第十二話 【タクシー怪談】後部座席の女⑤
野沢さんが狩森図書館を去ってから、僕と茜音さんはいつものように一般開架室に移動した。
やはりいつもと同じく、図書館の利用客は一人もいない。しんと静まり返った館内は、最初はその古いつくりもあって少し怖く感じたけれど、茜音さんと一緒だと心地良く感じるから不思議だ。
給湯室の方から、茜音さんの淹れてくれるコーヒーの香りが漂ってくる。やがて茜音さんがお盆に二つのコーヒーカップと菓子皿を乗せてやってきた。
「今日もお疲れさまでした、夏目さん」
「いえ、こちらこそすみません。いつもご馳走になってしまって」
そう言いつつ、実のところ僕は茜音さんが出してくれるお菓子が楽しみになりつつあった。茜音さんのお菓子は手作りとは思えないほどおいしいからだ。
しかも、茜音さんが僕のために用意してくれていると考えると、心の内では嬉しくて仕方がなかった。
もっとも、本当のところはどうだか分からない。茜音さんは何か別の目的でお菓子を作っていて、僕のぶんはそのお裾分け……なんてことも十分に考えられる。
でも、それでもいいのだ。
今日のお菓子は、ケーキの上によく乗っている、キュッと絞った生クリームのような形をしていた。色も真っ白でよく似ている。
でも、生クリームではない。乾燥していて少し硬いし、微かに焼き色がついているから。
茜音さんはそのお菓子を僕に勧めながら言った。
「メレンゲクッキーを作ってみたんです。どうぞ。うまくできているといいんですけど……」
「ありがとうございます、いただきます」
メレンゲクッキーはとても軽く、口に入れるとあっという間に溶けてしまった。ほど良い甘みが口の中に残る。
「すっごくおいしいです! 普通のクッキーとは全然違う食感で……口溶けが良く、何個でも食べられそうです。コーヒーとの相性も抜群ですね!」
すると、茜音さんはとても嬉しそうに微笑んだ。
「……良かった、夏目さんに喜んでいただけて。今回は特に無理なお願いをしてしまったから、少しでもお礼がしたかったんです」
「茜音さん……!」
そのために、わざわざメレンゲクッキーを焼いてくれたのか。そう思うと、喜びが込み上げてきた。もはや幸せの域だ。でもそれを茜音さんに知られるのは何だか恥ずかしくて、僕はすぐに話題を変えるのだった。
「それにしても……今回の怪談はすっきりしないというか……どんな風にでも捉えられる奇妙な話でしたね」
「そうですね。確かにとても興味深い話だったと私も思います」
「茜音さんはどう思いますか? 野沢さんの言っていた、勝手に後部座席に座っている髪の長い女性は本当に存在していたと思いますか?」
そう問いかけると、茜音さんはふわりと微笑んで僕の方を見る。
「……夏目さんはどう考えているのですか?」
「僕は断然、野沢さんの説を支持したいですね。タクシーの後部座席に女性の幽霊なんて最初からいなくて、同じタクシー会社の同僚が野沢さんに、いたずらというか……嫌がらせをしていたんじゃないでしょうか?」
「ふふ、とても夏目さんらしい主張ですね」
「そ……そうですかね?」
「ええ。この世には怪奇現象や心霊現象なんて存在しない……それが夏目さんの持論でしょう?」
「あはは、茜音さんには全てお見通しでしたね。でも、やっぱりそれが僕の本音です。よく言うじゃないですか。本当に怖いのは妖怪や幽霊なんかじゃなく、生きている人間の方だって」
そう口にした時、僕は茜音さんがこちらをじっと見つめていることに気づいた。
「す……すみません。怪談そのものを否定しているわけじゃないんです。ただ、実際に起こったことだとは信じられないというだけで……。こんな考え方をしていたんじゃ、聞き手役は失格ですよね……」
すると、茜音さんは首を横に振った。
「それでも全く構いません。夏目さんは夏目さんのままで良いと思いますよ」
「え……?」
「夏目さんは怪談の真実味は否定するけど、語り手が話すことは決して否定しませんよね。ですからそれで十分だと私は思います。むしろ、怪談の聞き手としてはそれくらいの姿勢が丁度いいのかもしれません。怪談を信じるあまり、極度の怖がりだったり好奇心が強すぎたりすると、語り手のお話をじっくり聞けないかもしれないでしょう?」
「な……なるほど。確かにそうかもしれません」
「私は夏目さんにサポートをしていただいて、とても助かっています。夏目さんが狩森図書館に来てくれて本当に良かったと思っているんです。
