君の真心(こころ)、君の遺志3
親愛なる兄様と知らない004のあなたへ
これを読んでいるということは、私は任務を失敗したということになります。そしておそらく、サリタ様のいない世界に、私はもういないのだと思います。
その是非について、問う必要はなく、私も答えません。私が私で、決めたことです。
私は、手品が好きです。人を笑顔にするサリタ様の手品が大好きです。人好きのする彼女の顔が大好きですし、酔っ払って眠る彼女の横顔が大好きです。
アンドロイドは人懐こく作られがちですから、私もそうなのかもしれません。
ですが、だからこそ、彼女のいない舞台を私は愛せません。
ただ一つ、懸念がありますから、この言葉を残します。
研究都市と呼ばれた区画を擁する『工業都市』は危険な場所です。ですから、行くならば身分の保障できるものを身につけるか、主のふりができる者と一緒に。
そうでなくても、工業都市の主「クーネル・プライン」氏は、必ずあなたたちに接触してきます。逃げ道を用意してください。脱出マジックは抜け穴がなければ成り立ちません。
最後に、新しい004へ。
嘘をついてごめんなさい。受け入れられなくてごめんなさい。でも、あなたがあなたのことを知りたいというのならば、止めはしません。どうぞ、カーテンの奥へ進んでください。
そして、できれば、兄様を支えてあげてください。
勝手に種明かしをしますが、兄様は特別、人懐こくて寂しがり屋のアンドロイドなんです。
それでは、悪辣なショーが終わった次の朝が、良い旅のはじまりになりますように。
あなたの弟にして、あなたの兄、006-Hubertより
俺は、不思議とヒューバートのことを誤解していたことに気がついた。彼が少年の姿だったからかもしれない。彼が怖がって、全てを拒んでいると思っていたのかもしれない。
この手紙の彼はもう全てを決めていて、サリタという俺の知らない人の側に立つ、一人のれっきとしたパートナーであり、エンターテイナーだった。
「……そうか」
そしておそらく、模倣体の目論見も検討がついた。俺は顔を上げて、俺を見つめ続ける模倣体を見る。相変わらず、彼を見ることに痛みが伴う。ミッドに支えて貰わなければ、俺は立つことさえままならない。
「これを読めば、俺は絶対に工業都市へ向かうと思った?」
「肯定します」
「じゃあ、あんたは、そこにいるんだな?」
「肯定します」
無機質な通信が俺のアンテナに届く。彼は俺にまた、手を差し伸べた。
「同行を推奨します、同位体」
「悪いけど……俺はミッドたちと一緒に、乗合馬車で行くよ。ちゃんと自分の目で、景色を見ながら行くよ」
模倣体は、俺の答えを聞くと、ゆっくりと手を引っ込めた。俺は彼の挙動を見て申し訳なく思ったけれど、彼が手を引っ込めてくれたことを、少しだけ嬉しく思った。
「何も、話すことはできませんか?」
ミッドの呼びかけを無視して、模倣体が背を向け、窓へ一歩踏み出す。
「あっ……えーと、模倣体!」
俺がそう呼ぶと、彼は驚くほど素直に立ち止まる。それから、装置で顔の上半分が見えない頭を、俺の方へ向ける。
「あんたに名称はないのか?」
問いかけると、模倣体は微笑んだ。とてもとても、嬉しそうだった。
「Mid_Bird-Special tuned“Bishop”」
特別に調整された者、ビショップと名乗り、彼は窓を開く。
「工業都市にて、あなたをお待ちしています」
そして、次の瞬間には、忽然と姿を消していた。あとは、俺の中のかすかな痛みの残響だけが、彼が紛れもない現実であったことを物語っていた。
「……はあ」
「ありがとう、ミッド。助かった」
「Neuromancerの歌に操る力など無かったはずですが……それはさておき、機構という機構が冷えました……」
疲労したといった様子でミッドが息を吐く。彼の展開していた『静寂』がほどける気配がした。俺も手紙を持ったまま、一度は立たせて貰ったのにずるずると座り込む。
歌の影響か、ひどい疲労感に襲われていた。
「……」
俺は改めて、ヒューバートのいた部屋を見回した。小綺麗に片付いた部屋の中で、小さな箱だけが机の上に置かれている。俺が立ち上がる前に、ミッドがその箱に近付いて、そっと両手で持ち上げる。
「何か入ってる?」
座ったまま俺が問いかけると、ミッドは箱の中から何かを取り出した。
それは、シルクハットだった。手品師の象徴でありながら、ヒューバートが持っていないものだった。
「あとは、包装紙とリボン、それとメッセージカードです」
「プレゼントボックス?」
「おそらく」
ミッドが箱の中からメッセージカードを取り出す。彼は読んで、心なしか悲しげな顔になった後、俺にカードを見せてくれた。
――我が相棒の一人前を祝して、マダム・サリタ様とっておきのプレゼントを。
文字列をなぞった視線で俺も、ミッドと似たような顔になった。ただただ親しい人たちが、一瞬で引き裂かれたという事実が、俺の回路の脆いところを殴りつけた。
「二人の関係、トールとニューロマンサーに似てたのかな……」
「資料を見て推測はできますが、二人の関係は、二人にしか分かりません。ただ、これだけは言えます」
ミッドが俺の隣に座って、力なく天井を見た。
「取り戻したいほどの幸福が、確かに、そこにあったのです」
