第一歩1
薄暗い部屋の中で、ライトがやたら眩しく俺の視覚を刺激する。気が付くと、俺は修繕用のベッドに横たえられ、躯体のあっちこっちに配線を繋がれていた。体を見渡すと、いくばくか損傷は残っているものの、大きな怪我は見られない。
「目が覚めましたかぁ?」
ヴォルカースの間延びした声がした方へ向くと、もうひとつのベッドに、ミッドが目を閉じて横たわっていた。
周囲を確認する俺の視界に、ヴォルカースが入り込む。彼は俺を覗き込んで、笑いかける。
「いやぁ、あとほんのちょっとズレていたら、修繕不可能でしたよぉ。人を助ける前に、自分の心配をしてくださいねぇ」
彼は暢気に笑っているように見えるが、目はちっとも笑っていない。
「ごめん……」
俺が謝ると、やっと彼の瞳に穏やかな色が戻る。彼は俺の髪を撫でる。
「ニューロにぃとトールからもらった躯体とこころ、大事にしてくださいね」
そう言われて、俺は黙って頷く。しかし、俺には気になることがあった。あの時確かに、俺の真上に樹はあった。幹が俺に直撃して、押し潰される位置に、確かにあったのだ。しかし、俺は直撃を免れているらしい。
「なあ、俺の身体、ヴォルカースが直してくれたのか?」
俺がおずおずそう訊ねると、ヴォルカースは首を傾げた。
「確かにオーバーヒートした躯体を修理したりはしましたけど、あの樹による致命傷はなかったです」
彼の回答に、俺はますます疑問を抱く。俺が単に落下地点を見誤っていたということなのだろうか。そうではない、と回路が直感のようなものを引き出す。
はっとして視線を部屋の入り口の方に向けると、つまらなそうな顔のグリンツ氏が腕を組んで俺を睨んでいた。
ヴォルカースが肩をすくめて、俺に耳に掛ける通信端末を渡して、部屋を出ていく。
――彼らは真理を知るものであるから、運命を捻じ曲げるおそるべき力を有していた。
俺はデルヴォラアレ伝承録の言葉を思い返す。そして、あのエイの幻燈を見る間際に聞こえた、声のことも。
「……」
グリンツ氏を、俺は見つめる。だが、俺の頭が向くなり、彼は視線を合わせようとしなくなった。
「助けて、くれたのか?」
伝わることがなくても、俺は彼に問いかける。
「……。あなたに対し、言うことがあります」
長い沈黙の末、グリンツ氏はそう切り出した。俺は邪魔しないように、ただ静かに待つ。
「このホームステイはまったくろくなものではありません」
いつもの悪態と一緒に、グリンツ氏は、ため息をつく。
「市場では恥をかき、あなたを切り捨てて兄さんを助けたのに、褒められるどころか平手を貰いました。兄さんも塞ぎ込んでしまいました。挙句、どうでもいいあなたの兄を助けることになった。マシだったのは、精々、ムツアシ洗いぐらいです」
彼の自業自得なものも含まれているということは、俺は通信に出さない。
(これはもしかして、誰かを責めているんじゃなくて、自分は悪くないと言い聞かせてるだけなのか?)