それに実のところ……こうして語り手の語った怪談について意見を交わす時間も、毎回とても楽しみにしているんですよ。一人きりではできないことですから……」
我知らず顔が熱くなる。何だか茜音さんから頼りにされているようで、とても面はゆい。
一方で、茜音さんはとても孤独な人なのではないかと思った。『一人きり』という言葉を発した時、茜音さんがとても寂しそうに見えたから。
茜音さんはとても神秘的で、実際、謎の多い人だ。そしてどことなく自分のことを知られるのを避けている節がある。何故なら、茜音さんはプライベートなことをほとんど喋らないからだ。
どうして怪談蒐集を始めたのか、狩森図書館の館長になる前は何をしていたのか。彼女の口からそれらが語られたことは一度もない。僕が茜音さんについて知っていることと言えば、怪談を蒐集していることとコーヒーや紅茶を淹れるのが好きなこと、そしてお菓子作りが上手なことだけだ。
僕にとっては怪奇現象や心霊現象以上に不思議な人。
でも、こういうふとした温かさや寂しさにとても惹かれる。茜音さんは謎なだけじゃない。とても心優しい人なのだ。
「僕も……怪談を信じることはできないけれど、茜音さんといろいろ考察するのは楽しいです。変ですよね。信じていないのに、考えを巡らせるのは好きだなんて」
「いえ……そういうものかもしれません。古今東西、人は怪談に魅せられ、そして囚われてきたのですから」
茜音さんは手にしていたコーヒーカップを受け皿に戻してから、改めて僕に視線を向けた。
「ところで、先ほど夏目さんは大変おもしろいことを仰っていましたね」
「ええと……野沢さんのことですか?」
「いえ、その後の部分です」
「あ……もしかして、『本当に怖いのは妖怪や幽霊なんかじゃなくて生きている人間の方』という部分ですか?」
「ええ、その通りです。夏目さんはどうしてそのように思ったのですか?」
「あ、いえ……何か深いことを考えて言ったわけじゃないんです。ただ、結局のところ人を最も傷つけるのは同じ人間というか……人は妖怪や幽霊みたいなあやふやな存在と違って、間違いなくそこに在るものですし、中には確かに悪意に満ちた者もいる。
そこまでではなくても、ちょっとした嫉妬や怒り、憎悪、あるいは侮辱や嘲笑といったものは日常生活にも溢れているものじゃないですか。
だから、それらが何らかの形で表出したとしてもおかしくはない。僕は野沢さんもそのケースではないかと思ったんです」
たとえば毎日顔を合わせ、気持ちよく挨拶を交わしている相手であっても、心の中で何を考えているかを推し量ることまでは難しい。
もしかしたら僕のことを疎ましく思っているかもしれないし、本当は顔を見るのも嫌だと思われているかもしれない。
それが積み重なって一定の到達点に達した時、悪意ある行動として表面化するのではないか。そして、僕にとってはその方が幽霊や妖怪よりよほど恐ろしく感じられるのだ。
「ふふふ、面白い説ですね。夏目さんらしい、とても現実味のある考えだと思います」
微笑む茜音さんに、今度は僕が質問を投げかけた。
「茜音さんはどう考えているんですか? 野沢さんのタクシーの後部座席には本当に人ならざる女性がいて、みかんタクシーのドライバーたちにはそれが見えていたんでしょうか?」
「それは分かりません。私はただ、野沢さんのしてくださったお話を原稿に書き留めていただけなので。ただ、人ならざる者が本当に存在しているのかという点をはっきりさせることに、あまり意味はないのではないかと思うのです」
「それは……どういうことですか?」
「たとえばもし、本当に幽霊が存在していたとしても、人に感知されなければそれはいないのと同じこと……それと同じで、人に感知され、語られて初めて怪談は怪談たり得るのではないかと思うのです。そういう意味では、間違いなく人間の存在が怪談を生み出していると言えるでしょう。
そうであるなら……怪異が本当に実在するか否かを詮議したり、人間と心霊のどちらが怖いか比べることにあまり意味はないのではないかと思うのです。むしろ私は、何故その怪談が生まれたのか、その背景や経緯の方に興味を持っています。
何故、人は怪談を語り継ぐのか。どうしてそこまで怪談に魅せられ、そして囚われるのか。そういった疑問が私を惹きつけてやまないのです」
