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 その頃になると、同輩の多くは早々に脱落し、いっぽう後輩の小僧たちが入ってきて、仲間の顔ぶれも一変していた。

 庄吉は手習いをほめられ、帳付けをまかされるようになった。この年にしては破格の扱いである。

 帳場は板敷きで、店とは格子で仕切られている。

 最初、手代が、

「小僧は店の畳を踏んだらいかん」

 と、言うので驚いた。

 板敷きに正座して帳簿付けをするのである。辛くもあったが、それさえ慣れてしまえば、小僧の雑用とは比べ物にならない。

 なんといっても商いに直接関わっているのだ。それに、念願だった桔梗屋の質物骨董をじかに手にすることができる。仕事の格が違うのだ。庄吉はまるで人間としての格まで上がったように有頂天になった。

 いっぽう、まだ、通し土間の水洗いに明け暮れている朋輩の小僧たちからは、やっかみ半分仲間はずれにされた。庄吉の小柄でいかにもひ弱そうな体つきや、いつまでたっても変わらない幼い声音は、年長の小僧から嘲笑を受ける格好の的となった。

――かまうものか

 自分は他の小僧たちのように、そう簡単に脱落するわけにはいかない。庄吉は、ますます帳付けに励んだ。

 庄吉にまかされた帳面は、店の留め帳で、町内に回覧されている紛失物廻り帳を書き写すのである。

 紛失物廻り帳というのは盗品調査に使われる。つまり、お触れの出た盗品が出回っていないか、市内の質屋に品目や品物の特徴を回覧する帳面である。月に一度回ってくるこの廻り帳の内容を書き写し、蔵にしまってある質物の中にそれが紛れこんでいないか確認する。

 年の瀬もせまると、質物の数は増え、庄吉の仕事も忙しくなった。雑用はあいかわらず多い。土間の水洗いこそなくなったが手代の使いや主人の供、次々と運ばれてくる質物の整理。それにこの留め帳付けが加わった。

 庄吉は、毎日、店先と蔵を何度となく往復した。

「あの……『忌』て、なんですか?」

 ある日、庄吉は手代に恐る恐る尋ねた。

 紛失物廻り帳にあった盗品が、桔梗屋の台帳に載っていたのだ。店の留め帳には、欄外に小さく「忌」と記されている。これはいったいなんのことだろう。

 気短かな手代は、

「かまわんでいい、そのままにしておけ」

 ちょうどたて込んでいた時間で、取りつく島もない。

 庄吉は、開いたままの留め帳を手に当惑した。

 盗品と知れれば、隠密調べ分として、係りの役人に届け出なければいけない。

 桔梗屋は不法な質取りをしているのだろうか? これは、桔梗屋の取り扱っている質物の性質から大いに考えられることではある。

 そこで、庄吉は、品物の台帳からたどって、「忌」と記された品を蔵の中に探した。それは、一の蔵の古い仏壇の裏に放置されていた。

――そうだったのか

 それで思い出した。

 あの日、刑場見物して持ち帰った荷である。

 そういえば、あの時、手代は、庄吉が受け取ってきた質物の中身を調べもしなかった。いつもならしっかりと品質や痛み具合や元値、骨董価値のあるものならばその由来や箱書きを見極める。

 それがあの時に限って何もせず、そのくせ一番大切な質草をしまう一の蔵にしまわせた。そして、それは今もそこで埃をかぶっているのである。

 手代がろくに相手をしてくれないので、庄吉は日をあらためて、今度は中番頭に声を低くして聞いた。

 中番頭は、老眼にかすみ始めた目を少し離すようにして、大玉のそろばんをはじいていたが、

「なんだ、お前、そんなことも知らんのか?」

と、その手を止めた。

「奉公していったい何年になるんだ?」

 おもむろに煙管を取り出し、煙草盆を脇に引き寄せる。

 雁首に煙草を詰めながら、それでも中番頭は庄吉に、「忌」は「忌み物」の略であると教えた。

「読んで字のごとし。まあ、禁忌というものがある。質屋の場合、質物として引き取り、それが流れてもまた引き取らなければならないことがあるのだ。それを何度もくりかえすことがある。それが『忌み物』だ」

 そう言って、煙草を二、三度すぱすぱとせわしなく吸うと、庄吉の差し出していた留め帳を、「どれ」と、はじめて手に取った。 

 が、からくり箱という品名を見てとると、たちまち眉をくもらせ、

「ああ、この品はいけない。このままにしておけ」

 灰吹きに煙管の雁首を勢いよくはたいた。

 それで忌み物のことはそのままになった。

 庄吉の疑問は解決したわけではない。

――忌み物とはなんだろう? からくり箱にはどんな因縁があるのだろうか? 

