どこでもゲート
朝。道を歩くその男は疲れていた。尤も、世の中の大半の会社員はそうである。朝起きて身支度を整え満員電車に揺られること一時間。ようやく会社に着き……と、身を委ねていればあっという間に歳月は流れるだろう。そして死ぬだろう。
――嫌だ。
今日、彼はそう思った。そして気づいたら人の流れに逆らい、駅から遠ざかっていた。
心を病んでいるのかもしれない。彼は自分でもそう思うと同時に、今こうして駅に向かって歩いている人々こそが病んでいるのではとも考えた。
だが現実、このまま会社を休むわけにはいかない。無断欠勤なんてもってのほか。新人ではない。そう頭ごなしに叱られはせず、むしろ心配されるだろうが、そろそろ昇進も見えてきている、そういった頃合い。上司の評価は下げたくない。逃避行はもう終わり。呆れるほど短かった。
乾いた笑いを咳払いで上書きし、彼が踵を返した瞬間であった。
――あれは。
たった今、彼の横を通り過ぎたスーツの男。その横顔と後ろ姿に見覚えがあった。そう、知らないが知っている。言ってみれば満員電車仲間。いつも同じ車両に乗り合わせ、そして降りる駅も同じ。だから何となく覚えていたのだ。しかし、思えば数年前からだろうか、覚えていないがいつ頃からか見かけなくなった。尤も不思議なことではない。他の車両に乗っているのかそれとも時間帯が変わったのか、そもそも『仲間』などとは程遠い、関係性などまったくないと言い切っていいだろう。
しかし、妙だ。かつて勝手に親近感すら湧いた生気のない顔が今は快活なものに。足取りも軽やかに見える。そして何より妙なのは、その男もまた駅とは反対方向へ歩いているのだ。
気になった彼は男の後をつけることにした。現実逃避の続行だ。
しかし、その結果。彼が直面したそれは現実とは程遠いものであった。
「……え、え、ここ、え、ワープ、ワープした?」
「ふぅー、まさか後をつけられていたとは」
「あっ……」
男の後をつけ、古いビルの中、ドアの先へと進んだ彼が目にしたのは勤務先、その最寄り駅の駅ビルであった。
唖然とする彼にやれやれといった表情でそう話しかけた男は言葉を続ける。
「ま、知られたからには仕方がない。場所を変えようか。近くの広場に行こう。まだ時間はあるだろう? いつもより一時間以上はね」
そう言い、男がニヤッと笑ったことで男が自分を認知していたことに気づき、彼は少し嬉しくなった。
「ふぅー今日は少し冷えるね。はい、これは僕のおごりだ」
「あ、どうも……」
自販機で購入したホットのコーヒー缶を手に、二人はベンチに腰を下ろす。彼はそれを手で包み、そしておずおずと訊ねようとしたがその前に男が口を開いた。
「君は、『どこにでも繋がるドア』があったらこの世の中どうなると思う?」
「……はい?」
プシッと小気味のいい音。男はコーヒーを啜った。ま、その反応になるよな、と彼を横目で見てニヤッと笑う。
「自分が望んだ場所に行ける、どこでもなドアなんて、ふふっ、わかるだろ?」
「ええ、まあはい。え、いや実際にあったらすごく便利だなと思いますけど……」
「タクシー……バス、電車、飛行機。全てが不要になると思わないか?」
「え、まあ……」
「ああ、そうは言っても完全には無くならないかもなぁ。人力車とかは未だに残ってるわけだし、まあそれは少し違うか。はははっ。だが、今のようにそのドアが交通機関として確立されれば少なくとも電車の利用客は減るだろうね」
と、男は駅の入り口を見つめ言った。忌々しいものを見るような目つきであった。
「……まあ、現在位置と行きたい場所、どこでも繋げられる魔法のようなドア、実際にそんな装置の開発に成功したとしても、我々のような一般人が利用できるようになるには、きっとまたかなりの時間が議論で費やされるだろうね。
そもそも、我々のような一般人の耳に届く前に禁止されるかもしれない。ワープ。どこでも繋がるんだ。まず軍事利用を考えるだろうし、それに職を追われる者も出てくるわけだ。ははは、航空会社の社員がデモを経てテロリストになるかもしれないね。革新的な技術には混乱と分断が付き纏うってわけだ。ミシンの話みたいにさ。最近じゃAIもそうなりそうだよね」
