「おまえを愛することはない」な夫と「まあ奇遇ですわね、わたくしもですわ!」な妻の結婚前線ディスティニー
結婚式だというのにその日はしたたかに雨が降り、近くで雷鳴が鳴っていた。光が入らない暗い教会内部には悪天候のせいか予定よりだいぶ少ない参列者。司祭が読み上げる誓いの言葉をさえぎるように、光と衝撃、そして空が割れるような落雷音がとどろく。
新郎ミカエル・フォン・ヨナート。
新婦ロズヴィータ・ディ・ドライス。
このふたりの結婚が神の御前で認められた。
そして迎えるは新婚初夜。
寝室では夫とその妻が火花を散らしてにらみあっていた。まるで命をかけた果たし合いのような雰囲気は本当に新婚初夜なのかと疑いたくなるほどだ。
「……はじめに言っておく。俺はおまえを愛することはない」
「まあ奇遇ですわね。わたくしも同じ気持ちですわ」
剣呑さに拍車がかかり、ふたりの眉間のしわがいっそう深く刻まれる。
貴族の婚姻とは自由がないもので、つながりが必要であると当主同士が承認すれば、当人らは従うほかない。しかしミカエルとロズヴィータの結婚には両家の思惑よりも、この国の第一王子と聖女がふたりの結婚を望んだことが何よりも大きい。
ことの発端はロズヴィータだ。聖女に関していろいろとやらかしてしまい、謹慎中だった彼女に届いたのは聖女と王子の連名でつづられた手紙。まわりくどい言い回しを省略すれば、話したこともない男との結婚を勧めるものだった。実質的な命令である。
その相手こそが王子の取り巻きだったミカエルだ。聖女に熱を上げていたのは周知の事実で、突然の指名に唖然とするほかなかった。叱責覚悟で王子に詰めよるが「失恋に効くのは、新しい恋だろう?」と鼻で笑われ、その後はとりつく島もない。
疎ましく思っていたミカエルを王子が厄介払いしたのだと陰で多くの人が言っていたが、きっとそれは正しいのだろう。
これで両家の当主どちらかが反対すれば実現しなかったのだろう。しかし結果はこの有り様だ。
表向きはミカエルがロズヴィータ嬢を見初めての婚姻ということになっている。少々事情を知っている者であれば、血筋はいいが金に困窮しているヨナート家と莫大な資産を持つ豪商ドライス家をつなぐ婚姻に見えるだろう。
しかし身近な者が知る理由は、王子に懸想し聖女をおとしめる令嬢を黙らせるため。あるいは横恋慕した取り巻きの厄介払い。そして嫌がる彼らを無理に結ぶことにより、聖女や王子に害意はありませんよという両家当主の両手を上げたポーズであった。
もちろん、ふたりともこの結婚に納得していない。
なんなら顔も合わせたくない。好意なんて微塵もない。あわよくば白紙に戻れと神に祈った婚約期間はあっという間に過ぎ去ってしまった。
結婚式で「誓いますか」と問われた司祭に反抗的に「誓いません」とのたまったロズヴィータだが、その時に雷鳴がとどろいた為に誰にも気づかれなかった。ミカエルは誓いのキスを拒否したが、ちょうど稲光の強烈な光で辺りが真っ白になったために誰にも伝わらなかった。
「この結婚に異議があるものは」という司祭に新郎新婦そろって手を挙げたが、同じタイミングで教会の入り口付近へ雷が落ちたために、司祭と参列者はびっくりして後ろを向いていた。
それでも初夜に押し込められるのが夫婦の寝室である。
ふたりとも白いナイトウェアにガウンを羽織り、身を守るように大きな枕を胸に抱えて対面していた。
「俺は、マルティナ様をお慕いしている!」
「わたくしだって、エルンスト様が好きだわ! なぜあなたなんかと……!」
もちろん、ふたりの気が合わないことは本人も周囲も承知の上だ。互いに想い人がいることも。
「ふん、愚かだな。殿下がおまえのものになるはずがないだろう」
「そんなこと百も承知よ。エルンスト様とどうこうなりたいから好きになったんじゃないわ。好きになったのがたまたまエルンスト様だったのよ。あなたこそ、あの性悪聖女なんかに懸想して、趣味悪いったらありゃしないわ」
「なんだとっ」
ソファをはさみ対峙したふたり。枕を持つ手に力が入る。
「マルティナ様はすばらしいお方だ。穏やかなお顔の下に、芯の強さを持っている。気高い心を持っている。……殿下とマルティナ様が結ばれるのは当然のことだ」
先日、聖女マルティナと王位継承権第一位であるエルンストは婚約を結んだ。順調に行けば次期王位はエルンストのものになり、マルティナは王妃となる。もう付け入る隙は微塵もないのだと突きつけると、ロズヴィータは口をきゅっと結び、力いっぱいミカエルをにらんだ。
またぎゃーぎゃーと喚き立てるのだろうとミカエルが身構えるが、ふいに、彼女の頬にぽろりと涙がこぼれた。
「……あなたは、これでいいの?」
険しい表情を作りながらも、ぽろり、ぽろりと涙をこぼしてロズヴィータは声をしぼりだす。ミカエルは胸が苦しくなった。その言葉が痛いほど心を突いたからだ。
「あの方たちが……そう望んだんだ……」
婚姻せよと、望まれたのだ。他でもない王子と、聖女から。祝福すると笑顔で言われた。ふたりはあいにくの天気だったので今日の結婚式には参列せず、代わりに来たエルンストの弟君が祝福の言葉を述べた。それが全てだ。
ロズヴィータに言い聞かせるつもりで、自分の心にもだいぶダメージを負ったらしい。ふたりして沈痛な面持ちで床を見つめる。張りつめる空気は剣呑なものから悲壮へ変わろうとしていた。
「この想いを抱くことすら、許されないの?」
肩書き上の妻はそう言って、またひとつ涙をこぼした。あまりに痛々しい空気にため息がでる。これが若いふたりの新婚初夜だというのだから、結婚は人生の墓場だという先人の金言にうなずくしかない。
「なあ、座らないか」
言い合いをする気力も削がれてしまった。どのみちミカエルはロズヴィータを抱くつもりはない。その意思をお互いに表明したのだから、少し気を楽にしてもいいだろう。そう思って声をかけると、ロズヴィータは渋々といったふうに応じた。
互いに長椅子の端へ座ると、間にもうふたりほど座れる隙間がある。心の距離はそれ以上に離れているが、停戦したからには腰を落ち着けたい。
「……夢を壊すようで悪いが、殿下はおまえが思ってるような御仁ではないと思うぞ」
いじわるな事を言っている自覚はある。しかしミカエルにはなぜロズヴィータがあれほど好意を寄せるかが理解できなかった。エルンスト王子の人となりに惚れたとのことだが、幼い頃から彼の側にいたミカエルとしては眉をひそめてしまう。見た目に惚れた、肩書きに惚れたと言われたほうがよっぽど納得できるものだ。
王子としては正しいのかもしれないが、あごで人を使い、その手柄を当たり前のように自分のものにするエルンストには横暴さをよく感じた。実際、ミカエルもいいように使われてきた。アレをしてこいコレをしてこい。良い結果がでれば笑顔でそれをかっさらっていく。労う言葉ひとつあれば、抱く感情も違うのにな、と幾度となく思っていた。
「エルンスト様がいい性格してるって、知ってます」
「だったらなぜ」
「仕方ないじゃない。好きなんだもの。好きになったら欠点ですらかわいく見えてくるでしょう」
あなたもわかるでしょ?