 小さな疑問が不思議の繭をつむぎ、日に日に大きく膨らむ。

 爾来、庄吉の心に、からくり箱が根を張ってしまった。  



 桔梗屋の風呂場から出火したのは、盆の薮入りが明けてすぐ、蒸し暑い晩であった。

 木戸番が拍子木を打って見回ったときに異常はなかったというから、家中が寝静まった八つ過ぎであろう。

 厨のほうから、

「火事だ、火事だ」

 の声が上がった。

 誰かが寝ぼけ眼でふすまを開けると、白い煙がどっと中に流れ込んできて、奉公人部屋は騒然となった。

「火元はどこだ? 湯殿か? 厨か?」

 手に手に防火用の桶を抱えた男衆が何人も、水をはねとばしながら廊下を走って行く。どやどやと家中に足音が響いた。

 風呂場のほうへ殺到する奉公人たちを、庄吉は納戸の陰に身を丸くしてやりすごした。人声が遠ざかった隙を見て、皆とは反対の方角へ駆け出す。裸足のまま石畳になっている通し土間を駆け抜けた。ほてった足の裏に石畳が冷たい。

 店の内庭を、細い木立に身を隠しながら行く。火元の湯殿とは反対の方角である。店の者たちは誰も火事場めがけて出払ってしまったから、庭先や蔵のあたりはしんとしていた。

 廊下を振りかえると、店先のほうに人が集まって来たらしく、くぐもったあわただしいやり取りが聞こえる。やがて、なまこ塀の向こうを小走りに行く足音がしたが、それも次第に遠ざかった。

 満月の晩で、月明かりは十分である。

 がらんとした夜空を背に、三つの黒土蔵はそれぞれそびえ立つように大きく見えた。

 庄吉は息を弾ませながら、一の蔵の扉をまさぐった。扉の表面の漆喰は生き物の肌のようになめらかで、昼の熱気がまだ冷めておらず生暖かかった。

 閂が手にずしりと重い。鍵は昼間こっそり開けておいたから、見た目はしっかり掛かっているようだが、音も立てず容易にはずれた。

 蔵の薄闇の中に吸い込まれる。庄吉は蔵の戸を内側からそっと閉じた。

 表の騒々しいのに比べ、蔵の中は別世界だ。生ぬるい湿気を含んだ闇が広がっている。

 時折うるさく寄ってくる藪蚊を、庄吉は無意識にはたいた。

 暗闇は怖いものと思っていた。それが今はどうだ。暗さに身をひそめ、ほっと息をついている自分がいる。黴と漆喰に混じり、骨董品に独特の体臭が、庄吉の緊張をやわらげた。

 もとより、何を盗ろうと言うわけでもない。罪悪感はなかった。

 ただ、風呂場の小火がこれほど大事(おおごと)になるとは予想外であった。これで、風呂当番の小僧が叱られるのは気の毒だ。けれど、なに、その貸しを返すぐらいのこと、いつかできるだろう。いずれにせよ、たいしたことではない。

 それでも、周囲の闇を振るわせるほど動悸がした。思わず胸に手をやると、懐に例の絵図が触れた。

 この盆の薮入りには、例年どおり、絵図を懐に入れて帰り養家で過ごすはずだった。いつものように、桔梗屋で用意してくれたみやげ物の風呂敷包みを下げて、いそいそと駒込の養家へ向かったのだ。

 養父母や従兄弟たちが、庄吉にとっては唯一の身内である。この年頃で他人ばかりのところに住み込みで働いているのだから、たった一日の休みとはいえ、どんなに楽しみに待っていたか知れない。