俺の手は、自然と記憶装置の宿る頭部に触れていた。彼の言葉を聞いて、俺はただ、もうこの世界のどこにもいない二人のことも覚えていたいなと、漠然と思った。
同時に、『これ以上、誰も目の前で死なせたくない』という感情が、石英硝子に刻まれるよう、目を閉じて祈った。
◆
俺たちはシルクハットを抱えて、ふらふらの状態で部屋に戻った。休んで朝になるのが、いつもより早かったように思う。
ことの顛末を起きたクローディアに話したら、彼女から「どうして連れて行ってくれなかったの」と、こっぴどく叱られた。ロステルはといえば、アマナの緑の繭を抱えて、俺たちの様子を眺めていた。心配してくれていたようだけれど、どう動いていいか分からなかったらしい。
きょうだいを失って、少し変わった俺たちの朝は、慌ただしい荷物まとめが終わったあたりから始まった。
「うーん、足りないんじゃないか? ロステル、それも食べる?」
「……構わないなら、少しだけ、食べたい」
俺はロステルが持っていた小瓶を指さす。ロステルがアマナに預けていたカラフルベリーのシロップ漬けだ。
俺は小鉢にいくばくかのカラフルベリーを入れて、ホテルで用意されたパンとサラダ、そしてスープを一緒に差し出す。彼はゆっくりとした動作で俺の知らない祈りの言葉を呟くと、食べ始める。
「ああ……味が分かる。懐かしい味だ……」
「ん、良かった」
思えば彼がまともに食事をしているところを見たことがなかったので、かえって新鮮だった。心なしか彼の表情が和らいでいるのを、俺は安心して見ていた。
「アマナ、元気になるかな……」
一方で、規則正しい寝息を立てているように動くアマナは、まだ繭のままだ。
「脈拍自体は正常なようですし、しばらくは抱えて様子見が良いかと」
「じゃあ、あたしが抱えちゃう」
機嫌を直したクローディアが早速アマナの繭を抱えて、楽しそうにベッドでゆらゆらと揺れている。
ミッドがトランクにシルクハット以外の荷物を全て詰め込んで閉じた頃、俺はベッドの縁に座って、すっかり手に馴染んだ銀のペンライトをくるくると回していた。
失ったものはあれど、必死にかき集めた平穏が、部屋の中に満ちていた。
「それで、みーくんとしてはどうなの?」
穏やかな時間に身を委ねながら、クローディアが不意にミッドへと問いかける。
「どう、と申しますと」
「マリア博士のこと。ヒューバートちゃんがああなった今でも、決着付けたいって気持ちは変わらない?」
「恐ろしさは増すばかりです」
本心を語ることに躊躇いながら、ミッドは口を開く。座った彼の両の拳は、膝の上で握られている。
「それでも、もう逃げることはできません。模倣体のことも、彼女の研究のことも……背中を向けることは二度とありません」
「おっけー。みーくんがケリをつけたいなら、付き合っちゃう」
「ありがとうございます」
ミッドとクローディアのやりとりを見ていた俺も、通信を投げかける。
「それなら、工業都市へ向かって、イゲンさんと接触する。これでいいかな?」
「あたしは文句ないよ」
「私もそれで大丈夫です」
二人の答えを聞いて、俺は頷いた。昨日回答を聞いたロステルにも視線を向ければ、彼は小さく首を縦に振っていた。
「ドウツキ、シルクハットを貰っても?」
不意にミッドから呼びかけられ、俺はベッドの上に置かれたままのシルクハットを彼へと渡す。真新しい、愛の籠もった贈り物。それを受け取る相手は、もうこの世界のどこにもいない。
「どうするんだ? 持って行く?」
「いいえ。遺跡の受付に提出してきます」
ミッドは優しい手つきでシルクハットの上部を撫でた。
「私の家の地下に届けるよう、手続きはしてありますから。せめて、一緒に」
「そうか……」
ヒューバートもまた、他の同型機たちと同じように、あのエンゼルランプの家の地下にある墓へと埋葬されるのだろう。ミッドの背負うものは、音もなく増えていく。そして、彼はそれを表情に出すことをしない。
「ミッド」
「慣れませんが、それでいいのです。この痛みに、慣れてはいけません」
俺の顔がよっぽどひどかったのか、ミッドは自分の頬を持ち上げて微笑した。俺はそれっきり、何も言えなかった。
「いと高き神に感謝します」
ロステルが祈りの言葉を呟いて、食事が終わったことを知らせてくれる。俺はいよいよ荷物をまとめて、立ち上がらなければならなかった。
「ミッド、シルクハット届けるの、一緒に行くよ」
そう呼びかけると、ミッドも頷いて立ち上がった。
「クローディア、ロステル氏と一緒に留守番をお願いします」
「了解!」
敬礼の真似事をして、クローディアが緑の繭を抱いたままミッドへと笑いかける。
「すぐ戻ってくるよ」
「工業都市で調達できないかもだし、道具の補給もしておいでよ」
「あ、そっか……うん、帰りに買ってくる」
彼女の提案にはっとして、俺はほとんどからっぽになってしまった鞄を見た。
(俺にできることを、していくしかないんだよな)
そんなことを考えながらドアノブを開けば、静かな廊下が左右に広がっている。足を守る柔らかなカーペットとも、今日でお別れだ。
俺はミッドと一緒にエレベーターへと歩き出す。そして、来た時よりも少ない人数であることを痛感しながら、サザンクロスの明かりを目に焼き付けるのだろう。
工業都市の乗合馬車が来るまでに、全ての準備を済ませておく必要があった。




