【127話】パンドラの箱
グギュルと異様な音がした直後、横穴から炎の束が飛び出した。
穴底を焦がすような熱の塊は、無慈悲に横穴の岩を溶かしていった。そして新しくできた空間に身体をねじ込んだドラゴンは、本来通れるはずのない細孔を破壊し、ついに誰もいない開けた空間へ一歩を踏み出した。
もともと緑色な身体が完全に赤く染まりきったドラゴンは、怒りに身を任せ、飛び上がった二人を狙うでもなく中立地点の地面を焼くように炎を放った。
前にイチルが寝転んでいた椅子や、冒険者が置いていった備品は一瞬にして溶けて消え、その様子を離れてみていたイチルは頭を抱え、「あああ」と唸った。
ドラゴンが崩した岩場の合間を追って中立地点に入ったザンダーは、完全に崩れて壊れてしまった瓦礫深淵への通路を見つめ、肩を落とした。中に閉じ込められてしまった案内人の仲間や冒険者をどう助けるかまで考えなくてはならなくなり、当事者中の当事者となってしまったザンダーの胸中は絶望に沈んでいた。
「ああ、僕はこれから一体どうすれば……」
膝を落とし途方に暮れるザンダーをよそに、いよいよ地に足がつく状態で決戦に挑んだロディアとムザイは、暴れるドラゴンの隙を突き、少しずつダメージを与えていった。ロディアの頭脳とムザイの攻撃力が合わさることで変化したパワーバランスによって、次第にドラゴンは追い込まれていった。
「いけるッ! このままコイツの息の根を完全に止める!」
「言われなくてもそのつもりよ。次ッ、左前方40度の角度へ閃光弾!」
始めはバラバラだった二人の息も、時間を追うごとピタリと重なった。鱗で反撃するドラゴンの攻撃も、もはや二人に当たるはずもない無駄玉へと変貌していた。
力なく四足をボトムの底に付いたドラゴンは、あれだけ赤かったはずの身体が、元の緑色に戻り始めていた。興奮も次第に収まり、いよいよ手も足も出なくなった二人を見上げ、逃げ場のない現状に慌てているようだった。
「そろそろフィニッシュだ。ロディア、最後はどうするつもりだ?」
「そんなの決まってるじゃない。最後は私たちの持ってる最強の魔法で決めるわよ!」
勢いのなくなった鱗と突進を躱しながら、ムザイが残り全ての魔力を右腕に集中させていく。
しかし最後の足掻きとばかりに炎を乱発したドラゴンは、狙いを定められぬよう、執拗に攻撃を繰り返した。それでも――
「無駄よ、……アナタの攻撃は、全て見切った」
ギラリとロディアの目が光り、ついにフィニッシュまでの道筋を読み切った。
体を翻し宙を待ったムザイは、炎の連打を皮一枚のところで躱しながら、一歩ずつ確実に空気の壁を蹴って接近した。
これ以上近付くなと、ドラゴンが残り魔力の全てを込めて炎を吐いた。しかしロディアによって画策された、たった一つの照明の爆発によって目の前から姿を消した二人は、事も無げに、ドラゴンの背後を奪った。
『 これで終わりだ。暴風…… 』
―― しかし、異変というものは、そんな時に起きるものである。
最後の魔法を撃ち込もうとムザイが右手を掲げた直後、世にも奇妙なことが起こった。
突然すり鉢状に広がっている頭上の空間にモヤがかかり始め、急激に空気が重くなり、魔法を撃とうとしていたムザイが躊躇するほどの高重力が辺り一帯を襲った。
全身を覆う激しい重さに、その場にいた全員の表情が泳ぐ。
当然それはドラゴンも同じで、最期を覚悟した直後の異変に、目を丸くするしかなかった。
「なんだ、急におかしな魔力が中立地点全体を包み込んで……?!」
そうムザイが言いかけた時だった。
今度は急激に重力が反転し、解き放たれたかのように全てが浮き上がり、ボトムの頭上を覆っていたモヤが一瞬にして全ての魔力を吸い上げていく。
異変を察知したイチルとザンダーは、すぐに壁を蹴り、崖を駆け上がった。しかしただのモヤだったはずの霧が魔力の壁へと変貌し、脱出を阻まれ叩き落とされてしまった。
「こ、これは……」
イチルの言葉を遮るように、ザンダーが叫んだ。
「マズい、マズいですよ、これー!」
しかし未だ事態を理解していないムザイ、ロディア、ドラゴンの三者は、身動きが取れぬまま、場に立ち尽くしていた。
ドラゴンはボトムの底で、ロディアとムザイはドラゴンの首元で、そしてイチルとザンダーは天井の結界付近で、次に起こるべく異変を見つめていた。
最初の異変は、ボトムの底で起こった。
ピキピキと音を立てた中立地点の地面が、微かな光を放ちながらひび割れ始めた。
ドラゴンはゆらりと揺れるように染み出す微かな魔力に目を奪われ、頭上の四人のことすら忘れて自分の足元を見つめた。
その隙を察し、ムザイは止めていた魔法でドラゴンを倒そうと試みた。しかし振り上げた腕を掴んだイチルは、ムザイとロディアを抱え、可能な限りの高さまで上昇した。
「なぜだ、なぜ止めるッ?!」
抵抗する二人を尻目に、ザンダーに目で合図したイチルは、その時を前に身構えた。
イチルの思惑を読み取ったザンダーも、魔力の壁近くの場所にへばりつき、すぐ動き出せるように身構えた。
「一体どうしたのよ、どうして私たちの邪魔をするの?!」
背中に担がれたロディアまでもが反論する中、弾くように地面を指さしたイチルは、らしくもない苦笑いを浮かべながら、ボソボソと伏し目がちに言った。
「……やっちまった。俺たちゃ、どうやらパンドラの箱を開けちまったようだぜ」
言葉の意味がわからず、ムザイとロディアがイチルの視線を追った。
そしてコンマ数秒後、いよいよ想定外の事態は起こった――