茜音さんはひどく遠い目をしていた。その姿を目にし、僕はふと、茜音さんは何のために怪談を蒐集しているのだろうと思った。
茜音さんが怪談好きなことは事実だろう。だが、彼女の怪談蒐集を単なる趣味だと片付けるには、茜音さんの瞳はあまりにも大きな悲しみに満ちている。そんな気がしてならなかった。
だとしたら……茜音さんが辛く悲しい思いをしてまで怪談を蒐集しなければならない理由とは何なのだろう。
踏み込んだ話をするのはまだ躊躇いがある。僕は無難にこれまでの会話を続けることにした。
「僕は茜音さんほど深いことを考えているわけではないですけど……もし僕が怪談に魅せられているのだとしたら、それはそこに人の想いが込められているからかなって思います」
「人の想い……ですか」
「はい。たとえば……河童という妖怪がいるじゃないですか。人懐こく愛嬌がある一方で、人を水に引きずり込んだり溺死させたりもする、恐ろしい面も持ち合わせている。そんな河童は、昔の人が、分別のつかない子どもが不注意で水難事故に遭わないよう生み出された妖怪だという説があります。河童を怖がった子どもたちは気安く水辺に近づかなくなる、その結果、自ずと事故にも遭いにくくなるというわけです。
うまく言えませんけど、怪談も同じなのではないかと思います。自分の受けた恐怖や悲しみ、辛さ、あるいは災害や事故の記憶などを怪談という物語に落とし込んで、誰かに伝えたり後世に残したい……そういった強い想いが込められているからこそ、惹きつけられるのだと思います」
サークル合宿の怪談をしてくれた三浦さん、飼い猫マルとの絆を話してくれた木村さん。そして、かつて勤務していたタクシー会社での奇妙な体験を語ってくれた野沢さん。
彼らはみな、何らかの理由で誰かに自分の話を聞いてもらいたがっていた。
もちろん自分のため、自分の気持ちや記憶に終止符を打ちたいからという理由もなくはないだろう。でも、きっとそれだけじゃない。彼らはみな、いずれかの形で自らの『物語』を残したかったのではないか。
だからこそみな、僕に対して感謝の言葉を口にしたのではないかと思う。
それを聞いた茜音さんは、目を見張ったあと、顔をほころばせた。
「……夏目さんは、やはり非常に興味深い意見を持っているのですね」
「そ……そうでしょうか?」
「ええ。とても素敵だと思います」
茜音さんに褒められ、僕はまたしても顔が火照るのを感じた。多分、耳まで真っ赤になっていることだろう。
でも、それより何より、茜音さんの顔に笑みが戻ったことの方が嬉しかった。先ほどまでの茜音さんは、一緒にいる僕まで胸が張り裂けそうになるほどの強い悲しみに満ちていたから。
きっと僕がその悲しみを根本から取り除くことはできないのだろう。でも、こうやって会話をすることで少しでも茜音さんが悲しみを忘れることができるなら、僕も嬉しい。何よりの幸いだと思う。
それからしばらく雑談したあと、帰宅の時間が迫ってきた。今日は少し肌寒いせいか、お手洗いに行きたくなってくる。
「あの……すみません、茜音さん。お手洗いをお借りしてもいいですか?」
「ええ、どうぞ。ただ、くれぐれも地下室の方には近づかないでくださいね」
「はい」
狩森図書館の廊下は既に薄暗くなっていた。
お手洗いは玄関とは逆の方向、長い廊下のずっと奥にある。そちらの窓の周りは樹木があまり生えていないらしく、微かに夕日が差し込んでいた。その廊下の突き当りを左に曲がったところにお手洗いがある。この辺りに足を踏み入れるのは初めてだ。
トイレは男子用と女子用に別れており、他の部屋と同じく木製の扉の向こうにあった。タイル張りの床に洋式の便器と手洗い場が一つずつ。昔に建てられた洋館であるせいか、かなり広い。けれど隅々まできれいに手入れされており、掃除も行き届いている。
(このトイレだけじゃない。狩森図書館は古くて広いけれど、いつ来ても徹底的に掃除され、チリひとつ積もっていない。どこもかしこもきれいで完璧な状態が維持されている。一階だけならまだしも、二階や三階も同じように。
館長の茜さん一人だけでは、それほど徹底した管理は難しいと思うけど……一体どうやりくりしているんだろう? それとも、僕の知らない他の職員がいるとか……?)
やはり、この図書館も茜音さんもまだまだ謎だらけだ。
本当のことを知りたいという気持ちはある。でも、実際に知るのはどこか怖くもある。




