【105話】フレア・ペトラ編その16
「え? どこってそりゃあ――」
ペトラが言いかけた時だった。
突如目を血走らせた親方は、ペトラの首根っこを掴まえ、そのまま壁に叩きつけた。
押し付けられ宙吊り状態のペトラが悶絶し暴れるも、充血した眼でペトラを睨む親方の力は増すばかりで、今にも取って食わんばかりに怒っているようだった。
「ちょ、ちょっと、なにしてるんですか、やめてください!」
慌てて駆け寄ったフレアのことも突き飛ばした親方は、「貴様だったか」と奥歯を噛み締めた。チャマルが「どうしましょう?!」と慌てふためく中、ひとり冷静なモリシンは、背中の大剣を親方の目の前に差し向けた。
「それくらいにしときな。いい大人が子供相手にちとやりすぎだ」
「黙っていろ若造。死にたくなければ今すぐ消えな」
「上等」と笑ったモリシンは、剣をそのまま親方の喉元へ突き立てた。しかし身体に巻いていた金属製の装備をそろりと伸ばした親方は、ペトラを捨て置いてから、鎖分銅のように巧みに操りモリシンの剣を弾いた。
「この狭い空間で、そんなでかいモン振り回して勝負になると思っとるのか」
「心配ご無用、こちとらジイさんの分銅にやられるほど耄碌してねぇんだ」
ニィと笑みを浮かべたモリシンは、思い切り武器を振りかぶり、天井を斬り裂きながら親方に剣を振り下ろした。しかし間際、躊躇なく割って入った影に気付き、切っ先が触れる寸前に攻撃を止めた。
「やめてください、二人とも、武器を収めてください!」
二人を止めに入ったのはフレアだった。
親方にもやめてくださいと叫んだフレアは、ペトラの手を離れて転がっていた瓶を拾い、「これはある方から預かったものです」と言葉をぶつけた。
「預かっただぁ? テメェ、どの口がそんな酔狂を」
フレアに手を伸ばす親方の腕を、モリシンが掴んで止めた。首を掴まれゴホゴホと咳き込んでいたペトラも起き上がり、「このジジイ、いきなりなにすんだ!」と親方に掴みかかった。
「ガキの言葉くらい最後まで聞いてやんのが大人ってもんだ。それとも何か、それすらできねぇ事情でも?」
「若造にゃ関係ねぇ。そいつは俺の兄ぃの品だ。百うん十年も前に無くしちまった父親の形見でね。まさかソイツを盗んだ野郎が、今頃のこのこ出てくるとはな!」
親方の右拳が顔面にヒットし、モリシンが吹き飛んだ。
近距離で武器なんか不要だと拳をゴリゴリ鳴らしながら傍らを見下ろした親方は、「マジかよ」と顔を引きつらせたペトラを次のターゲットに見定めたようだった。
「だぁぁッ、待て、待てってジジイ、待てっつっってんだろ。これはアレだ、ゴルドフって魔道具屋のジジイから預かったんだ。俺たちのもんじゃねぇって!」
威勢よく掴みかかったものの、モリシンほどの巨体を軽々殴り飛ばす一撃に尻込みし、ペトラは「ヒィィ」と頭を抱えて蹲った。
「ゴルドフぅ?」と顔を歪めた親方は、振り上げた拳もそのままに、逆の腕でペトラの後ろ首を摘んで持ち上げた。
「預かっただぁ? ……そいつぁ確かに兄ぃの名だが、テメェのようなガキがコイツを受け取る義理はねぇ。しょうもねぇ嘘つきやがって、許さねぇぞ」
首根っこを掴まれ縮み上がったペトラが頭を抱えたところで、その目の前を誰かの拳が通過した。
大股一歩で踏み込んだ拳の主は、一直線に親方の顔面をストレートで打ち抜き、今度は逆に親方を吹き飛ばした。
「不意打ちのお返しだ。チッ、口の中が切れちまったじゃねぇか、この馬鹿力め」
拳の主はモリシンだった。恐ろしい音を立てて道具の山へ突っ込んだ親方も、こんなパンチが効いてたまるかと、すぐ身を起こした。
「ちょっと、親方にお客さん?! やめてください、これ以上したらお店が壊れちゃいます!」
一瞬の膠着状態を見計らい、目を回したチャマルが飛び跳ねながら割って入った。
邪魔だとチャマルを払い怒る親方に対して、「嬢ちゃんを殴る趣味はねぇんでね」と身を引いたモリシンは、呆然と尻もちをついたペトラとフレアを背後に引き寄せた。
