【183話】子ヤギの方がマシ
「相も変わらず不機嫌そうな顔をしているな」
振り返ると、そこには領主の歳の離れた弟が立っていた。
「もう少し愛嬌でもあれば、そこまで酷い扱いは受けんだろうに。奴隷は奴隷でも、他とお前とでは天と地ほどの差があろうというものよ」
健康状態を確かめるように彼女の体を上からチェックした男は、「栄養状態が悪いな」と呟きながら、胸の裏から尻の穴まで、入念に見回した。
恥ずかしがることなく、直立したまま終えるのを待っていた彼女は、動いて良いと言われるまでの間、ただ明後日の方向へ視線を向け、無言を貫いた。
「お前、今年でいくつになった。二十か、それとも三十か」
「……」
「答えろ、命令だ」
「二十、二です」
「その歳の女の裸など一目見ようものなら、普通の男ならたちまち欲情してしまいそうなものだが、お前の体を見ていても一つの感情も動かん。種族違いというのもあるだろうが、お前の場合は色気ってものがなさすぎる」
中腰のまま乾燥してカサついた唇に触れた領主の弟は、「どれ」と、しゃぶりつくように口付けし、思いきり舌を入れた。
それでも寄生虫に侵された夢遊病者のように反応なく動かない女は、舌先を噛られても、ただ空中を一点に見つめたまま無言を通すだけだった。
「ダメだな。これでは子ヤギとちちくりあっていた方が幾分かマシだ。本当に甲斐のない奴だよ、お前は」
男は飽きてしまったのか、袖に落ちていた服を投げつけ、腰を掻きながら屋敷へと帰っていった。姿が見えなくなったところで服を拾って半分だけ腕を通した女は、召使いが戻ってくるのを、何もせずに待っていた。
一時間、二時間と時は過ぎ、陽が傾き、気付けば夜が近付いていた。
いつまでも戻らない召使いのことなど忘れ、呆然と立ち尽くし、彼女は雲が晴れ、いつしか星が瞬きはじめた空を見上げた。大きく繋がった月が二つ、まるで自分の存在を誇示するかのように、赤く妖しげな光を放っていた。
「紅い月が昇る夜は、化け物が黒い悪魔を連れてくる。言うことを聞かない悪い子は、その悪魔に拐われてしまうの。だから、早く寝なさい」
誰かの言葉が浮かんで、彼女は不意に呟いた。
今すぐ自分を拐いだし、どこか別の世界へ連れてってはくれないか。たとえ相手が悪魔だったとしても、どれだけ幸せなことだろうか。
そんな空想に身を預けて目を瞑った。
乾燥した肌を生暖かい風が撫で、ざわつく草花の生臭さだけが辺りを包んでいた。
「誰か、殺してくれないかな」
「……今のは独り言か?」
微かな呟きに誰かが答えた。
夜になっても戻らない彼女の存在に気づき、領主の弟が様子を見にきたようだった。
「そんなに死にたいのか?」
男はいつも腰に着けている短剣を抜くと、剣先を彼女の頬にあてがった。しかし瞬き一つしない反応に飽きれ果て、すぐに鞘へと納めた。
「今はただの奴隷だとしても、十年後も同じとは限らない。希望を持って生きることが、そんなに苦痛かね」
黙殺する彼女を諦めて男は鎖をはずし、半分そのままになっていた服を着せ、「行くぞ」と声をかけた。無言で続く女は、爪が剥がれて膿んでしまった足を引きずりながら、老犬のように歩いた。
「俺はな、別にお前をどうこうしようなんて気はない。ただ普通に、人として、人らしい反応をみながら、ごくごくありふれた話をしたいだけだ。なのにお前ときたら、どんなことをしようと反応一つない。こっちの気にもなれ」
返事の一つもない女の態度に息を吐きながら、男は犬の散歩でもするように、要所要所で足を止めて話しかけた。しかし彼女は全てを無視し、一つの返事もしなかった。
「指の一本でも切り落とせば、お前は反応してくれるだろうか」
下から彼女の顔を確かめて反応を見た。
しかし無表情のまま一点見つめをやめない態度に無駄な抵抗かと諦め、召使いを大声で呼びつけると、彼女の頬をふにっと掴んだ。
「明日だ。また明日、次こそ命令以外でお前の口を開かせてやるよ。そしてそのうち、喜んで股を開くくらいには飼い慣らしてやる。せいぜい楽しみにしておけ」
それからも領主の弟は、タイミングを図ったように、幾度も事あるごとに現れては、突飛な行動で彼女の反応を探り続けた。何かあるわけでもなく、ある日は虫を観察してみたり、魔道具を取り出し反応を見てみたり、その都度行動は様々だった。
しかし痛みや苦痛のないその幾ばくかの時間は、彼女の中に残っていたほんの僅かな人のカケラを、少しずつ、少しずつ時間をかけ、紡いでいたのかもしれない。
「そうして私は言ってやったのだ、貴様の狂った父上の欺瞞に満ちた行動には構っていられないと。しかしそれからがさらに酷かったのだ、あいつときたら――」
「……」
「しかしその時、奴は言ったのだ。おお愚かなる民よ、それほどに愚かな選択を繰り返すなど馬鹿げている。いったいどれだけ愚かなのだと――」
「……」
「麦はいいぞ、麦と麦芽のマリアージュはこの世の全てを享受してくれる……、かと思いきや、実はそうでもない。あのにっくきステルラシベルは言った、俄かに信じ難いが――」
「……」
「そして私はこう言ったのだーー」
「……」
「こう言ってやったのだ!ーー」
「……」
「そう、こう、言って……、やったのだ」
「………………… なんて、……言ったの?」
「私は貴様の下僕ではない。貴様のベッラテームにサンサンのヤマルディは全く似合わんとな。そしたら奴は何と言ったと思う。パリッタールにカシワザキコンブはルチャラリンブル……、――え、いまなんと」
彼女が何もない村へと流れ着き、
ちょうど一年が過ぎた頃だった。
男は大いに喜び、女はほんの僅かに、少しだけ微笑んだ。
しかし人は自覚しなくてはならない。
どれだけ望んでも、ほんの先の未来が、
何事もなくやってくる保証など、
どこにもありはしないのだから――