ロズヴィータの目がそう言っている。確かにその通りだと思った。
「……わたし、すごく体が弱かったんです」
突然何を言い出すかと思えば。ロズヴィータと言えば健康優良体の見本のような人物だ。快活で、豪気で、口も達者な彼女におおよそナイーブという単語は似合わない。しかも『わたくし』から『わたし』と一人称が変わっており、ずいぶんと気が抜けているようだ。呆れたようなミカエルの視線にロズヴィータは「なによ!」と憤慨した。が、気持ちを落ち着けて続きを語る。
「季節の変わり目によく体調を崩しました。一度熱が出たら一週間くらいベッドから起きることができなかったんです」
ロズヴィータは思い出す。家族と離れ、水と空気がおいしいと評判の療養地で過ごした日々は寂しくてつらいものだった。
「あの頃は毎日が本当に怖くて、このまま死んじゃうんじゃないかってずっと怯えていました。その時に、たまたま療養地にいらしていたエルンスト様が見舞いに来てくださったのです。わたしはその時に、彼の優しさに触れて心奪われました」
一目惚れではない。むしろ、出会い頭の印象はいじわるそうな男の子だと思ったくらいだ。
「エルンスト様と顔を合わせたのはあの時だけだったけれど、彼はあのあと毎日来てくれたんですよ」
窓辺にきれいな花を置いてくれて。そう言って懐かしむロズヴィータの頬はほんのり赤かった。
「最後の日にもらったメッセージカード、ずっととってあります。わたしの大事な宝物」
小さなカードにきれいな字。綴られていたのは王都へ戻る旨と、回復を祈る言葉。窓辺への花で少しずつ気持ちが募り、そのカードで恋に落ちた。
ロズヴィータは小さな頃からいろんな手習いを受けていたが、一向に上達しなかったのがペン字である。音楽の才能はあふれんばかりあったので両親もとやかく言うことはなかったし、本人もなんとも思っていなかったのだが、あのメッセージカードを見た時に心が震えた。貴族然とした流暢な書き文字とロズヴィータに心を配る文章が、あまりにも美しかったのだ。家に帰ったあと、両親へそのカードを見せると、厳しい審美眼を持つ父も「いいものを頂いたな」とにこりと笑った。
その時の誇らしさは今でも鮮明に思い出せる。
ロズヴィータは熱のこもった息をほうっと吐いた。
一方、ミカエルは両手を握りしめて動揺を漏らさないように必死だった。心当たりがありすぎるのだ。
ロズヴィータは覚えてないようだが、見舞いに行ったエルンストと共にミカエルもその場にいた。「明日にまた見舞いにくるよ」と簡単に約束をしたエルンストだが、きっと明日には忘れるだろうなと内心あきれていたのを覚えている。というか、ついさっき思い出した。
次の日にミカエルが見舞いに行くかと聞けば、案の定エルンストは面倒くさそうに「おまえが行ってこい」と言い放つのだから始末におえない。
約束したのはエルンストであって自分ではない。言葉を交わしたわけでもないのに屋敷へ行くのは非常にためらわれた。しかしエルンストが行けというならば、従うほかない。拒否すればあとがうるさいのだ。考えた結果、部屋の窓辺に花を置いていくという奥ゆかしい見舞いにした。
花は自分で見繕った。咲いている野花を摘むこともあれば、民家に咲いている花を一輪譲ってもらったこともある。できれば同じ花にならないようにと考えながら女の子の元へ通い、それは一週間続いた。
一日だけでいいかと頭をかすめたが、家族も友人もおらずひとりで過ごす女の子を思うと自然と足が向かう。自分の手柄にはならないとわかっていてもだ。
王都へ戻る日が迫れば、もう通えないと告げた方がいい気がした。だからカードへメッセージを書き、最後の花も束にして窓辺へ置いた。唯一の反抗として名前は書かなかった。エルンストと書けば百点満点だっただろう。でもそれは嫌だった。
ああ、あの時の女の子がロズヴィータなのか。
「……気の毒にな」
いろんな気持ちが湧いたが、同情という形におさまった。かわいそうに、王子と自分に騙されていたのだ。気まぐれに返す手紙の代筆を頼まれたこともあったので、もしかしたらその中に彼女への返事もあったかもしれない。カードにも手紙にも、エルンスト本人の気持ちは一切こもっていないのだと知ったらロズヴィータはどう思うだろう。
言葉の端々に憐憫めいたものを感じて、ロズヴィータはかっとなった。気の毒なことなど、何ひとつありはしない。しかしミカエルの痛そうな表情を見ると、振り上げた拳を下ろすしかなかった。
「寝よう。朝からさんざんな天気で疲れたよ。君に手は出さない。慈しむ気持ちがないのに女性を抱く真似など俺にはできない。だからと言ってはなんだが……横にならないか」
ロズヴィータはしばらく固まっていたが、小さく息をつくと、こくりと頷いた。
天蓋付きの大きなベッドはロズヴィータの莫大な持参金から購入したものだ。上質な白いシーツはどこまでも清潔で、手をつくと重みでわずかに沈む。先にロズヴィータがベッドに上がり、ミカエルがそれに続いた。長椅子のときと同様に端と端に体を横たえると間にたっぷりひとり分のスペースがある。なんとなく落ち着かなくて、ミカエルに背を向けたが、ミカエルはロズヴィータの方を向いているようだった。
明かりを消し、目を閉じる。横に人がいるので落ち着かない。しかし自分が思っているよりも疲れていたようで、ロズヴィータへゆっくり眠気が襲ってくる。とろとろと意識が溶け出してきたころ、ミカエルがぽつりとつぶやいた。