「どんな事情があるかは知らねぇ。が、いきなりガキを殴るのは感心しねぇな。売り子の嬢ちゃんや、その瓶が一体なんだってんだい?」
しかしチャマルにはわからず、親方と瓶を交互に見回し慌てるばかりだった。
舌打ちした親方は、チャマルを邪険に端へ寄せてから、転がっていた瓶を指先で拾い、ペトラとフレアを睨みつけた。
「こいつぁな、今から150年程前、兄ぃの工房から盗み出された俺たち兄弟に残された唯一の形見だ。兄ぃは最後まで誰にやられたか口を噤んだままだったが、盗まれたことだけは明白だった。そしてそいつが150年の時を超え、突然俺の前に現れた。年端も行かねぇテメェらが直接の犯人だとは思わねぇ。が、それじゃあ俺の気がすまねぇ。代わりに殴られてもらうぜ」
メチャクチャだなと頭を掻いたモリシンは、ならばどちらかが倒れるまで殴り合おうかと腕をまくった。しかしモリシンを押しのけて立ち塞がったフレアは、「そんなはずありません!」と声を荒げた。
「私とペトラちゃんは、数日前にこの瓶をゴルドフさんから預かりました。この森の近くにあるマリザイの街の地下室で、確かに受け取ったんです。……だけど、お使いを終えて街へ戻ったら、もうそこに街はなくて、それで……」
「数日前だぁ? 嘘はもう少し上手くつくもんだ」
しかし親方が再び殴りかかろうとした時だった。
瓶の口を摘んだ親方の指先がパチンと弾かれ、コロコロと地面を転がった。
何事だとモリシンが眉をひそめるが、瓶を持っていた親方は何かが信じられないように絶句し立ち尽くした。
「どういうことだ。瓶の口に兄ぃの術式が練り込まれている。しかもこいつぁ……」
改めて瓶を拾い、フタの細工を見つめた親方は、そこに残った魔力の残渣と、ペトラとフレアとを見比べた。
「兄ぃの術式が練られた150年前に盗まれた瓶と、そいつを開けられるガキ……? しかもそいつは、ずっと昔になくなったマリザイの街で兄ぃにコレを受け取ったと宣いやがった。偶然にしちゃあ揃いすぎてる。おいガキ、テメェらなにもんだ?」
あまりの迫力にペトラは目を背けたが、フレアはギュッと両の拳を握り、大きな声で自分自身の身の上を伝えた。
「私はゼピアでADを経営しているフレアといいます。今回どうしても魔道具を造る勉強をしたくて、無理を言ってゴルドフさんにお願いをしました。ですが、まだ話も聞いてもらえず門前払いで……。だけどその時に、この瓶をゴルドフさんに渡されました」
「魔道具造り? 悪ぃが信用できんな。あの兄ぃが、こんなどこの誰とも知れねぇガキの願いを聞き入れるわけがねぇ。誰かの口添えでもありゃあ別だがな」
「口添え?」と呟いたのはペトラだった。なんだよという顔をするモリシンの背後に隠れ、考えを巡らせたペトラは、どうにも思い出せず仕方なくフレアに尋ねた。
「犬男の野郎だ、名前はぜんっぜん思い出せねぇけど、今回のことは全部犬男の悪巧みに決まってる。フレア、犬男だ、アイツの名前を言いつけてやれ!」
「犬男?」とフレア以外の全員が目を細めた。
全員の視線がフレアに向けられるが、当のフレアも何かを誤魔化しながら「えぇと?」と目をそらした。
いつも犬男、犬男と呼んでいたが、肝心の名前が思い出せず、ぐるぐると頭を巡らせた。
「ええと、犬男の名前は。ええと、ええと、犬男……、あ、そうだ、前に一度マティスさんが名前を……、確か、イチルなんとかって」
「今度はイチル?」というチャマルの疑問符が宙に浮く中、しばしその名を反芻させた親方は、両の目を見開き「イチル」と呟いた。
そして今度は数秒たってから、態度を一変させ、大声を上げ笑い始めた。
「な、なんだよ?」
「ガッハッハッ、なるほど、そういうことか。こりゃあおかしい、笑わずにいられるか」
親方以外の全員がポカンと口を開けた。当の本人は何を思ったか殴り合って散らかった部屋の中を物色し、身体に似合わないほど大きな鞄に荷物を詰め込むと、唐突に「行くぞ」と言った。
「はぁ? おいジジイ、行くってどこに……」
「決まっているだろう。兄ぃのところへ連れて行ってやる」