「あ、ははは……」
男が笑ったので彼も合わせるように笑った。ほんの数十分前にこの話を聞かされていたら、きっと頭がおかしいのだと違う意味で笑っただろうと彼は思った。だが現実は違う。確かに、自分はあのドアをくぐったことで今ここにいる。あれは
「あれは、あのドアは……」
「……正確にはわからない。専門家でもないしね。ただどういうわけか行きたい場所へと繋がっている。あれを僕に紹介してくれた人は、空間のねじれと、扉を開けた人の思念が絡み合い、なんとかとか、まあその人も誰かの受け売りらしく、結局はよくわからないのさ」
「え、というと他にもあれを使っている人がいるんですか?」
「ああ、それにゲートは、ああ、実際にはそう呼んでいるんだ。ゲートとね。で、この国には他にもいくつかゲートがあり、それらは遥か昔から密かに利用されてきたのさ。ああ、ほら神隠しとか聞いたことないかい? 行方不明になった者が、消えたその場所からはるか遠くで見つかるって話。あれもゲートの仕業さ。因みに基本、片道切符なんだ。ゲートは十分もしないうちに閉じてしまう。すぐに戻れば大事無かっただろうけどまあ、驚きのあまりワープ直後に中々そんな行動はとれないだろうね」
彼はゴクリと唾を飲み、そして思い出したかのようにコーヒーで喉を潤し言った。
「でも、どうしてそれが今まで噂にもならないでいたんでしょうか」
「まあ、荒唐無稽すぎて信じるどころか噂にまでならないのはあるけど、今言ったように密かに、口の堅いメンバー間のみで利用されてきたんだ。倶楽部と言っていいかもね。その理由はまあ、わかるよね。大混乱になるだろうし、政府が管理するとか言い出すだろう。だから営利目的など過ぎた欲を出さない者たちで、この日々をちょっと楽に過ごそうって考えで使われているってわけさ」
粋だろう? と男は笑った。彼は「あ、あの、それでその」と、意を決したように言った。
「メンバーになるには……一体、一体どうしたら」
「もうなっているさ」男は笑い、そして乾杯というように缶コーヒーを彼に向けた。
「え、でも」
「気づかれてしまったから仕方がないって言ったら、いい気はしないかもしれないけど、でもまあそういうことさ」
男が缶コーヒーを振り、彼はハッと気づき自分の缶コーヒーをそれに合わせた。
乾杯。そう言い男は笑い、二人で喉を鳴らした。
あの日より彼の生活は一変した。薔薇色の人生などとは大げさかもしれないが、一時間余分に寝られるとなれば文字通り見える世界も変わる。睡眠不足による緩慢な脳もぼやけた視界もどこへやら。過去だ。すべて過去へ置き去り。あのゲートをくぐり、今あるのはそう、輝かしい未来への道。仕事の能率も上がり、上司だけでなく周囲からの評判も良くなった。
なるほど。こうやって昇進して行けばメンバーで金を出し合い、ゲートが存在するああいったビルを保存できる。そうやって代々、保たれているのかもしれない。ゲートも、良き関係も。そう考えた男は、益々仕事に励んだ。
その後、メンバーの何人かと顔を合わせたが、どの人物も人当たりがいい。これまで自宅最寄り駅近くのビルから会社最寄り駅近くのビルへ、と片道切符であったが、他のゲートの場所も教えてもらい、終業後。会社からそこへタクシーを少し走らせるだけで、また帰りの満員電車を回避。自宅最寄り駅の近くに出た。
こんな素晴らしい情報を共有してくれるとは実に気前がいい。と、余裕があるのも当然。満員電車のストレスから解放された喜びだけでなく優越感を抱いた。そしてそれが何よりも心地良いことに彼も気づいていた。しかし、その選民思想は口に出さない。はしたないと思われるからだ。心の余裕は何よりも人生を豊かに、良き人格を作り上げるのだと彼は知った。
金持ち喧嘩せず。それどころか彼は街で喧嘩を見かけると、まーまー、と率先して間に入り、酒を奢った。財布の紐を緩めれば大抵の揉め事は解決できるのだ。
同僚や友人にも奢り、時には見知らぬ相手にも奢った。自分は他の者が得難い利益を得ているのだから当然だ、と。それにどこか後ろめたさを感じていたのかもしれない。抱えてしまったこの大きな秘密を誰にも喋れないというストレスの発散方法か。