「妻としての敬意は払おうと思っている。愛がないからと冷遇するつもりもない。実家とも連絡を取り合って、心穏やかに過ごすといい」
それはロズヴィータが抱えていた心配を拭い去るものだった。ほっと温かいものが胸に宿る。
「……わたくしも、妻として、夫を支える準備はあります。閨事には全力で抵抗いたしますが、それ以外はよき妻として振る舞えるよう、努力します」
何も見えないけれど、ミカエルが笑った気がした。
「おやすみ」
「おやすみなさいませ」
愛を捨てろと言われなくてよかった。
無理に体を触られなくてよかった。
長年かけて積み上げてきた気持ちはそう簡単に変わってくれない。変えたいと思っても難しい。夫には自分ではない想い人がいて、自分にも別に想っている人がいる。すごく平等な気がした。不誠実だけれど、この人にはそれが赦される気がした。
目を閉じるとエルンストの笑顔が浮かぶ。
少しの悲しさを抱き、ロズヴィータは深い眠りへ落ちていった。
◇
慣例として、新婚の夫婦は三日間の共寝を強いられる。
二日目の夜は言い合いもせずにふたりとも早々にベッドへ入った。もちろん互いに端に寝転んでいて、間にはたっぷりひとり分のスペースがある。あと一日我慢すれば別室での睡眠が許されるのだ。辛抱するしかない。
ふと頭に浮かんだことがロズヴィータの口をついて出た。
「わたくしに心を預けられないのでしたら、愛人でも恋人でも作ってくださって結構ですよ」
初夜の「おまえを愛することはない」宣言は事実なのだと思っている。ロズヴィータだってそうなのだから。しかしこれから長い結婚生活を過ごす上で誰かに情が芽生えたのなら、ロズヴィータは止めはしない。それを知っておいてほしかった。
「想う人がいながら妻を迎えるだけでこんなにも心苦しいのだから、愛人など欲するわけがない」
そうだろうか。気持ちの面ではそうなのだろうけど、欲求的な面は解消されるのだろうか。妻として側にあるつもりだが、心も体も明け渡すつもりもない。その吐口が必要なのでは思ったのだけれど。
「……きみはどうなんだ。既婚者の不貞は醜聞のたぐいになるが、想う人がいて、さらに俺が構わないとなればそちらへ走るか?」
「その言葉は、あまりにも酷いですわ」
「きみが言ったのはそういう事だ。俺の心も傷ついた」
言われてぐっと息をのむ。その通りだと気がついた。ミカエルの想いを侮辱してしまったのだ。ちゃんとした謝罪が必要だと思い、向かい合わせになるようにロズヴィータはぞもぞと体を動かした。下を向いたまま口にする。
「ごめんなさい」
「……いい。俺も言葉が過ぎた」
存外、甘い響きがあった。
思わず顔をあげると、暗闇にも関わらずミカエルと視線が絡みあう。
はじめて目があったような気がした。
ミカエルはなんの感情も抱いていないような面持ちだが、そのすました瞳に吸い寄せられる。睨みあったこともあるし、目が合うこと自体は今までにも幾度となくあった。しかし、瞳の奥にある、その人自身を見た気がした。
ミカエルは無表情のまま尋ねる。
「なぜマルティナ様にあんな事をしたんだ」
聖女は、吉事をもたらす存在である。
迎え入れた家には幸福が舞い降りるとして、だいたいは高位貴族が養子にしたり妻として迎え入れる。体のいずれかに浮き出る聖印を以てして聖女と認定されるのだが、しがない男爵家の令嬢であったマルティナが聖女として認定されたのは今より三年前のことであった。
「許せなかったんです」
目を閉じると今でもあの光景が浮かび上がる。ロズヴィータは寝具のなかで拳をぎゅっと握りしめた。
「あんな、人の気持ちを踏みにじるような……」
悔しさをにじませたロズヴィータを見つめながら、ミカエルは王立記念パーティーでの一幕を記憶から呼びおこす。
華やかなパーティーの最中、聖女マルティナを平手打ちしたのがロズヴィータだった。小柄な友人を背に隠すようにしてマルティナをにらみつけ、ひどい言葉をぶつけたと聞いている。騒ぎを聞きつけエルンストと共にミカエルは聖女のもとへ駆けた。さいわい、人が少ない場所だったので大きな騒動にはならなかったが、床には小さな焼き菓子がもの言いたげに転がっていた。
聖女と認定されたマルティナは一代限りの男爵位だった親の元をはなれ、すぐに侯爵家の養子となっている。ミルクティー色の長い髪に色素のうすい神秘的な瞳が特徴的な美しい人だ。多くを語らず、穏やかにほほ笑む姿はまさに聖女とうたわれ、周囲の人たちから慕われた。王子であるエルンストが積極的に彼女へアプローチしたのはその話題性と容姿からだろう。多方面から注目されていたマルティナだが、ゆくゆくはエルンストと結ばれるのではと噂が広がっていた。
その聖女を平手打ちだ。
いくらロズヴィータが力のある豪商の娘でも、手を上げることは到底許されないだろう。その結果としてこの結婚が持ち上がったのだから、ミカエルには文句をいう権利がある。
「マルティナ様は何をされたんだ」
「聖女をお慕いするあなたには不快なお話だと思いますわ。やめておきましょう」
「君の視点から話を聞きたい」
「……あなたと、衝突したくないんです」
ぷいっとそっぽを向く妻に、ミカエルは優しくさとす。
「非難と反論はしないと約束する」
しばらくしてロズヴィータはぽつぽつと語りはじめた。
王立記念パーティーがあったあの日、同じく商家の娘である友人のゾフィーと行動を共にしていた。