 だから、養家のある裏長屋の木戸まで来ると思わず走り出し、見慣れた腰高障子が開け放たれているのを見ると、威勢よく「帰ったよ」と、中へ声をかけ――凍って立ち止まった。

 姉さんかぶりに座敷を掃いていたのは、見たこともない女だった。

 入り口から、衣文掛けに掛けた派手な着物が見えた。

 家の中は一変していた。

「ああ、その家族なら半年も前に引っ越したよ。私ら夫婦が後に入ったんだ」

 そう言って、箒を手にしたまま女は、立ちすくむ庄吉にいぶかしげに目を走らせた。

 庄吉は、身請け人でもある大家を訪ねたが埒が明かなかった。

「知らされてなかったのか? うむ、里へ手紙を書いてやるのはいいが……。まあ、桔梗屋さんでよくしてもらってるのなら、そこで辛抱おしよ。おまえのお養父(とっ)さんもお養母(っか)さんも子沢山だしするから、よくよく考えてのことなのだ」

 その晩は、そのまま桔梗屋へ帰され、庄吉は、誰もいない奉公人部屋でひとり眠れぬ夜をすごした。

もう薮入りどころではない、この世でひとりぽっちになってしまったと庄吉は思った。

 そのときのことを思い出すと心細さでまた涙がにじんだ。庄吉は涙を袖口で乱暴にぬぐった。

 目が蔵の中の暗さに慣れるまでしばらくかかった。

 薄闇に手を泳がせ、足裏で土間の床をさぐりながら、用心深く蔵の奥へと歩を進めて行く。はだしに、土間の固い土がひんやりと冷たい。

 暗い中でもさらに暗い片隅に、黒々と底光りするものがあった。

――あの黒檀の仏壇だ

 そばで見上げるとずいぶん大きい。庄吉は、思い切り首をそらせて仏壇を見上げた。

 明かりとりの小窓から青白い月光が射し、土間に黒々と格子の形の影が落ちている。

 仏壇の後ろの闇に、庄吉は思い切って体ごとすべりこませた。

 その辺りをまさぐる。

 と、油紙ががさがさ音をたてた。

――これだ!

 勢いよく油紙を取り払う。

 月明かりに埃が舞い上がり、薄闇の中、斜めに紗を透かしたようだ。

 庄吉は埃でむせそうになった。息を止めたまま質物に目を近寄せる。

 からくり箱の蓋は陽に焼け、表面に無数の傷があった。それだけでもこの箱がさほど大事に扱われていたわけではないことを物語っている。

 注意深くあたりを見はからってから、闇の中にかがみこみ、そっと箱のふたをとる。ふただけでもけっこうな重みがあった。ふたが内箱に当たってかたかたと音をたてる。

 のぞきこむと、中にもうひとつ、真っ黒な箱があった。

 こちらは艶のある漆塗りらしい。月明かりでよく見ると、竜がくねる姿を鋳出した金物の取っ手がついている。

 外箱のふたの裏側を見ると、ちゃんと箱書きがあった。けれど、達筆すぎて庄吉には読めない。と、いうより、漢字ではないようなのだ。

――梵語だろうか? 唐天竺の品か? 

 庄吉の胸が久しぶりにわくわくと躍った。

 しばらく躊躇し、思い切って竜の形をした取っ手をつかんだ。真夏というのにひんやりと掌にしみる。

 外箱からひっぱり出そうとすると、ずしりと重い。

――中身がいろいろ詰まっているのか?

 両手で慎重に持ち上げた。

 するすると出てきたのは真四角で漆黒の、のっぺらぼうな箱。引き出しも何もない。

 ただ、いっぽうの側にわずかに突き出したのぞき口がふたつ。

 黒い漆塗りの箱を、空になった外箱の上に慎重に置く。すのこを敷いた蔵の床にひざをつくと、ちょうどのぞき穴に目がとどいた。

――そうか、わかったぞ

これならいつか見たことがある。

――からくり箱、あの大道芸だ。

 箱を背負って大道を歩き、壱文、弐文と子供からまきあげては箱をのぞかせる。形といい、大きさといい、これはあれに違いない。庄吉の胸がいっそう高鳴った。

 きっと、この箱の中には細工がしてあるのだろう。紙人形や景色をそれらしく描き、少しずつ手前へずらして並べてあるのだ。それを、ギヤマンののぞき口を通して見ると奥行きが出て、遠近の錯覚を起こす。