何度か接触した俺は、どうにも、この言動が自己防衛の果てのものに見えてきていた。
傷つく前に傷つけて遠ざける。自分は悪くない――否、自分と兄は悪くない。そうして籠って、守るしかなかった。彼なりの防衛方法なのだ、と。
(いや……いや、この考え方は、違うな。違う)
そこまで考えて、俺はその考えをそっと回路の脇に置いた。彼の言う通りなのだ。理解した風でいてはいけない。俺たちは真に分かり合えることはない。だからこそ、実際の言葉を聞いて、意思疎通を行う必要がある。
俺は再度、今、目の前にいる彼の言動を注視する。彼が、何を伝えたいのかを知るために、冷たい罵倒の雨を抜ける。
「そもそもあなたたちrobotは、プログラム一つ弄れば変わることができるから、三日で結果が出るなどと簡単に言うのです。そんな単純なものではありません」
グリンツ氏は頭を横に振って、かつてのミッドの提案を否定する。
「たった三日で、変われるはずがないのです」
「……」
しばらくどう発言するべきか悩んだが、結局通信端末がなければ何も語れない俺はゆっくりと頷いた。
今はただひたすら、グリンツ氏が、心にわだかまった痛みを吐き出し続ける必要があると思ったからだ。
「それをあなたたちは、人の領域に土足で踏み込んできて。これだから、人の心の機微が分からないrobotは嫌いなのです」
俺をなじりながら、彼は癇癪をおこして壁をどんと拳で殴る。
「あなたもわたしの期待に応えず、森の中で野垂れ死ねばよかったものを」
グリンツ氏がうなだれる様子を、俺は見守る。
「どうしてあなたばっかり。あなたは祝福され、慈しまれ、robotの分際で人間のように振る舞っても嘲笑されない」
彼がずるずると背中を壁に押し付けながら座り、膝を抱えるのも。
「わたしはこんなにも孤独で辛いのに。地球移民に紛れられないこの髪を、どんなに呪ったことか。『影』として血濡れた道を歩く覚悟を決める時も、誰も助けてくれなかった。人に囲まれたあなたに理解されるなど、屈辱以外の何物でもありません」
彼が己の柔らかな緑の髪を掴み、眼鏡がずれるのも気にせず膝に顔を埋めるのも。俺はただ、見つめる。
「何の痛みも知らないでのうのうと生きる、あなたが嫌いです」
グリンツ氏が俺にぶつけていたのは、もう正体不明の怒りではなくなっていた。長年積み重ねた、むき出しの恐れと、劣等感と、嫉妬だった。それらは、あまりにまっすぐなかたちをしていた。
だから、俺は彼の話を聞いて、俺がぶつけたい言葉をぶつける必要があると思った。
少しだけ乱暴に、俺は通信端末を投げる。彼は潤んだ眼差しでも、寸分のずれもなく、それを受け止める。
しばらく彼はためらったが、自分の耳に端末を引っ掛ける。俺は言葉を選びながら、ゆっくりと通信を送り始める。
「それでも、俺の頭上に樹が落ちて来た時、助けてくれたのはグリンツさんなんだろう?」
「……」
「ウィリアムは無能や無力なんて言葉、使わないから」
グリンツ氏は押し黙っている。
「死ねばよかったと思ってる俺を助けた理由だけでも、せめて話してくれないか」
「……嫌だったからです」
「え……えーと、俺が死ぬのが?」
「それはうぬぼれですか?」
棘だらけのグリンツ氏の言動に怯んだ俺は、少し躯体を後ろに引いてしまう。
「ああ、違う、違う。いちいちわたしの思考が迂回するのは、あなたのせいだ、腹立たしい……!」
彼はそんな俺を見るとまた癇癪を起して歯を噛みしめ、今度は自分の緑髪をくしゃくしゃとかき混ぜる。
「あなたを助けないことによって、家で注目と叱責を受けるのが、嫌なのです」
嫌々、彼は俺に打ち明けた。
「あなたには理解できないでしょうが、わたしの心はあの家に強く縛られています。ヨルヨリも理解できず、人間にも溶け込めず、心の拠り所だった兄を助けられなかったわたしの居場所は、もうあそこだけなのです」
兄を引き合いに出した彼の声が弱まる。自嘲しながら、両手で顔を覆う。
「だから、兄さんを家に引き戻せるチャンスがあると聞いた時、わたしは喜び、それ以上に焦った。彼を、わたしの太陽を、この手で取り戻せるかもしれない。そんなの、何を犠牲にしたって」
彼は強く首を横に振る。
「でも、わたしの言葉は兄さんに届きませんでした。兄さんの魂は、あの忌々しいブローチに繋がれたまま……」
俺は、身動きひとつせず、じっと彼の言葉に耳を傾ける。彼は、一拍置いて、天井を振り仰ぐ。
「小さい頃、本を読みました。ヨルヨリは、わすれがたみの一番の友人として生まれたと。それなら、何故わたしの言葉は兄さんに届かないのかと、何度も、何度も、ああ、ああ!」
また衝動的な怒りが彼を苛んで、頭に爪を立てさせる。だが、俺は黙っている。彼は今、膨らみ切った自分の怒りと戦っている。俺は、聞き続ける。
