【182話】フェアな世界
ーー 大丈夫
お前は俺たちとは違うさ。必ず一番になれるよ
優しく語りかける両親に頭を撫でられ、真ん中で嬉しそうに頷く少女が一人。
手を引かれ、スキップ混じりで歩く日暮れの街道は、穏和で、陽気で、そして笑顔が絶えなかった。
その夢を見るのは、決まって幸せな気分になった夜だった。
恐らくは彼女の肉体の奥底に眠る自衛心が、全てを正常な状態へと戻すために、仕組んだものなのかもしれない。
幸せな気分に浸った翌日は、酷く落ち込むことが多かった。彼女の心をこれ以上壊さぬように、どうにか作り上げた苦肉の策だったのだろうーー
彼女の両親は、どこにでもいる、ごくごく平凡な武器職人だった。
秀でるでもなく、劣るでもない、ごくごく普通の。
ただ一点違っていたとするならば、彼らの種族がドワーフだったということだけ。しかしそれだけで、仕事や金に困ることはなかった。
ドワーフの普通は、ヒューマンの優に値する。
それがこの世界の常識だった。
しかしそんな生まれながらの優位さなど、どこにでも存在する理不尽である。ましてやそれを生かさぬ手などなく、そうして人々は、一つの疑問も持たず、日々の生活を続けていくものだ。
「だけどな、父さんは自覚しているんだよ。父さんには特別な才能はないし、もちろん母さんだって普通の母さんだ。だけどお前は違う、きっと凄い才能を持ってる。父さんにはわかるんだ」
太陽に掲げられ、うんと大きな返事をする。しかしいつも決まって、彼女はそこで目を覚ました。
また嫌な夢を見た。
そうして彼女の気持ちはリセットされ、また新たな一日が訪れる。
酒職人という仕事にしても、それは彼女が望んで始めたものではなかった。なによりもむしろ、その仕事は、彼女に一番むいていない仕事だった。
「チャッチャと動かんか。ボケッとするな愚図め!」
もちろん、彼女自信、自覚している。
苦手なことは、忍耐と、俊敏に動くこと。
じっくりと腰を据えて、それでいてスピーディーに。
酒作りに欠かせないと叩き込まれた要素を、お世辞にも彼女は何一つ持ち合わせていなかった。
「根気よく混ぜるんだ。そうでないと端まできっちり反応が起こらねぇ。グッと腰を落として、思いきり力を込めるんだよ!」
しかしどれだけ口汚く罵られても、
体罰紛いの仕打ちを受けたとしても、
彼女は決して辞めたいと思わなかった。
なにより、彼女は酒を作るのが好きだった。
「手をかければかけるほどさ、この子たちは旨くなるっすから。これだから辞められねっすよ」
額に汗した数が増えれば増えるほど、形になり、戻ってくる。それは彼女の知るなかで、もっともフェアな世界だった。
「だってさ、やっぱりフェアじゃないもん、この世界の、基本、全部」
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彼女が七つになった春の日。
たった一夜にして、彼女の世界は一変した。
お腹一杯に頬張った満足感からか、早くに寝てしまった彼女が、そこで起こった悲劇を目撃しなかったことは、不幸にまみれた人生の中で、最も幸運なことだったのかもしれない。
枯れた井戸の底で目を覚ました彼女が見たものは、全てが消え失せた、何もない世界そのものだった。
世に云う聖戦の残り香は、見る影もなく彼女の全てを一瞬にして奪い去った。
父も、母も、仲間も、街も、何もかも。
一夜にして全てを無くした彼女に残されていたのは、あまりにも理不尽な現実だけだった。
守る者もいない幼子の行く末などしれている。
すぐに人買いに拐われ、成す術なく流れに飲み込まれた。
ある場所では労働力として、ある場所では女中として、そしてある場所では、愛玩道具として。
ドワーフの女という特殊性も重なり、この世で受けられる仕打ちは全て受けたと自負できるほど、彼女の半生は酷いものだった。いつ殺されるともしれない日々は、彼女の中に残っていたほとんどのものを壊してしまった。