聖女マルティナとは何度か顔を合わせたことがあったものの、エルンストがご執心であると耳にしていた為にロズヴィータはツンケンした態度をとっていた。それでも聖女はにこにこと接してくるので、何を考えているか理解できず苦手に思っていた。
パーティーの日も顔を合わせたくなくて避けていたのだが、そうするとエルンストを近くで見ることもできない。仕方なく館のすみに寄ってゾフィーとふたりで話していた。
「ゾフィー、その手に持ってる包みはなに?」
「ええ、まあちょっと。それよりも、今夜のエルンスト様も素敵でしたね」
ゾフィーは楚々としていて可愛らしい少女だ。ロズヴィータの快活さとは反対で、男性の目には小動物のように映るらしく、こういうパーティーではよく声をかけられていた。ふたりでいると必然的にロズヴィータが彼女の盾役となっている。
「ええ! こういう時でないとお顔を見られないから、今日ここに来られて本当に嬉しいわ」
「……もしかして、また手紙を渡そうとしてるのですか?」
「どうしてわかったの!? ああいやだわ、その、だって、もしかしたらまたお返事を、頂けるかもしれないじゃない。だから……」
ロズヴィータ自身も、報われない恋をしていると理解していた。身分が釣り合わないし、王子の伴侶に望ましい器でもない。なにより、エルンストが受け入れてくれないのだ。お会いできる機会があれば手紙を持参して手渡す。受け取ってもらえればよい方。無視される時もある。それでも諦められないのは、たった一度もらえた返事があったからだ。
「……自分でもどうかしてるって思うわ」
その時、視界のはしに誰かくるのがわかった。
聖女マルティナだった。「ごきげんよう」とにこやかに挨拶をされると、ロズヴィータは顔を引きつらせる。パーティーの為に着飾ったマルティナは美しい。そのことに嫉妬心が腹の底で暴れだす。
「……ごきげんようマルティナ様。こんな隅にいらしてどうしたのかしら」
「そんなに怖い顔をなさらないで」
するどい視線をこともなげに受け流すマルティナ。彼女がたんに穏やかな女性でないことは知っていた。どういうつもりで話しかけてきたのかは分からなかったが、突然ふたりの間に割って入る者があった。
「あ、あの!」
ゾフィーだ。
「マルティナ様、これよかったら召し上がってください。うちで仕入れている焼き菓子なんですけど、とても美味しいと評判で、その……」
耳を赤くして、もじもじとした様子で包みを差し出すゾフィー。ああ、このために持ち歩いていたのかとロズヴィータが納得していると、マルティナの表情からいっさいの笑みが消えた。
「いらないわ」
「……え?」
「いらない」
マルティナはなぜかゾフィーを拒絶した。
ロズヴィータの視界が怒りで真っ赤になった。筋違いかもしれないが、エルンストに拒絶された自分と重ねてしまったのだ。心がきしみ、悲鳴をあげる。目を潤ませ傷ついた表情をするゾフィー。震えるように「ひどい」とこぼした。
「ちょっと! そんなふうに言わなくてもいいじゃない!」
ゾフィーから包みを奪うと勢いよくマルティナへ差し出した。しかしマルティナは冷たい瞳で見下ろしたあと、その手で払いのける。宙を舞い、床に落ちると包みが開いた。中から出た小さな焼き菓子が足元に転がっていく。
「あなた、なにを……」
拒絶された憐れな焼き菓子は、ロズヴィータ自身に見えた。手を伸ばしても振り払われて自分の立場を思い知らされる。だけど諦めなんてつくはずもなく、必要とされない無様な人間は床を這って朽ちてゆけと言われたようだった。
「ロズヴィータ嬢は人を見る目がないようですね」
「なんですって……」
「エルンスト様を慕うのもどうかと思う」
パァンッと肌を打つ音が響いた。
振り下ろしたロズヴィータの手はじんじんと痛み、目の前にはマルティナが頬を手でおさえている
何も考えられなかった。怒りで頭がどうにかなりそうだった。よりによってなぜエルンストの名を出すのか。
「あやまらないわ」
「……」
「絶対にあやまるもんですか! この性悪女!」
張り裂けんばかりの言葉で、にわかに会場がざわついたのを感じた。
以上がことの顛末である。
明かりを落とした寝室にしばらく無言の空気が続いた。ミカエルは何も言わず、じっとロズヴィータを見ている。
無性に悲しくなった。ロズヴィータの目から涙があふれてくる。昨日も泣いてしまったのにと片隅で思いながらも、心をしめるのはエルンストへの想い。床に転がった焼き菓子が、後から来た人間により踏んで潰される光景が頭をかすめる。自分を見ているようだった。
必要とされない。
求められない。
見向きもされない。
あの無惨に崩れた焼き菓子は恋心そのものだ。甘くて、汚くて、ボロボロで、誰にも手に取ってもらえない。
声を押し殺すように泣いていると、何かが動く音がした。次の瞬間、頭にあたたかな重みを感じる。それはミカエルの手だった。腕を伸ばし、ロズヴィータの頭をぽんぽんと撫でた。
「つらかったな」
「……っ」
その晩、ロズヴィータは泣きながら眠った。ふたりの間には昨晩と同じだけの距離があるが、ミカエルの伸ばした手はロズヴィータの心を慰めてくれた。
ミカエルのことを好きになれたらいいのに。そう思うけれど、無理なことだと知っている。悲しいほどに心はエルンストに呪縛されているのだ。
それはミカエルも同じなのかもしれない。
ロズヴィータとミカエルは似た者同士だから。
◇
補足をすれば、とミカエルは心の中でつぶやく。
泣き疲れて眠ってしまったロズヴィータを見つめながら、あれはただの焼き菓子ではない事を思い出す。
