【118話】負け犬
ものの数時間で永遠の闇を思わせるメルカバー深淵の底に到達した二人は、一旦双竜の背を下り、また帰りもよろしくなとイチルが手を振った。ようやく解放されたと安堵した双竜は、別れを惜しむでもないのに目に涙を浮かべながら大きく翼を振った。
「さて遅くなってしまった。さっさと戻って見るもの見届けなければ。悪いがお前に構ってる暇はないからな、何もできんなら勝手に呻いていろ」
イチルは意識朦朧なロディアを肩に担ぎ、瓦礫深淵へと繋がる横穴を這いずった。壁に頭や身体をぶつけ、ざらざらな砂を浴びたロディアは、もういっそ殺してくれと顔をしかめた。
穴を抜け、瓦礫深淵の入口でロディアの両足を掴んだまま逆さ吊りになったイチルは、目を開けてみなと忠告した。ぶらんと脱力したまま微かに目を開けたロディアは、途方もなく深く続く瓦礫深淵の底の底を見つめた。
激しく泣き叫ぶモンスターの声や、横穴に反響した風の音がまるでバケモノのように聞こえてくる中でも、どこかそれが他人事のようで、全てが心地の良い子守唄のようだった。
「い~い景色だろ。ここが彼の瓦礫深淵一丁目一番地だ。このさらに奥で、今もムザイは魔石を手に入れるため戦ってる。で、時にロディアよ。……お前は何をしているんだ?」
漠然としたイチルの問いに、ロディアの視線が泳いだ。
動くこともできず宙吊りにされた自分の姿を想像したロディアは、そのあまりの無様さ加減を想像し、両の目を見開いた。
「お前まさか……、もう自分が《やるだけやった》なんて思ってないだろうな。自分はもう動けないから、代わりに誰かがやってくれる。心のどこかで、そんな甘いことを思っているんじゃないのか?」
図星を突かれ、ロディアは思わず奥歯を噛んだ。たったそれだけで全身に痛みが走ったが、それよりも自分のことが無様すぎて、瞬きすることすら忘れていた。
「ガキ二人も、ムザイも、ミアも、お前の兄も。まだ全員がそれなりに必死で戦っているぞ。なのにお前ときたら、目的の一つも達成せず無様にされるがまま。このまま最後まで寝て待つか?」
仲間のことを口にされ、さらに自分と同等であると信じて疑わなかった兄にすら遅れを取っていると聞かされれば、彼女の自尊心が傷つかないはずはない。
悔しさのあまり目に涙を溜めたロディアは、だらしなくぶら下がった身体を支えることもできず、とめどなく溢れるモノを止められなかった。
「心のどこかで格下だと思っていたお前の兄は、死物狂いで足掻き、Cランクダンジョンの主をたった一人で捻じ伏せた。だがお前はどうだ、たかだかEクラスに毛が生えた連中四人も倒せず、諦めて治療される始末だ。情けないとは思わないか?」
ロディアの心臓がドクンと跳ねた。
子供の頃からエリートで、スキルも魔法も思うがまま。天才の名を恣にしてきた自分が、一時は無能と蔑んだ兄にすら届かない現実は、この上ない屈辱的なものだった。
「俺たちダンジョンに従事する者たちは、足掻いて、足掻いて、足掻き続け、もうダメだと思っても足掻いた先にしか、新たな景色は見えてこない。そうでなければ、冒険者という崇高な名が泣く。お前は初めてウチへきた時にこう言ったな。『自分を高められる環境に身を置きたい』と。……今一度聞く、お前はそれで満足か?」
「…………じゃ、……ない」
「なんだってぇ? 聞こえねぇなぁ!」
「満足じゃ、……ない」
「だから聞こえねぇって言ってるだろタコが!」
そう言ってイチルが手を離すと、ロディアは重力にされるがまま、瓦礫深淵の底へと落ちていく。イチルが離れるにつれ、周囲を覆っていた結界が薄れ、モンスターたちの視界にロディアの姿が露わになっていく。
餌だ。
我先にと落下してくるヒューマンを見つけたモンスターたちが、翼を羽ばたかせ、ロディアへ襲いかかった。しかしイチルは、助けに入ることなく、「お前の本気を見せてみろ!」と声を荒げた。
かろうじて動く目玉だけを左右に振り、ロディアは相手の動きを観察した。しかしやはり身体は言うことを聞かず、どうすべきかを探すほかなかった。
ロディアはまず、足先から頭の天辺まで、動かせる部分を個別に探していった。指先を微かに動かすだけで酷い痛みに襲われたが、それよりも死なないための方法を探すほうが先決だった。
左足の膝下一部と腹筋近くのわずかな筋肉、そして右手の指の幾つかが微かに動くとわかり、強引に魔力を移動させた。しかし傷により断線してしまった身体の機能はそれすら許さず、ロディアの思いどおりにはいきそうもなかった。
下唇をこれでもかと噛んだロディアは、ちぎれんばかりに食いしばり、「動け!」と唸った。
血走った眼をぎょろりと向け、犬歯を剥き出しに野獣を使ったロディアは、急激に血が巡る脳を超スピードで稼働させ、左足の一部だけを操り空気の壁を蹴った。