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第十一話 【タクシー怪談】後部座席の女④

 確かに、個人であれば行かない、あるいは通らないという選択もできるかもしれないが、商売が絡むとそうはいかない。運送業の辛いところだ。


「事故を起こした新人ドライバーも何らかの理由で、峠道をタクシーで走らなければ状況にあったのでしょう。タクシーの車体が大破するほどの大事故で、運転手は辛うじて一命をとりとめたものの、その後、容体が急変し、けっきょく命を落としてしまったそうです。唯一、幸いだったのは、その大破したタクシーが乗客を一人も乗せていなかったことでしょう。

 しかし、死亡したタクシーの運転手はまだ意識があったころ、事故を起こしてしまった原因について周囲にこう漏らしていたそうです。『後部座席に髪の長い女性がいる』……と」


 それを聞いた瞬間、全身が総毛立った。


 事故当時、その新人ドライバーがどんな状況に置かれていたか。そして、どれほど精神的に追い詰められていたか。


 野沢さんの話をつぶさに聞いてきた僕は、それをたやすく想像することができたからだ。


「……彼は見たのでしょうか。野沢さんが見ることのなかった女性の姿を」


 野沢さんはゆるゆると首を横に振った。


「それは分かりません。私が聞いたのはどれも人づての話ばかりですから。しかし、それらの情報から私は一つの確信を抱きました。その新人ドライバーが運転し、事故で大破させたのは、かつて私がみかんタクシーで乗っていた車両だったに違いない、と」


 そういえば野沢さんは先ほど言っていた。みかんタクシーはドライバーが運転する車両は会社によって決められており、ほぼ固定されていたと。


 野沢さんが会社を辞めたことで空いたタクシーを新人ドライバーに割り当てるのは何も不思議なことではないし、むしろ自然なことだと思う。野沢さんの推測は的を射ているのではないか。


「その新人ドライバーが何を見たのか、あるいは見なかったのか。それは私にも分かりません。彼と直接、話したわけではないのでね。しかし、その新人ドライバーがどんな目に遭っていたかは手に取るように分かります。

 その新人ドライバーも、最初はタクシードライバーの仕事を一生懸命にこなしていたに違いありません。周りの先輩ドライバーたちから親切にあれこれ教えてもらいながら……ね。しかしある時、その先輩ドライバーたちから妙な注意を受ける。それは、タクシーの後部座席に髪の長い女性客が座っているにもかかわらず、タクシーの表示板が〈空車〉や〈回送〉になっているというものです。

 一回や二回ならそれほど気にすることもなかったでしょう。しかし、毎日のように指摘されれば嫌でも意識するようになる。その手の話が苦手な人は生きた心地がしないでしょう。そして徐々に運転中も後部座席に気にとられるようになっていく……」


 僕も、一度も会ったことのないその新人ドライバーに対し、同情を禁じえなかった。


 タクシーを運転する間、彼はどれだけ不安だっただろう。そして、どれほど不気味で恐ろしい思いをしただろう。


 ただでさえ、まだ仕事にも不慣れだったろうに、周囲から意味不明の謎めいた注意を受け続けるのだ。


 最初はさほど気にしなかったとしても、それが頻繁に続けば嫌でも意識せざるを得なくなる。そして、事あるごとにバックミラーやサイドミラーで後部座席を確認するようになるだろう。


 本当に後部座席には誰もいないのか、本当は自分の目に見えないだけで、今も髪の長い女性客がそこに座っているのではないか……。


「事故を起こした新人ドライバーも峠道が危険であることは知っていたでしょう。しかし、どうしても女性の存在が気になって、注意が逸れてしまったのかもしれない。そして、その一瞬が命取りとなり……事故を起こしてしまったのではないでしょうか。

 彼が後部座席に『髪の長い女性がいる』と言ったのは、その姿を目にしたわけではなく、事故現場にかけつけた救急隊員や警察官といった第三者に確認して欲しかったのかもしれません。本当にタクシーの後部座席にそんな女性がいるのかどうかを」