なんにせよ、その相手がまた取引先の相手であったりするなどして、彼の評判は上がっていった。
そんな日々が続き、ある夜。古びた平屋でメンバー同士の会合が行われた。終始和やかな雰囲気。酒にツマミに、歌に踊りまで出て笑い声が止まない。
「はははははは!」
「はははははっ」
「いや、ははははは!」
「ははははっ! おっとと、いやぁしかし、古い一軒家ですねぇ。床なんて沈みそうだ。……あ、まさかここにもゲートが?」
と、踊り、よろけた彼が腰を下ろし、この会に誘ってくれた男に訊ねた。
「ああ、そうだとも。そこだよ。その机の引き出しさ」
「へー、ドアだけじゃないんですねぇ」
「うん。ああ、そう言えば君には話していないことがいくつかあったね」
「あー、でもまあ、ゲートの仕組み自体よくはわからないんですよね?」
「まあね。でもそう、ある時事故があってね」
「事故?」
「ああ、といってもそんな惨たらしい話じゃなくてね、ほら、ゲートがどこに繋がるか、人の思念に関係しているとは前に話したよね。ある時、何も考えずゲートを通った男がいたんだ。朝だしボッーとしててね。まあいくらゲートと言っても習慣化されると緊張感もなくなるよね。で、くぐってからもぼんやりと歩いていたらびっくり。そこは海外の街中だったのさ」
「え、ど、どうして? その人、旅行したかったんですか?」
「いいや、実はね。その彼の前にゲートをくぐった人と同じ場所に行ってしまったんだよ」
「と、いうと残っていたんですか? その、思念というか、上書きできず、そのまま」
「そういうわけなんだよ。で、その人はその国にある帰りのゲートをまだ知らなかったものだから大慌てで他のメンバーに電話して教えてもらい、難を逃れたって、まあ笑い話さ」
「へぇー、そういうこともあるんですねぇ。気を付けないと」
「うん。で、それからは用途に応じてゲートを使い分けるようにしたんだ。靴みたいにさ」
「靴?」
「そう。雨の日用、登山用、スポーツ用、通勤用みたいにさ。海外とか長距離用のゲートはここのにするとか国内でも長距離、中距離用に分けるとか。ゲートに負担をかけないよう、あまりあっちへこっちへ繋げず、メンバーもなるべく同じ場所に繋がっても大丈夫なように引っ越しして纏まるようにしてさ。なにせ未知も未知だからね」
「へぇー、そうだったんですねぇ。じゃあ僕はたまたまちょうどいい所に住んでいたわけだ。はっはっは! まあ、昇進しましたし、そろそろ引っ越そうかと考えているんですけどいやぁ、便利だから中々どうしたものかとね、はははははっ! でも皆さん、気を使いすぎというか、ちょっと信仰が入ってますよねぇ。もっと気楽でいいと思うけどなぁ」
「ふふふっ……それで君が使っていたゲートは主にあの駅近くと繋がるようになっているんだけど、ある日ね、いや、驚いたよ。別の場所に繋がったんだからね」
「別の場所……?」
「ああ、名残というかね。こっちもいつも通り何の気なしに通ったものだから、さっき言ったようにそっちに引っ張られたんだろうね。欲の残滓に」
「ははははっ。最近、やたら羽振りが良くなったそうじゃないか」
「まあ、こうなる気はしていたがね。ははははは!」
「くくくくっ、まさか銀行の金庫室とは安直な」
「すぐ閉じるからな。せっせと行き来したんだなぁ。ははははっ」
「ふふふふっ、これもまあ、会の維持のためだ」
「ははははは! そうそう、悪く思わないでくれ」
「あーよいよいよいよいっしょっと!」「あーよいよいよいよいっしょっと!」「あーよいよいよいよいっしょっと!」
メンバーに掴まれ、担ぎ上げられ悲鳴をあげて抵抗するも、机の引き出しの中に押し込まれる彼。
縁にかかったその指が一本一本外されていくその間、涙と共に口から発せられる弁明。ふと彼の脳裏をかすめたこと。この恐らく処刑用のゲートはどこに繋がっているのか。火山の火口か、大海原か。砂漠か。
多分どこにも。落ちていく感覚にあげた悲鳴も何もかも彼の全ては、引き出しが閉ざされると行き場を失くし、暗闇に呑まれていった。