聖女がトラブルに巻き込まれたと聞いて、エルンストと共にその場へ駆けつけたとき、すでに人だかりができていた。泣いている友人を抱きしめるロズヴィータと、冷ややかな目でそれを見るマルティナ。
エルンストが散れと言えば、みなクモの子を蹴散らしたように去っていく。エルンストはマルティナの肩を抱きその場を後にした。ミカエルに視線をよこすので、あと始末をしておけとのことだろうと察して動く。一部始終を目撃していた者からロズヴィータが無礼を働いたことは明白だったが詳しい内容は分からなかった。ロズヴィータは一向に口を開こうとしないのだ。ゾフィーは涙ながらに「わたしが悪いんです」と前置きしてぽつぽつと語ってくれたのは、贈り物をしたが拒否されてロズヴィータが怒ってくれたというものだった。
名前は知らなかったがロズヴィータの存在は知っていた。取り巻きと称されるほど王子の周りにいたのだから、突撃してくる彼女の姿を何度か見かけたことがある。少しキツい印象を持つが、エネルギーにあふれた美しい女性だ。その彼女は口をきゅっと結び、頑なにしゃべろうとはしなかった。まるで身の内から押し出ようとする激流を必死に食い止めるかのように。
あとはマルティナから話を聞く他ないと撤収しようとした時、使用人が床に散らばった焼き菓子を片付けていた。それが妙に気になって、形が崩れていないものを三つほど貰い受けてその場を去る。
エルンストと合流して話を聞くと、マルティナも一切しゃべらなかったらしい。誰かを庇っているのか、都合の悪いことだからしゃべりたくないのか。
結果的に、焼き菓子には毒が含まれていた。
持ち帰ったものを試しにネズミに食わせると、翌朝にはころっと死んでいた。マルティナはそれを知っていて拒否したのかもしれない。取りまく状況を考えて、あえてエルンストには報告しなかった。
その代わりにゾフィーの家へ贈りものをする。きれいに包装したあの焼き菓子の残りと、心尽くしの手紙だ。
目的も動機もわからない。単独行動なのか背後に誰かいるのかも不明だ。突いて出てくるものが大きければエルンストでも抑えるのは難しい。彼は王位継承をめぐって立場が少しばかり不安定なのだ。今のエルンストに毒入り菓子のことを言えば嬉々として断罪しただろう。ろくに調べもしないまま。まずは釘を刺して様子をみようと判断した。
結果、ゾフィーの家はより良い取引のために拠点を移すと言って慌ただしく隣国へ渡った。後ろめたいことであるのは確かだったのだろう。お礼と称して袋いっぱいの金貨を届けられた時はさすがに絶句したものだ。
あの時の金貨はまだ手をつけずにとってある。
経緯が経緯だけに使うのをためらっていたのだ。しかし、ロズヴィータに何か買ってやるのもいいかもしれない。ドレスでも、宝石でも、哀れな妻の心を埋めることができるのなら、安いものではないだろうか。
目を閉じて息を吐く。
憐れでみじめなのは自分も同じだ、とミカエルは思う。エルンストと結ばれるであろうマルティナ。遠くからだとしても、彼らの仲睦まじい姿を見てしまえば心は苦しい苦しいと喘ぐだろう。
唯一この気持ちを理解してくれそうなのが自分の妻なのだから泣けてくる。
明日は三日目の夜。それを越えれば、寝室を別にすることが許される。この寝室はミカエルの部屋になるのでロズヴィータを追い出す形にはなるが、それは彼女も望むところだろう。
その晩に見た夢は、マルティナに恋した場面だった。神秘的な彼女からは想像もできないほどの情熱。焦がれる気持ちは夢から覚めても消えてくれなかった。
◇
「俺のことは愛さなくていい。気持ちを返してやれないのは心苦しい。だから自分の気持ちを大事にしてくれ。結婚してたって、誰かを想う心は自由であっていいはずだ」
またもや押し込まれた寝室でミカエルはそう言った。ベッドに横になるふたりの間には、相変わらずたっぷりひとり分のスペース。
「歪な夫婦だが、理不尽な世を生き抜く共闘相手だと思えば悪くはないだろう。これからよろしく頼む」
「はい」
一拍の無言のあと、ロズヴィータがおずおずと口を開く。
「……ミカエル様は、」
ふたりの時に名前を呼ばれるのは初めてのような気がした。それにロズヴィータの方から話題を振るのも。
「マルティナ様のどこに惹かれたのですか」
心臓がいやな跳ねかたをした。心は自由だと言ったが、それを妻にさらすのはどうなのだろう。
「笑うなよ?」
念のために釘を刺しておく。ミカエルはマルティナのことが好きだが、かわいくて愛でたいというよりも、圧倒されて敬愛あるいは崇拝しているという意味合いが強い。
「ピアノがな、すごくお上手なんだ」
演奏には個性がでる。昔、ミカエルの母はそう言って幼い彼にピアノを弾いて聴かせてくれた。
マルティナの演奏はまっすぐで、力強くて、胸に訴えてくるのだ。あのふわふわと浮世離れしたマルティナのどこにそんなエネルギーがあるのか不思議だった。だからその技術に魅せられた純粋な好意と、隠された内面を暴きたいという不埒な欲求が熱くドロドロと煮込まれている。
「ピアノ……」
「ロズヴィータはピアノが弾けるのか?」
「はい、たしなむ程度ですが」
「そうか。ならいつか聞いてみたいな」
マルティナの弾いているところは見たことがない。勇気を振り絞って「あなたのピアノが聴きたい」と言えば首を横に振られ、おおいにショックを受けた。
