【187話】ゴミの下にゴミ
子供が玩具の人形を持ち上げるように領主を握った元奴隷は、背中の腕二本を羽に擬態させ、血塗られた屋敷から飛び立った。
「や、やめろ、やめてくれ、殺さないでくれ!」
月の光に晒された巨大な化け物が、鈍い輝きを放ちながら超スピードで闇夜を抜けていく。恐怖で竦み上がった領主が無様に泣き叫ぶ声が響き、村の家々の壁を反響し消えていく。
「無様だよぉ、無様だねぇ。ご主人様ぁ、もう少し楽しいことしましょうかぁ」
そういうと元奴隷は天高く一気に上昇し、木々が米粒ほどに見える高さにまで達したところで領主をぽいと捨てた。全ての恐怖に襲われ失禁した領主は、これで自分もお終いだと醜態を晒すような悲鳴を上げた。
次第に近付く地面がリアルさを演出し、子供のように暴れる領主を見下ろしてケタケタ笑った元奴隷は、落下する目前のところで拾い上げ、もはや死を覚悟して方針状態になってしまった男を長い爪に引っ掻けた。
「デッヒヒヒヒヒぃ、情けない顔じゃないのさ。たかだか落とされたぐらいでそんな大袈裟な。これからが本番なのにさ」
そういうと元奴隷は燕のように旋回し、今度はそのまま思いきり地面へ向かって玩具を投げ捨てた。領主は次こそ死ぬと覚悟したが、図らずも草原地帯の沼地に落下した。全身を打ち付けたものの、どうにか生きたまま着水し池の縁にしがみついた。
「ヒッヒヒヒ、必死、必死しゅぎぃ! おもろ、マジおもしろ、ヒッヒヒヒィヒ」
爆笑する元奴隷を気にする余裕もなく、息も絶え絶えに生い茂った草にしがみつき、どうにか逃げなければと足掻く領主は、死に物狂いで「誰かいないのか!?」と呼んだ。だがこんな場所に人などいるはずがないと思い直し、すぐに一人で逃亡することを決めた。しかしその時だった。
「あ、……兄貴?」
近くから、聞き覚えのある返答があった。
不意に顔を上げた領主は、そんなことがあるはずが、と怯えた表情で、決していてはならない肉親の姿を目で追っていた。
「なぜ、なぜお前が、こんなところにいるのだ、弟よ⁉︎」
泥と悲壮感にまみれた兄の姿を見つけた領主の弟は、慌てて腕を掴み、沼から引き上げようとした。しかし自分の背後に立っているであろう巨大な何かのプレッシャーに圧され、動きを止めるしかなかった。
「逃げろ、逃げるんだ弟よ。お前だけでもこの場を離れるんだ!」
「な~によ、勝手なこと言ってくれちゃって。ちょっとお仕置きしてただけよ」
地面を掴んでいた領主の左手を、太い爪先でチョイと押し潰した元奴隷は、痛みで悲鳴を上げる様子に、また手を叩いて喜んだ。そしてゆっくりと振り返り、目の前に立ち塞がる化け物を見上げた弟は、人の言葉を操るモンスターの迫力に気圧されるまま、為す術なく立ち尽くすだけだった。
「おひさ~、やっぱりアンタだった。クズはクズ同士、導かれる運命なのね。美しいわ♪」
グチャグチャに潰された左腕から血が吹き出していてもなお、自分の弟だけは逃がそうと覚悟を決めた領主は、痛みに堪えて池から這い上がり立ち塞がった。
元奴隷は、「美しい兄弟愛。これぞ美徳」とうっとりした様子で、真緑色で異常に発達したアゴに長い爪を引っ掻けながら、生臭い息を漏らした。
「お、お前の目的はなんだ。どうしてこんなことを!?」
意を決した領主が半ば狂乱状態で質問した。
ピタリと動きを止め、巨大すぎる顔面を二人の前に晒した元奴隷は、頭二つを今にも飲み込んでしまいそうな口をゆっくり開けながら言った。
「金。私はとあるヒューマンに金で雇われた美しい魔物。私たちみたいなのにも色々いてね、あなたたちみたいなヒューマンと共存している者もいるのよ」
「金、だと。本気で言っているのかよ」
「当然じゃない、地獄の沙汰も金次第ってね……、な~んて、本当は嘘。私はね、面白いものに興味があるの。それだけ」
「面白いって……」
「だってほら、薄汚いヒューマンが、少しずつ追い込まれ、無様に、情けなく、ゴミのようにいたぶられ死んでいく様なんて、嫌いなはずがないでしょう。目の前で最高のショーが見られるんだもの、存分に楽しまないと」
「だからって、なぜ俺たちを?!」
「えぇ〜? まさか、今さら言い逃れなんかしないわよね。私ねぇ、ゴミが、ゴミの下にゴミを置いて、へらへら楽しんでるのを見てるとね、もう我慢できないのよ。あぁ、全部燃やしたい、全部目の前で呻き、喚かせながら、じわじわと嬲りたいって衝動に襲われて我慢ができないのよぉぉ」
「なんだよ、それ……」
「純真無垢な奴隷ちゃんを身代わりにして、色々やってたじゃないのよぉ、このこの!」
全てバレていると悟った領主は、プライドもかなぐり捨てて土下座した。しかしもう片方の手も同じように潰されてしまい、顔を上げることすらできぬまま、土下座状態で地面に突っ伏した。
「そんなのいいから、別に怒ってないし。だって私は、ゴミ虫の恐怖に沈んだ顔が、……見たかっただけなんですもの」
悪魔のようなドス黒い化け物が目の前で微笑み、領主と弟の表情が、全てを諦めたように沈んでいく。
自分たちが何事もなく殺されるのだろうという未来が見えてしまい、もはや抵抗する気力すら消え失せた結果だった。
「でもさぁ、このまま二人をバブチュンするだけじゃ面白くないじゃない。ってことで、……本日はゲストを呼んでま~す」
元奴隷の言葉に、嫌な空気を察知し、領主の弟の顔が急激に曇った。その数秒後、化け物の背後から、ザッという草地を踏む音が聞こえてきた。