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006 友達になってください その1

 ティッシュで鼻をかむ。泣くだけ泣いて、喚くだけ喚いた俺の心はずいぶんと軽い。

 ん、安き心である。

 その代償として婆さんのレギンスは男の涙と鼻水をたっぷり含んで湿り気を帯びており、履きたくないおパンツコンテストの佳作に選出されるくらい酷いあり様だった。


「はあ、やっとひっつき虫が離れたよ」


 心底くたびれたといった風に肩を揉みながら老婆はひとりごつ。

 茶を啜る彼女に俺は心から感謝を述べた。


「膝を貸してくれてありがとうございました。おかけで膿がぜんぶ出た気がします」

「そりゃいいこったね。けどね、初対面のレディーにぶつけていい感情じゃないよ。ちゃんと腹割って話せる友達作って今度はその子の胸を貸してもらいな」

「そうっすね。ご迷惑お掛けしました」


 一歩間違えれば事案だったかもしれない。

 ほんと、婆さんには頭が上がらんな。


「ふん、まあいいよ。ゆうちゃんへの執着が取れたのなら、大家として十分な仕事ができたってことだからね」

「はい。俺、手塚を尾行するの、もうやめます」

「ま、当然だね」


 うむうむと餅つきの木槌みたくリズミカルに頷く老婆。

 そんな彼女の動きが、次の言葉でピタリと止まる。


「そんで、手塚と友達になります」

「……ほう」


 持ち上げられた片眉。興味深そうに婆さんが俺を見る。

 続く言葉を急かすことなくせんべいの袋を開けた彼女に俺は語った。


「俺は、いつからだったか忘れたんすけど、ずいぶん長い間友達がいません。そのことが寂しいとか、恥ずかしいとか、このままじゃいけないとか、そういうことを考えたことは一度もありませんでした。むしろ一人の方が身軽で気楽で煩わしくないとすら思ってました。だから、このまま一人でいいんだって決めつけてたんす。けど、今回こうして婆ちゃんに話を聞いてもらって、身内に話せない恥ずかしい話を、そんな自分を曝け出して見せつけられる存在ってむちゃくちゃ大事なんだなって心から感じました」

「なるほどねぇ。で、なんでゆうちゃんをその友達に選んだんだい?」


 リトマス紙に液体を垂らして実験結果を待つみたく投げられた問いかけ。

 俺が持ち合わせているものは、骨をも溶かす硫酸でも、上質な石鹸水でもない。

 ひどく単純な答えを婆さんに語る。


「散々手塚のことを追いかけ回して思いました。見た目はすげぇ怖いけど、中身はすげぇ良い奴だって。単純ですけど、それが理由っすね。良い奴だから、友達になりたい。それだけです」

「なるほどね。ま、良いと思うよ。けどねぇ、あの子は手強いよ」


 顎を撫で、遠い目をして、老婆はしゃがれた声を出す。

 その言葉の意味するところが把握できずに首を傾げた。


「手強い?」


 せんべいを一口。茶をひと啜り。彼女は重たそうに口を開いた。


「色々と抱えてるもんがあるからねぇ。ま、あたしから言えることは少ないけど……ああ、そうだ。いつも通りなら、今日あの子は電車に乗って稲荷山霊園へ行くんだけど、散々ストーカーしたんだから最後にそこまで尾行したらどうだい?」

「はあ、稲荷山霊園っすか。婆ちゃんが勧めるならやぶさかではないですけど、なんでそんなこと言うんですか?」


 霊園に行くってことは墓参りだよな。

 俺が言うのもおかしな話だが、そんな大切な時間に無断で踏み込んで良いもんかね。

 それにしても、稲荷山か。

 なんとなくだが、手塚に妙な縁を感じる。


「学校でのあの子の様子を初めて聞いたからね。あんたが友達になってくれるってんなら、ゆうちゃんも一人じゃなくなるだろう。そのためにゃ、あの子の深いところを分かってやんなきゃならないからね。友達ってのは言葉にすれば簡単だけど、その本質は海のように深いよ。心のうちをさらけ出せる仲なんてものはそう易々と手に入らない。互いが互いを尊重し合えなきゃ浅い付き合いで終わっちまうよ。もし重責だと思うんならやめときな」