「……つまり野沢さんは、あくまで後部座席に座る髪の長い女性なんて存在しなかったのだというお考えなんですね?」


「私は結局、一度も彼女の姿を目にしたことがないので。やはりどうしてもそう考えてしまいますね」


 野沢さんは柔和な表情で頷いた。


 彼の主張は一貫して現実的で、僕の考え方にとても近い。そのおかげか、抵抗なくすんなり受け入れることができる。


 そう、幽霊なんて存在しない。


 心霊現象や怪奇現象なんてそう簡単に起こるわけがないのだ。


 けれど次の瞬間、野沢さんはふと真顔になる。まるで全ての表情が抜け落ち、抜け殻になったかのように。


「いえ……それは所詮、私の願望にすぎないのかもしれない。ひょっとしたらその新人ドライバーには、私には見えなかったものが本当に見えていたのかもしれません。後部座席にいるはずのない女性客が座っているのに気づき、驚いてハンドル操作を誤ったという可能性も、完全には捨てきれない。

 何が本当で、何が本当でないか。昔も今も、私には何一つ分からないんです……」


 野沢さんは虚のような漆黒の瞳を大きく見開き、早口でそう呟いた。


 これまでの野沢さんらしくない、異様な雰囲気。それに圧倒され僕はごくりと喉を鳴らす。


 何だかとても寒い。気のせいか、がくんと部屋の温度が下がったように感じる。足の感覚が痺れ、どこかに引きずり込まれそうになるほどに。


 その時、僕は気付いた。野沢さんの話はどこまでが本当のことなのだろう。確かに、みかんタクシーの同僚ドライバーたちは野沢さんに嘘をついていたのかもしれないが、だからと言って野沢さんが本当のことを言っているという保証はどこにも無いのではないか。


 いや、野沢さんが嘘をついているとは思わない。野沢さんはきっと嘘をつくような人ではない。


 でも、野沢さんがみかんタクシーに在籍していたのは半世紀近くも前のことだ。記憶が曖昧になっている部分があってもおかしくないのでは。


 そう考えると、何が本当で何が嘘か、聞いている方までだんだん分からなくなってくる。


 そもそも、みかんタクシーに該当するタクシー会社は本当に存在していたのだろうか。


 しかし、野沢さんが豹変したのはほんの一瞬のことだった。彼はすぐに元の穏やかな様子に戻り、怪談の続きを話し始める。


 まるで最初から何事もなかったかのように。


「ただ、後部座席に女性がいようといまいと、本当はどうでもいいというか……そこは本質ではないのかもしれません」


「それは……どういうことなんでしょう?」


 慎重に尋ねると、野沢さんはきちんと整えられた総白髪を右手で撫でる。


「じつはね、みかんタクシーで働いていた時はほとんど恐怖を感じなかったんですよ。幸運なことに私は昔から神経が図太かったですし、『何があっても気にしない』と完全に割り切ってからは後部座席のこともほぼ気にならなくなりました。

 でも、世の中には私みたいな人間ばかりじゃない。細かいことが気になるという人もいれば、怪談まがいの話は本当に駄目だという人もいるでしょう。

 ……つまり、私が六年もの間みかんタクシーを勤めることができたのは、ある意味鈍感で、途中で思考を切り替えることができたからなのです。しかし、それは裏を返すと、あそこで考えを切り替えることができなかったら……大きな事故を起こしていたのは私だったかもしれない。実際、私も何度か後部座席を気にしすぎて事故を起こしかけましたから」


 心からそのことを実感しているのだろう、野沢さんはしみじみとした様子で続けた。


「峠の事故で亡くなった新人ドライバーと私の命運を分けたものは、度胸とか精神力、あるいは運転技術といった大それたものではなく、もっと薄布一枚で隔てられたような奇跡的な差……ほとんど偶然と言っていいのではないでしょうか。

 もし少しでも歯車が狂っていたら……死んでいたのは私の方かもしれない。そう考えると、途轍もない恐怖に駆られました。

 みかんタクシーで実際に働いていた時は、不気味だ、気持ちが悪いという程度だったのに、いざ自分の命が六年もの間、危険に晒され続けたのだと知ると、体が震えるほどの戦慄を覚えたのです。本当に人間というのは現金な生き物ですよね」