その代わり、この日この時間にここへ来れば聞かせてあげられる。そう言ってほほ笑む彼女に全身が熱くなるのを感じた。その場所は王城の一角にあるピアノ室の前だ。城が所有するピアノはかなりの銘品らしく、高い使用料を払ってでも触らせてほしいという者がそれなりにいた。音楽家やピアノをたしなむ貴族らがそこに通い、部屋の近くを通るとよくピアノの音色が聞こえてきた。
その音色をはじめて聞いたとき、その場に縫い付けられたように体が動かなくなった。曲はおそらく『月の光』だ。まだ屋敷にピアノがあった頃、母が弾いていたのを覚えている。優しく切ない旋律の中に、うねるような情熱と技巧が散りばめられた名曲だ。ミカエルを置いてエルンストはすたすたと前へ進んでいた。早く追いかけなくてはと冷や汗をかきつつも、ピアノの音色に釘付けでどうにも動くことができない。
ふいに音が止んだ。
かちゃりと扉が開き、中から出てきたのは聖女マルティナだった。
「い、今の、ピアノ……あなたなのですか?」
ミカエルの首すじから目元まで真っ赤になっていて、上ずった声はいつもの彼らしくない。その事を恥ずかしく思いながらも実直にマルティナへ問いかけていた。
マルティナは驚いたように瞬きをしたあと、嬉しそうに目を細める。ふわふわと浮き上がった心が、突然重石をつけたみたいに落下した。甘さと痛みがともなって、渇望がある。ああ、自分は恋をしたのだ。そう彼は悟った。
「おいミカエル、何をしている! ……これはこれは、聖女ではないか。このような所でお目にかかるとはな」
エルンストの割入りに口を閉じたが、ミカエルの胸はずっと高鳴ったままだった。ああ、この方をもっと知りたい。もっと近づきたい。あの笑顔が脳に焼き付いて、朝も昼も夜も、ずっと離れなかった。
約束の日にあの場所へ近づくと、確かに彼女の音色が聞こえてきた。曲は違っているのに確信が持てるから不思議だ。全身が燃えるように熱くなって、胸が苦しくなった。
ああ、彼女といろいろと話してみたい。
ミカエルは用意していた小さな花束とメッセージを綴ったカードを扉の近くへ置いた。名前は書かず、『あなたの音色に心奪われました』の一文だけ。キザったらしいのは重々承知の上だ。
顔は熱くて、カードを持つ手が緊張で震える。こんな情けなくて恥ずかしい姿を見られてはたまらないと、ミカエルはその場を後にした。
後日、ピアノに大掛かりな補修が必要となって貸出がなくなり、それから彼女の演奏を聴く機会はぱたりと消えた。許されない想いだとわかっている。聖女を遠くから見つめ、じくじくと熱に身を焦がす毎日だった。
「あの、少しだけ自慢してもいいですか」
切なくも懐かしい記憶に浸っていると、ロズヴィータの声がした。珍しく声がはずんでいる。
「わたし、一度だけ、ピアノでエルンスト様にお褒め頂いたことがあるんです」
「……そうなのか」
珍しいこともあるなとミカエルは目を瞬いた。エルンストは芸術の類いにいっさい興味がなさそうだったが。しかしそのように女性を褒めることもあったのだろう。少しだけ見直した。
「わたくし、明日からは自分の寝室で休みます。今宵まではどうかお許しください」
「ああ」
「おやすみなさいませ」
「おやすみ」
こうして新婚夫婦の三夜が終わろうとしていた。
ロズヴィータは夜中に一度目が覚めて、夫になった男をじっとながめてみた。鼻すじが通っていて、意外と男前な顔をしていることに気づく。これがエルンスト様だったらな、とバカげた考えが過ぎり、自嘲した。
ミカエルは朝早くに目覚め、隣で眠る妻を見下ろした。薄い朝日が窓から漏れる。ロズヴィータの目尻は赤く、涙を流した跡があった。手を伸ばしてそこを撫でると、ロズヴィータのまつ毛がふるえた。
◇
宣言通り、次の日から寝室は別になった。
パートナーとして協力しよう。互いにその思いがあるので、結婚生活にそう波乱は起こらなかった。恋愛のような甘さはなくとも、信頼は寄せることができる。
ミカエルから見たロズヴィータは、立派な貴婦人であろうと努力する人だった。普段は「わたくし」と言って丁寧な言葉づかいを意識しているようだが、ふたりで話すときはもう少し砕けている。
ヨナート家の屋敷に念願のピアノがやってきたのは結婚して半年後のことだ。娘への結婚祝いにとドライス家が金にものを言わせた特注品で、ミカエルの母もたいそう喜んでいた。
「……これ、は」
恥ずかしそうにその腕前を披露したロズヴィータ。曲は『月の光』だった。
「マル、ティナ、様……? いや、そんな……まさか……」
まさかの事態にパニックに陥ったミカエルは、息をすることを忘れてその場で失神した。その後は原因不明の熱にうなされ、看病をしているロズヴィータの顔を見るなり混乱して記憶が途切れるという醜態を三日ほどさらした。
のちに聞いた話によると、ピアノの腕前を買われたロズヴィータは一時期王城のピアノ室でマルティナに指導をしていたらしい。あまり乗り気ではないマルティナに教えるのは苦労したが、弾いてみせてほしいと甘えられるとついつい奏でていたそうだ。
つまりはそういうことであって。
体調がもどっても、ミカエルはロズヴィータと徹底的に距離を置いた。気持ちの整理がつけられなかったのだ。
ロズヴィータははじめ気のせいかと思っていたが、あまりにミカエルと顔を合わせない日が続くので彼の侍従を捕まえて無理やり聞き出した。避けられているというのは少なからずショックだった。ベッドは共にせずともミカエルと良好な関係を築けていたと思っていたのだ。しかし彼女はそれで引き下がる性格でもなく、夜を待って夫の寝室に突撃した。
「ミカエル様、ご説明ください!」