「いやっすよ。もう決めたんですから。俺の友達第二号は手塚にします」

「ふっふっふ、そうかい。ま、気ばりなよ──ん、第二号?」


 キョトンとした表情を浮かべる婆さんへ向けて指を差す。


「はい、第一号はばあちゃんです」

「あ、あたしかい!?」

「『訳がわからなくなったら周りを頼りな』って話してくれた時、友達いませんって言ったら『あたしに話してくれてもいい』って言ったじゃないっすか。だから友達です」


 俺の答えがツボに入ったのか、ばあちゃんがくしゃくしゃに顔を歪めて腹を揺らす。


「ぶっ、はは、ははは! そうかいそうかい、この年になってこんな若い男の友達ができるなんてねぇ。長生きはしてみるもんだ。爺さんへの土産話ができたよ。分かった、仕方がないからあんたのはじめての友達になってあげるよ」 


 心底おかしいとばかりに目尻に涙を浮かべて声を枯らす婆ちゃん。

 友達第一号の連絡先を教えてもらい、メッセージ通話アプリ『ロイン』に、公式と家族以外のアイコンが加わるのを感慨深く眺めた。酒の入ったグラスを接写したリリアナのアイコンの下に、トメというシンプルな二文字とガラス細工のシーサーのアイコンが連なった。


「あんた、このアイコンなんだい?」

「唐揚げっす。好きなんすよ、唐揚げ」

「……そうかい」


 なんだよ、婆ちゃん。白背景に唐揚げ一つのアイコンに何か問題があるってーのか?

 世界一うまいだろ、唐揚げ。みんなも好きだよな?



※※※



 トメばあが教えてくれたんだが、手塚は毎月21日に墓参りに行くという。平日なら、後ろの休日へズラすらしい。決まって午前10時に家を出るというので、しばらく婆ちゃん家でまったりして時間を潰してから尾行を開始した。

 富が丘商店街の花屋で仏花を購入し、最寄駅へ向かう手塚を追う。

 稲荷山霊園に向かうとのことなので、俺も一応仏花を買っておいた。


 一車両ずらして同じ電車に乗り込む。どの電車に乗るのかさえ分かれば尾行は簡単だ。例の霊園は俺も行き慣れている。電車を乗り継ぐこともないし、20分ほど快速列車に揺られていればいいだけだ。その後はバスに乗り換えて、山沿いの坂道を登っていく。大きな山の斜面を整えて広がった稲荷山霊園は、見晴らしがよく自然豊かな気持ちの良い場所だ。ひとりで行くのは久しぶりだな。


 バスを降りる手塚の背を追う。

 彼が向かう先は、驚くべきことに、俺がよく慣れ親しんだ場所だった。

 それは、父ちゃんと母ちゃんが眠る墓所の隣。

 今まで気にしたこともなかった左隣の墓石には『手塚家之墓』と深く削られ刻まれていた。


 無愛想で変化の乏しい手塚の表情。

 だが今は、明鏡止水の湖面に石を投げ込んだかのような、さざなみにも似た小さな感情の、その起伏が垣間見えた。しばらく立ち尽くし、静かに墓を見つめる手塚悠馬。暖かな春の日差に包まれた霊園。ただ一角、手塚と彼の見つめる墓石だけがひどく寒そうに見えて、その光景に痛いほど身に覚えがあったから、俺の足は堪らず前へと進んでいた。

 尾行はやめるって、ばあちゃんにも宣言したしな。

 物陰に隠れるのは終わりにしよう。


 そうして俺は、はじめて手塚悠馬に声をかける。

 最初の一言も考えついていないけれど、今はただ、その隣を早く誰かで埋めてやりたかった。


「奇遇だな、手塚。墓参りか?」


 痛み続ける骨の軋みを我慢するかのような顔がこちらを見る。

 鋭い三白眼が俺を真正面から睨みつけた。

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