 野沢さんの口調はどこか自嘲気味だった。でも、そういうものではないかと僕は思う。


 実際に現実に対処している間は、どうにかしなければと必死で、意外と周りが良く見えていない。けれど時が経つと当時の状況が冷静に考えられるようになる。


 改めて客観的に見た時、みかんタクシー時代の経験に震撼したのなら、きっとそれが野沢さんにとっての真実だったのだ。


 野沢さんは少しだけ沈黙したが、やがてすぐに再び口を開いた。


「それから何年かして、みかんタクシーは倒産したと聞きました。ですから、タクシーの後部座席に女性がいたのかどうかは、結局、最後まで分からずじまいです。

 これが怪談に当たるかどうかは分かりません。正直なところ、私も家族を養い生活していくのに精いっぱいで、最近までみかんタクシーでの出来事を忘れていたんです。私はその後もタクシー運転手で生計を立て、あるていど経験を積んでからは個人タクシーを開業したりもしたのですが、バブル後の不景気なども重なって、決して順風満帆というわけではありませんでしたからね。

 けれど、そんな私も年を取り、退職して免許の返納を考え始めました。そして、それを機にいろいろなことに思いを巡らせているうちに、ふとみかんタクシーのことを思い出し、誰かにあの不思議な体験を聞いて欲しくなったのです。

 とはいえ、あのような話は誰にでも打ち明けられるものではありません。私ももういい歳ですから、下手をすると耄碌したと思われるかもしれない。そんな折、怪談を蒐集しているというこちらの図書館の存在を知ったのです」


 そうだったのか、と僕は納得した。確かに、現代では怪談を話す相手や場所は限られるのかもしれない。特に野沢さんの話は体験談なのでプライベートにも関わるし、誰にでも話せることではなかったのだろう。


 きっと野沢さんにとって、安心して不思議体験を話せる先は狩森図書館しかなかったのだ。だからこそ遠方からはるばる足を運んだのかもしれない。


 野沢さんの優しげな瞳がまっすぐに僕に向けられる。


「私の話を聞いてくださってありがとうございます、夏目さん。実のところ、聞き手が若い方だと知った時は少し緊張しましたし、本当に信用してもらえるのかと不安でもあったのですが、夏目さんは一度も私の話をあり得ないと疑ったり茶化したりしませんでしたね。おかげでとても話しやすかったです」


「あ、いえ……僕の方こそ、興味深いお話が聞けて良かったです」


 野沢さんの話に惹きこまれたのは事実だった。あまりにも惹きこまれすぎて途中からは僕の方まで何が何だか分からなくなっていた。


 野沢さんが嘘をついていると思ったことは一度もない。それでも、タクシー会社の怪談のどこまでが本当のことなのか、幻に囚われたような感覚にさえなった。


 でも、それが野沢さんに伝わらなかったのなら喜ばしいことだと思う。怪談の聞き手としての仕事が十分に務まっていたということだろうから。


 だから、野沢さんにそういう風に思ってもらえたのなら、身に余る光栄だ。


 その時、茜音さんがこちらに視線を送っているのに気づいた。僕の反応で野沢さんもそれを察したのか、後ろを振り返る。茜音さんは席を立ち野沢さんの元までやって来た。


「たいへん貴重な話をしていただいて、ありがとうございました。野沢さんの体験談は怪談としてまとめた後、こちらの図書館に収蔵させていただきます。構いませんか?」


「ええ、構いませんよ。みかんタクシーでの経験は良い思い出であると同時に、少し不気味で怖い記憶でもあるのですが、誰かの役に立てたなら本当に良かった。私としても、胸のつかえがとれた思いです。これで心穏やかな老後を迎えることができるでしょう。お二人とも、本当にお世話になりました」


 野沢さんはそう言って、再びハンチング帽をかぶり、革の鞄を肩にかける。


 それから僕たちに向かって頭を下げると、ほどなくして狩森図書館を後にした。


 野沢さんはきっと、みかんタクシーでの記憶を清算したかったのではないだろうか。僕はなんとなくそう思った。


 たぶん免許返納などの、いわゆる人生の片付けに迫られた時にみかんタクシーでの体験を思い出し、それから解放されたいと考えたのでは。だから、不気味な後部座席の女性の話をするために、わざわざ狩森図書館を訪れたのだ。しかも、かなり遠方から足を運んでまで。


 野沢さんはみかんタクシーに対して、必ずしも悪い感情を抱いているわけではなさそうだった。それでも……きっと『片付け』をしたかったのだ。そして、もし僕がその片付けの手伝いをすることができたのだったら、これ以上、喜ばしいことはないと思う。


 狩森図書館から去っていく彼の表情が晴れ晴れとしていたのは、僕の気のせいではないだろう。


 野沢さんが彼の望む通り、穏やかな余生を送れればいいと、そう願わずにはいられなかった。



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