勢いよく詰めよると、ミカエルは真っ赤にした顔を腕で隠した。隙間から見える目が潤んでいて、ロズヴィータの知る彼ではない。
「待ってくれロズヴィータ……お願いだから」
震える声にはいろんな感情が窺えた。尋常でない様子にしぶしぶ引き下がったものの、ロズヴィータの気持ちは全くおさまらない。こうなったら向こうが謝ってくるまでこっちも無視してやると意気込み、徹底抗戦の構えをとった。
第一次ミカエル・ロズヴィータ冷戦の勃発である。
顔を合わせるのも会話も必要最低限。態度は挙動不審。嫌われたのかとも思ったが、出先で買った土産を侍従を通して渡してくることが増えたのでそうでもなさそうだ。
まあ嫌われたところで結婚生活が終わるわけでもない。心はまだエルンストに囚われたままなので、無視されて悲しいというより、理不尽な扱いに納得がいかないという気持ちだった。
それから三ヶ月たってもふたりは冷戦状態のままだったが、ある日、健康優良児のロズヴィータが熱を出して寝込んでしまった。季節の変わり目で体調を崩したのだろうとの医師の判断でゆっくり休むことになったのだが、これに一番慌てたのがミカエルだ。
昼夜問わずなにかと理由をつけて家を留守にしていたのに、ロズヴィータが伏せったと聞いたとたん屋敷に帰り寝室へ飛び込んできたのだ。
「ロズヴィータ、大丈夫か」
寝台に横たわり、火照った体でギロリとにらむと、ミカエルは気まずそうに目を泳がせた。会ったら言ってやろうと思っていた文句が次々に浮かんでくるのだが、体がだるくてそれどころではない。
「すまない。どう顔を合わせていいのかわからなくて……きみが寝込むほど体調を悪くしたっていうのに、俺は……本当にすまない……」
「うつすといけませんから、部屋から出てください」
「ロズヴィータ……」
とぼとぼと部屋から出ていくミカエルの足音を聞きながら、ロズヴィータは胸がすっとしたのを感じた。あのミカエルが面と向かって謝ってくれたのだ。許してあげてもいい。けれど、今は体がつらいから休むことが優先だ。
ロズヴィータの熱は続き、彼女の体調を配慮してミカエルもしつこく通うことはしなかった。ただ、毎日花を送った。
庭に咲いているものを切ってもらうこともあれば、王城で見かけた花を譲ってもらうこともあった。日替わりで贈られる花に、ロズヴィータは懐かしさと切なさを胸に抱いていた。ちょうど起きている時にミカエルがやってきたので感謝の言葉を伝えると、彼はとても嬉しそうに笑った。
夫婦の和解を感じた使用人たちはこれで冷戦も終わりだなとひと心地ついたくらいだ。
体調が戻らないロズヴィータは自分の誕生日も伏せったまま迎えた。熱でもうろうとする視界に入ったのは、ベッドサイドに飾られた花。案外ミカエルはマメなのだなと感心した。まるであの時のエルンストのようだ。
ふらつく頭で上半身を起こすと、ベッドサイドに置かれたのは花だけではないと気づく。手のひらに収まるほどの小さな箱があった。指輪が入れてあるような品の良いものだ。そして傍に置かれた白いメッセージカード。
熱のためにぼんやりした視界で小箱とカードを手に取った。先に小箱のふたを開けると、中に入っていたのはやっぱり指輪だった。美しい細工と貴石。ひと目見て高価だとわかる。どうしてこんなものをと考えて、誕生日プレゼントなのかとひとりごちた。
メッセージカードを見る。
『誕生日おめでとう、ロズヴィータ。きみの幸せを願う。 ミカエル』
カードを持つ手が震えた。
息をとめて、ただただメッセージを見つめる。
これはエルンストの字だ。間違えるはずがない。
だって、だって、彼からもらったものは今でも大事に持っているし、何よりその文章の美しさと心づかいが好きで、だから会った時にそっけなくされても拒絶されても諦められなくて……
ふとよぎった可能性に、全身が震えた。
「いやーーーーっ!!」
気付けば頭を抱えて叫んでいた。ドタドタと足音が聞こえて、続き部屋のドアが開くとミカエルが焦った顔をしてこちらへ向かってくる。
「どうした!?」
声を聞いた瞬間に体中の熱が暴走する。
「こないでっ!!」
「そんな……」
泣きだしそうなミカエルを尻目に、ロズヴィータは掛布を頭からかぶった。あまりのことに体が熱くて汗が滝のように出てくる。そのおかげか、あれだけ長引いた高熱はその日のうちに下がってしまった。
具合が悪ければ寝室にこもってミカエルを避けることができるのに、体調はすっかり戻って体力がみなぎっている。とてもじゃないが部屋にこもっていられなかった。なにより頭が沸騰状態でどうにかして発散したい。
悩み抜いたロズヴィータが取った行動はひとつ。
冷静になれるまでミカエルから離れる。つまり、実家へ逃げ帰ったのだ。
こうして第二次ミカエル・ロズヴィータ冷戦が勃発することとなったのだが、一次と違うのはミカエルの態度だ。ロズヴィータがそう望むのならと身を引いており、彼女を大切に思っている様子が周囲には伝わった。
褒められたことではないと理解しつつひと月を実家で過ごすロズヴィータへ、ミカエルは手紙を書き、贈り物をよこした。
ミカエルの手紙を胸に抱いて「人の気も知らないで!」と罵るロズヴィータの頬は赤い。
ミカエルは筆もマメなようで、実家に引きこもるロズヴィータ宛てに何通も手紙を書いた。返事がなくともせっせと書いては送り届けた。ヨナート家もドライス家も過度に首を突っ込まず、ふたりをほほえましく見守っていた。