 いつぞや道端でのぞいたときは、ひと抱えほどの小さな箱の中に、富士山が間近に仰ぐように見えて驚いたものだ。あるいは、張り出した松ヶ枝の先に、なだらかな砂丘が広がっている、かと思うと、五大力船の行き来する港や、しゃちほこのある天守閣から町並みを眺めていたりするという按配である。

 さらに工夫する者もいて、明かりを射し込んだり、回り灯籠のように影が動くようにした細工も見たことがある。また、景色だけでは飽きたらず、内容もドラマチックなものがあった。赤い炎に彩られた明暦の大火。旗指物が勇ましい関が原。雪の中、火事装束の塩谷の仇討ち合戦もあった。

 これは何を見せてくれるのだろう。

 埃っぽい蔵の中で、思わず庄吉の顔がほころんだ。

 からくり箱の暗いのぞき穴に吸いつけられるように目を寄せる。

 と、そのとき、土塀の向こうを走り抜ける大勢の足音がして、

「おい、道をあけろ、あけろ!」

 一段と高い声が当たりに響いた。

 同時に、近くでジャンジャンジャンと一定の間隔をおきながら半鐘が鳴り出した。

――火消しだ! 

 小火のつもりが、思ったより火が広まっているらしい。

 しかし、蔵の戸は閉じたし、中に庄吉がいることは誰も知らないはずである。

 しばらく息をひそめていると、半鐘の音がさらに激しい連打に変わった。

 そのうち、内庭に数人の入り乱れた足音がして、蔵のすぐ外で甲高いやり取りが始まった。

 番頭だ。手代の声も聞こえる。

 庄吉は、仏壇の裏に身を低くして、からくり箱を両手で抱きかかえた。蔵の中に入ってこられたら万事休す。ここで見つかってしまっては元も子もない。

 庄吉は、からくり箱ののぞき口にあわてて目を当てた。鉄製の枠がひやひやと目の周りに冷たい。

――何も見えないな

 箱の中は真っ暗だ。明かりの具合であろうか。けれど、のぞき口以外、箱の中に明かりの入る隙はない。

 と、目を少しずらした拍子に、

――見えた!?

 何か見えたような気がした。

 庄吉は、その方向へ額をずらし、穴の奥へと目をこらした。

 暗い洞窟から外を見るようだ。小さな明かりが箱のずっと奥から射してくる。じっと見ているうちに、それが、たちまち視界いっぱいに広がり、庄吉はまばゆさに目をしばたたいた。

 まぶしくて涙があふれ、視界がゆがんだ。

 と、汗で濡れた体を震えが突き抜ける。

――寒い

 庄吉は犬のように全身をぞくりと震わせた。

 気がつくと、甘くすえた匂いが漂っている。

――甘酒だ

 今度は面前を横切って、むっと蒸気が流れた。

――ああ、これは

 蒸し饅頭売りが蒸篭のふたを取ったのだと気がついた。

 庄吉のところから、甘酒屋も饅頭売りも一望のもとに見渡せた。

 なにやら見覚えがあった。

 沿道は押すな押すなの人だかりだ。これは――

 あの時と同じだ。

 あの市中引き廻しだ。

 いや、どこか違う。

 そうか、あの時と、見える角度が違うのだ。

 あの時は、見物の大人たちの間をかいくぐってやっと仰ぎ見ていた。今はらくらくとあたりを見回している。

――あたりを?

 首をめぐらすと、沿道の左右に群がる人が見える。

 庄吉は自分がもうからくり箱をのぞいているだけではないことに気がついた。

 再び体が震えだしそうになるのをじっとこらえる。寒さで歯ががちがちと鳴った。

 自分の見ている景色は、いつかのそれと少し違う。角度が違う。

 あの時は見上げていた。今は、やや高い位置から人々の頭を見ている。いや、正確に言うなら、下から人々の視線を浴びている!