楽しかったあくる日の記憶も、愛すべき者たちと過ごした日々も。そんな儚いものは、禍々しいほどに汚れた日常によって簡単に塗り替えられていった。
そうして涙すら流れなくなった頃には、既に十数年の時が過ぎていた。
奴隷として流れ流された彼女が最後に流れ着いたのは、ゼピアに程近い、今は無き小さな小さな村だった。
二束三文で手にいれたドワーフの女を魔道具生成の象徴として祭り上げた村の領主は、村を訪れる魔境目当ての冒険者たちを騙し、金を掠め取っていた。
“魔境の裾野に根を張る凄腕のドワーフがいる”
“しかもそのドワーフは女で、彼女の生み出す高ランクの魔道具は、ありとあらゆる厄災を跳ね返した”
たったそれだけのワードでも、本物を求める冒険者は、嫌というほど集まった。
「この盾に魔素無効を付与できるってのは本当なんだろうな?」
「ええ、ええですとも。ウチの優秀な職人ならば、その程度のことなど朝飯前。たったのこれだけで、物を用意いたしましょう!」
五本の指を立てた領主の使用人は、部屋の奥に座らせていた彼女の姿をちらりと客に見せ、すぐにサッと体で隠してしまう。
有能な冒険者であればあるほど、一瞬目にしただけの存在が、ドワーフの女であることを見抜いてしまう。欲をかいた冒険者たちは、たったそれだけのことでころっと騙されてしまうものだ。
金さえ受けとれば、あとはもう単純なものだった。
同じく二束三文で手にいれた奴隷を身代わりに、怒り狂った冒険者へ引き渡せばそれで終い。自分だけは簡単に逃げ仰せ、知らぬ存ぜぬを決め込むだけだった。
「まったくボロい仕事さ。こんなゴミ虫が大金に代わるというのだから、この世界もまだまだ捨てたものではないな、ハッハ!」
殴られ、蹴られで硬くなった彼女の胸を卑猥に指先で押した領主は、「まるで固まった溶岩のようだ」と馬鹿にして笑った。
無表情のまま反応一つない彼女は、枝毛だらけボサボサな頭を地面につけ、「ありがとうございます」と礼を言った。
「それにしても気味が悪い女だ。もはや五秒も見ていたくない。さっさと持ち場へ戻り、汚ならしい髪でも洗っておけバケモノめ」
そうしてまた新たなターゲットを求める日常が始まる。
いっそあの時の両親のように、自分もろとも全てを消し去ってくれやしないかと曇天の空を見上げた彼女は、首と足に繋がれた鎖を引かれ、無気力な足を引きずったまま、草花以外には何もない、汚れた溜め池へと運ばれた。
「早いとこ体を洗っておけ。またすぐに出発すると言うに決まっているんだからな」
乾燥してボロボロになった布切れを渡した召使いの男は、さっさと脱げと彼女の服を強引に剥ぎ取った。鎖に足を引っ掛け、よろけて転ぶ姿を塵でも眺めるように見下ろした男は、喉奥から無理矢理絡め取った痰を吐きつけ、ハァとため息をついた。
「ったくよぉ、俺はいつまでこんな役回りをさせられるんだ。あんな糞の役にも立たねぇ無能野郎にへーこらへーこらこき使われて、まったく散々なもんだぜ。テメェもそう思うだ、ろ!」
語尾に合わせて蹴り倒され、転がる様をせせら笑った召使いの男は、それで気がすんだのか、杭に鎖を固定してから、剥ぎ取った衣服を届かない位置に放り投げたのち、「さっさと済ませろ」と命令してその場を離れた。
恨めしく繋がれた手足を動かしてみるが、やはり鎖は外れそうになかった。
しゃがみこみ、足元に溜まった薄茶けた汚水で布を濡らすと、彼女は汚れて臭うことも気にせず顔を拭き、順に体を拭いた。
何十日も密室に監禁されたことを思えば、汚水であっても体を拭くことができるだけマシだと肋の浮いた腹を擦っていると、不意に何者かが彼女に話しかけた。
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