『きみの声が聞けないのは寂しいと気付いた』
『庭に新しい花が咲いたので一緒に送るよ』
『きみのピアノが忘れられない。よければ、また聞かせてほしい』
ミカエルから届く手紙を読み、ロズヴィータは泣いた。エルンストに対しあれほど渇望していたものが、いま、あふれるほど手元にあるのだ。
それから一週間後、まだまだ気持ちの整理がつかないが、ロズヴィータはミカエルの元へ帰った。もらった手紙をすべて宝物入れにしまって。
「た、ただいま、戻りました……」
「ああ、おかえり」
「あの……」
ロズヴィータは子どもの頃にもらったメッセージカードをミカエルに突き出した。恥ずかしくて視線は合わせられない。
「これはミカエル様がお書きになったんでしょうか」
「……そうだ。がっかりさせたなら、申し訳ない」
がっかりなんてしていない。そう思ってロズヴィータは首を横にふった。ただ、行き場のない、名前をつけようのない気持ちが、胸を圧迫しているだけだ。
ミカエルはこれまでとった自分の態度に妻の心象は地の底まで落ちたと思っていた。離縁を突きつけられる覚悟もしていたのに、今はただただ妻の様子に困惑している。どうしてそんな……うぶな少女のように頬を染めているのか。それに、いざ顔を合わせると体がギシギシときしみ、うまく口がまわらない。だいぶ整理がついたと思っていたのに、まだ、自分の感情に戸惑っているようだ。
「あっほら、移動で疲れただろう。……だから、ええと……」
「……すみません、荷物を整理したいので、その、またあとで」
「ああ、うん、そうだな、すまん」
ぎこちないふたりは、その後もぎこちないままだった。寝室は別々のまま。以前のように夜会にふたりで出かけたりもしたが、その雰囲気は硬くて前とまったく違う。嫌いあっているのかと言われればそうでもなく、接し方を掴み損ねているという表現が近そうだ。
ある日の晩、ロズヴィータはあわや転倒するというところでミカエルに抱きとめられた。鼻先でかちあった視線はゆっくりと近づき、気付けば唇が触れていた。ほんの一瞬触れるだけの口づけだ。にもかかわらず、互いに放心して前後不覚になったのは麦の種まきの時期だった。
親類の結婚式にお呼ばれし、滞在するお屋敷であてがわれた夫婦の部屋が当たり前のようにベッドがひとつで、何はなくとも緊張で眠れぬ夜を過ごしたのは穂が青々と育つころ。
自分が好きだったのはこの人だった、本当に好きなのはこの人なのだ、と気持ちがようやく固まった時期には、金色に輝く麦穂の刈り入れが始まろうとしていた。
それでも、ああではないこうではないと悩む日々を過ごし、ふたりは少しずつ距離を縮めていった。
新婚初夜の「愛することはない」宣言をミカエルが撤回し、謝罪をしたのが、結婚してちょうど二年の記念日。
その日の夜に、ロズヴィータはミカエルの寝室へ訪れた。
心身ともに結ばれた晩であった。
◇
聖女とエルンスト王子は結婚まであとわずかというところで急展開を迎えた。ふたりで出かけた際、馬車が川に転落して行方不明になってしまったのだ。
ミカエルは実質取り巻きをクビにされていたので、エルンストの弟であるベルトと行動を共にすることが多くなっていた。あの最低最悪だった結婚式に足を運び、祝いの言葉をくれた御仁だ。
捜索はされたが一向に見つからず、王位継承権はベルトに移った。結果的にミカエルが重用される場面が多くなり少しばかり複雑な気持ちだ。
聖女マルティナの行方も知れず、聖女がもたらすという幸福も所詮おとぎ話なのかと人々は噂する。
はたしてそうだろうか。
ミカエルは自分たちの婚姻は、マルティナがいなければ到底結ばれないものだったと今では思う。彼女がいなければ、少なくともロズヴィータは想う相手を違えたまま、悲しい日々を送っていたかも知れない。あのゾフィーだって側にいたままだっただろう。
ミカエルにとって、彼女はまさしく聖女だった。
王子も聖女も無事でいてほしいと思う。
「ミカエル、今夜の準備はもういいのかい」
「はい、妻がいろいろ手配していましたから。殿下には少しせまく感じるかもしれませんが、どうぞ楽しみにしてください」
「はは。奥方のピアノは素晴らしいと評判だから、今からわくわくするよ」
今夜はヨナート家主催のちょっとしたパーティーだ。親交のある人たちだけの小規模の集まりにしようと思っていたのだが、ミカエルやロズヴィータとお近づきになりたく参加したいという人が思いの外多く、てんやわんやになってしまった。
古き血筋を今に引きつぐミカエルは、その実直な人柄でベルトをはじめ多くの人に可愛がられた。結婚してからますます男に磨きがかかり、令嬢たちが切ない吐息をもらしているという。
ロズヴィータはその快活な性格と流行を取り入れた装いがたびたび話題となり社交界の人気者となった。また、ピアノを聴かせてほしいとあちらこちらからお呼びがかかるので、ミカエルがたいそう気を揉んでいるそうだ。
ミカエルとロズヴィータの結婚について、口さがない人々は王子に懸想し聖女をおとしめる令嬢を黙らせるため、あるいは横恋慕の取り巻きを厄介払いしたのだというだろう。
少々事情を知っている者であれば、血筋はいいが金が困窮しているヨナート家と莫大な資産を持つ豪商ドライス家をつなぐ婚姻に見えたはずだ。
しかし実際の彼らを見たのであれば。
「ただいま、ロズヴィータ」
「おかえりなさいませ」
お互いを深く愛し、求められての結婚だと断言するに違いない。
次回「記憶喪失の王子、南の島で目覚める」(大ウソ)