっと妙だ。もうこんな時間なのに……)
そう思った瞬間、違和感の正体に気づいた。声は一般開架室や談話室、資料室などの方から聞こえてくるわけじゃない。
それとは全く違う方向……地下室に下りる階段の方から聞こえてくるのだ。
(地下室に誰かいる……?)
何度も茜音さんに忠告されていたこともあり、これまで地下室には一度も近寄らなかった。でもこの時は、内緒話をするみたいに密やかで、それでいてどこか興奮した気配を隠しきれていない楽しげな声音に惹かれ、つい階段の方に近寄ってしまった。
(一体、誰が何の話をしているんだろう……?)
地下の方は真っ暗で、僕のところからはどういった部屋があるのか全く分からない。でも、ひそひそと話す声だけはいやにはっきり聞こえる。会話の中身は全く聞き取れないのに。
そのせいか、まるで吸い寄せられるように足を向けてしまった。
彼らは何の話をしているのだろう。どうしてそんなに楽しそうなんだろう。
それが気になって仕方なかったのだ。
ところが、あともう少しで階段の真上というところまで来た時、足元で床がミシッと音を立てた。狩森図書館は古いから、床板も一部が劣化していたのかもしれない。
するとその途端、地下から聞こえてきていたひそひそ声がぴたりと止んでしまった。
あまりにも急に静まり返ったので、僕の方がぎくりとしてしまったほどだ。
僕が足音を立てたことによって、声の主たちがそこに場違いな者がいることに気付いたのか。それとも、盗み聞きされたのではないかと警戒したのか。ともかく、喋り声は嘘のように聞こえなくなってしまった。
あれほど賑やかに聞こえていた話し声が突然止み、耳が痛くなるほどの静寂が廊下を包む。心なしか、先ほどより暗闇の濃度も濃くなったように感じられる。地下の様子もさらなる闇に包まれて、ますます分からなくなってしまった。
(もしかして……僕が邪魔をしてしまったのかな……?)
何となく気まずくなってくる。自分はこの場にいるべきではないのではないかとすら思えてくる。
地下にどんな人たちがいるのか、そして何の話をしていたのか。いろいろと気になったが、茜音さんとの「地下には近づかないで」という約束を思い出し、そっとその場を離れた。
一般開架室に戻ると、茜音さんがコーヒーカップや菓子皿を片付けているところだった。
「おかえりなさい、夏目さん」
一般開架室の明るさと茜音さんの笑顔に心からほっとする。どうやら、自分で自覚しているよりずっと緊張していたらしい。僕は茜音さんの元に駆け寄った。
「あ、僕も片付け手伝います」
「ありがとうございます」
「それにしても、メレンゲクッキー本当に美味しかったです。この間のクッキーも美味しかったけど、メレンゲクッキーは今まであまり食べたことが無かったので……食感がとても新鮮でした」
「ふふ、喜んでもらえて良かったです。今日のはプレーンでしたが、いろいろ味付けを変えることができるので、機会があったらまた作りますね」
茜音さんの片づけを手伝って給湯室に向かったあと、再び一般開架室に戻ってくる。
その時、僕はふと先ほどのことを思い出した。地下階段の方から聞こえてきたひそひそ声のことだ。そして椅子に置いた学生鞄を持ち上げながら口を開いた。
「そういえば……今日は珍しく野沢さんの他にも来館者の方がいらしていたんですね」
何気なく口にすると、茜音さんの動きがぴたりと止まった。
「いえ……今日の図書館の訪問者は夏目さんを除けば野沢さんしかいませんよ」
「え、でも、地下の方から何人かの話し声が……」
そう口にした瞬間、茜音さんの顔からすっと表情が抜け落ちる。
「地下に……行ったのですか?」
「あ、いえ! 行ってはないです! ただ、トイレから出たら地下の方から中高年くらいの人たちがひそひそ話す声が聞こえてきて……それで僕の他にも誰か図書館にいるのかなって思ったんです」
この話題はまずかっただろうか。
だが、そう気づいた時にはもう遅い。
僕の答えを聞いた茜音さんは口元に笑みを浮かべた。ぞくりとするほど美しい笑顔だった。
しかしそれは、これまでの優しい微笑みではない。奥底に冷やりとしたものを湛えた、この世ならざるモノのような笑み。
「地下には誰もいません。きっと夏目さんの気のせいですよ」
それを聞き、全身にぞわっと戦慄が走った。それが何故だかは分からない。ただ、自分が口にしてはならないことを口にしてしまったのだということだけは、はっきりと分かった。
「そ……そうですよね。すみません、変なことを聞いてしまって。……それじゃ僕、今日は帰りますね」
僕はそう告げると、逃げるようにして狩森図書館をあとにした。
茜音さんの顔は見なかった。彼女がどういう表情をして僕を見ているのか、それを知るのが怖かったからだ。
図書館を出て、竹林のところに停めておいた自転車にまたがると、僕は一気にこぎ出した。昼間はだいぶ温かくなったが、夜はまだ肌寒い。それでもぐんぐんスピードを上げていく。
何か焦燥に似た感情が僕を突き動かしていた。
(僕は確かに地下階段の方から複数の人が会話する声を聞いた。絶対に聞き間違いなんかじゃない! でも茜音さんは、僕や野沢さん以外には誰も図書館に来ていないという……一体どっちが本当のことなんだ?)
一つ確信したのは、茜音さんが何かを隠しているということだ。
しかし、その理由が分からない。どうして地下に誰かがいることを、そこまで頑なに隠そうとするのか。地下に人がいるならいるで、別におかしいことではないのに、どうしてそれを不自然な形で否定するのか。
なんだか茜音さんらしくない。
(あの話し声は何だったのだろう? そんなに僕が聞いてはいけないものだったのだろうか……?)
全身に鳥肌が立ち、なかなか収まらなかった。それはきっと夜風の冷たさだけではない。
思えば茜音さんは最初から僕が地下室に近づくことをひどく嫌がっていた。これまではその理由を深く考えて来なかったが、もしかしたらそこには何か秘密があるのではないか。他人に知られてはならない、重大な秘密が。
そしてそれを守るためならば、茜音さんはきっと僕など簡単に欺けるのだ。
僕はこの時、初めて野沢さんの気持ちが分かった気がした。
好感を抱いている相手に嘘をつかれているかもしれないという悲しみ、そして辛さ。信じたいのに信じきれない苦しさ。
それは不思議な体験をした時とは比べ物にならないほどの重い衝撃を僕にもたらしたのだった。