「兄さんは兄さんです。わたしのヒーローです。だからいつかわたしの言葉も、きっと分かってくれる。そう信じれば信じるほど、わたしの言葉が届かないという痛みが、皆に愛されるあなたに理解できるわけはないのです!」
彼は拳を握りしめて、涙し、自らを嘲りながら、俺を睨む。その痛ましい表情が、俺の石英硝子に焼き付くほど、鮮烈に映る。
「大きな失敗をしたわたしを、家の者はまた冷笑するでしょう。侍女たちは勝手な話をでっちあげ、わたしを馬鹿にするでしょう。それでもあの家から見限られれば、わたしはとても生きていけない」
声を張り上げる度に、ぼろぼろと彼の紫の瞳から大粒の涙が零れる。
「例え父からパズルのピース程度にしか思われていなくとも、縋るしかない……誇りも自分も捨てて、服従して生きるしかない」
もう、俺の目の前にいるのは、理解不能で恐ろしい、攻撃的な大人ではなかった。
『家』に閉じ込められた、輪郭だけが大人の、小さな子どもだった。すべてに絶望した子どもだった。
「そんな扱いを受けてなお、父も母も、侍女さえも、恨むことひとつできない。彼らこそ自分を育ててきたもので、彼らが正しいという可能性も捨てきれないでいる」
グリンツ氏はとうとう両手で髪を掴んで、膝に顔を埋めてしまった。敵に対して迷わず針を向け、刺し殺せるであろう彼が、今はとても小さく見える。
どうして、俺に胸中を打ち明けてくれたのか。単に感情の暴走からくるものなのか、俺に何かしらの感情を抱いてくれたからなのか、結局、その根元は分からないままだ。でも、それは些細なことだ。
彼は、俺に話してくれた。それだけで、俺が通信を向けるのには十分だった。
「なあ、グリンツさん。俺たちと一緒に来ないか?」
見たこともない、びっくりした顔で、グリンツ氏は顔を上げる。しかし、すぐに俺から視線を逸らす。
「ホームステイじゃなくてさ、長い旅行をしよう。一緒に。しばらく仕事や家のことから離れないと、グリンツさんが壊れてしまう」
「……あなたのことは嫌いです」
「俺もグリンツさんのこと好きじゃないよ」
「仲良くなれるなどと思っているのですか?」
「まさか」
苦笑いして、俺は視線を逸らした彼の顔を見つめる。
「俺の思ったことを、言っていい?」
「勝手になさればよろしいでしょう」
「じゃあ言う。グリンツさんは、家に縛られていると言った。ロステルもそうだったってことで間違いないか?」
彼は嫌そうな顔をしながらも、ゆっくり頷く。俺は必死に言葉を回路から引っ張り出しながら、通信を送り続ける。
「それなら、今のロステルは絶対にグリンツさんの手を取らない」
「何が言いたいのです?」
「グリンツさんが、『家』から迎えに来た刺客だからだ」
「何を、わたしは彼の安全を思って……」
初めて俺は、彼の言葉を強く遮る。
「グリンツさんだって、本当は理解できているはずだ。『影』になろうと『次期当主』になろうと、ロステルがグリンツさんの恐れる『家』に戻ることに違いはない。ロステルを助ける手段は、多分『ファニング家』が絡んでる限り見つからない」
彼は言葉に詰まった顔をする。髪から離した拳を握りしめ、怒りの衝動を押し込んでいるように、俺には見えた。
「俺だって見たいよ。彼が元気になったところ」
「……わたしだって、見たいです」
長い、長い沈黙の後、彼は立ち上がる。くしゃくしゃになった緑の髪をほどいて、ロステルの瞳の色と同じ青いリボンで結びなおし、眼鏡を直す。目を閉じて、深呼吸をし直す。そうして、いつもの冷たい眼差しで、俺を睨む。
「でも、やっぱりわたしはあなたが嫌いです。嫌いな『アンドロイド』と一緒に行動するなど、馬鹿げています」
彼はこつこつとブーツの音を立てて、部屋の入口へ行き、扉を開いた。俺の知る、苛烈な彼に戻っていた。そのはずだった。
(……あ)
俺が目を見開いている間に、明かりが差す中、逆光になった彼は言い、扉を閉じる。
「そちらの虚弱なrobotが起きたら、話を聞きましょう。それまで、兄さんと話をしてきます」
扉は閉じられ、部屋の中は、俺と眠り続けるミッドだけになった。
グリンツ氏の背中のあったところを見ていた俺は、ふと口が開いていたことに気が付いた。口を閉じて、頬のあたりの機構が勝手に動くからと、咳払いの仕草をする。
(どうしよう。これは、嬉しい。そういう感情だ)
俺はどうしていいか分からなくて、声も出ないのに笑った。嬉しかった。できないと思っていたことが、できたのだ。
(意思疎通ができた。それに、笑った――!)
見間違うものか。彼は確かに、柔らかく笑ったのだ。泣きそうになりながら、それでも笑ってくれたのだ。