 気がつくと尻が痛い。ゆらゆらと体が揺れるたびに、尻がごつごつとあたる。

 目を落とすと、そこに、埃を浴びた馬の(たてがみ)があった。

 すると、自分の尻があたっているのは、 

――そうか!

 自分は馬にまたがっているのだ。

 沿道の見物がこちらを見上げている。これはいったいどうしたことか? 自分はここで何をしているのだ?

 身じろぐと、両手は後ろ手に固く縛られ、寸分の身動きもならないことに気がついた。

――これは錯覚ではない

 まるでからくり箱の中に取り込まれたようだ。いや、この臨場感は、からくりどころか、実際、今、そこに生きているとしか思えなかった。

 馬上は思ったより高い。二階家くらいの高さがある。

 あとからあとから、虫の死骸に群がる蟻のように見物が集まっていた。誰もが首を仰向けて自分を見ている。その見上げるまなざしには多少の賞賛も含まれているようである。

 ふと気がつくと、沿道の見物の中に小さな丁稚小僧がいた。唐草模様の風呂敷で、大きな荷を背中にくくりつけている。それが肩肘張って必死に人垣を分けて前へ出ようとしている。

 馬上からそれが誰か気がついて、高揚した気分から思わず笑みがこぼれた。

 すると、その小僧の幼げな顔に、驚愕の表情が浮かんだ。人波にもまれながらあとについてくる。

 馬上で体をひねって、小僧を振り返りながら、

――おい、お前は誰だ? いや、自分はいったい誰なんだ?

 声をあげようとしたが、届きそうにない。

 これは夢だと庄吉は思った。からくり箱をのぞきながら、自分は夢を見ているに違いない。それなら、しかし、もうしばらく見続けていたい気がしないでもない。

 騎乗の男は自分であって自分ではなかった。

 これは、あの通し土間で凍える足や、水に濡れるとすぐ切れてしまう下駄の鼻緒を心配したり、夜遅くまで板の間にかしこまってちまちまと帳付けをしたり、間違いをしでかすたびに手代に叱られるのを畏れていたあの小僧ではない。

 背中に般若の面を背負い、髷を剃った頭から鬼坊主と呼ばれるあの大盗賊であった。 

 最後の花道を、辞世の句をひねりながら、四十年配の、少しも畏れない男が馬にまたがって行く。

 腕を後ろ手に縛られながら、そんな自分を見に集まってくる沿道の群れに一瞥をくれ、

――この世は一期の夢よ、いざ嗤え……

 自分ののどから出る声は太く渋い。

 例の板囲いの刑場の、今度は中へ入って行く。

 内側から見るのははじめてだ。ぐるりと囲まれた板塀の向こうに、人影こそ隠れているものの、大勢の人の張り詰めた気配がする。

 馬から引き摺り下ろされる。役人が腕を強くつかんだ。

 引き立てられていくと、すぐそこに、見覚えのある空き俵があった。その向こうに、掘ったばかりの黒々と口を開けた穴。

 庄吉の胸がどっと早鐘のように打ち始めた。

 これから起きることは知っている。

 板塀をへだてているにもかかわらず、見物のさざめきが聞こえた。

「今晩は雪になるぜ」

「ええ、押すなてば」

 末期の耳は一語も逃さない。

 末期の?

 肩を押さえつけられて、庄吉は、いや鬼坊主譲吉は、空き俵に膝をつく。

「あれは血溜めの穴だぜ」

「あの空き俵に死骸を詰めるんだ」

 板塀の向こうで見物がささやいている。

 そうだ、これも覚えていた。

 役人が、罪人の着物の襟をつかんで引き下げる。

 見物の中から大きなくさめが聞こえる。

 何か言わなければと思っても、舌が上顎に張り付いたようだ。

 立ち上がろうとするが、両肩を役人がしっかりとつかんで身じろぎもできない。視点は目前の暗い穴底を見つめ、荒い息ばかり急く。

 その時――

 一陣の冷たい風にまぎれ、なにか香ばしいなつかしい匂いがした。

 はっと思い出す。

 火事のときは、

――蔵の入り口を味噌でふさぐ……

 庄吉は渾身の力で振り向いた。


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