燃える夜明け2
「この世界が魔法という新しい法則で動いているというのは君も知っているだろうね。我々が訪れる前は、真に魔法の世界であったと言って差し支えない。剣と魔法というよりは、妖精の都のような――もっと穏やかな世界だったらしい」
ヴァン氏は背もたれにゆるりと身体を預けて、語り始める。
「が、この世界には彼らの存在を揺るがす『大改訂』と呼ばれる歴史が存在する。憎悪がはびこり、最終兵器が飛び交い、戦火をもって神を焼いたというおそろしい時代だ。魔物の発生もそのあたりからとされているが、それは此度の本筋ではない」
俺は頷き、相槌を打つ。ヴァン氏はとても真剣な様子で、俺を見据えている。
「神秘の片割れである『わすれがたみ』たちは、その大改訂の折に世界のどこかへ逃亡してしまったんだよ。あるいは世界の狭間、我々に感知できぬ世界へと至ったとね……」
「だからもういないんですか?」
「ごくわずかな者を除いてね」
ヴァン氏はしばし視線を横に向けて言葉を選ぶように沈黙を取り、小さく頷いて俺に視線を戻す。
「そのわすれがたみたちを追い立てたのが、機械種だ。君たちではない方の、『よりよい文化』が好きな彼らだ。だが、この是非について論じることもまた、今の私たちがすべきことではない」
思わぬ対象が出てきて俺は驚き、軽く目を見開く。が、彼の言う通り、この場でわすれがたみや機械たちの行動が正しいのかどうかは、論じるべきではないということも理解できる。今していることは、わすれがたみの話だ。戦争の話ではない。
「わすれがたみたちは卓越した同化能力の持ち主でね。他人の力を自分に映し込んだり、他者と言葉や力を繋げることができるんだよ。逆に、他者を飲み込みすぎて、狂ってしまうことも多かったというから、彼らにとって強すぎる力であったことは間違いない……忘我の民とは、なるほど確かに彼らはそういうものだ」
ヴァン氏はそこまで言うと、片手をポケットに突っ込んで、おもむろに何かをテーブルの上に置いた。それは、ロステル氏が胸につけたブローチと寸分違わぬものだった。俺は彼が頷くのを見て、ブローチを手に取って、いろんな角度から眺めてみる。
「それはあのブローチのレプリカだ。名もないわすれがたみの至宝だよ」
「……ロステルさんがそれを使っていると?」
「正確には取り込まれている。わすれがたみたちがそうであったように、あのブローチには強大な同化能力があり、かつて交戦して取り込んだ機械種たちの兵器が山と入っているんだよ。あれに入っているのは戦の火種だ」
俺はレプリカを返しながら、沈思した。ロステル氏は思ったよりも大変なことになっているらしい。ヴァン氏は沈痛な表情で、視線を落とす。
「今や息子は『大改訂』の卵だ。破壊対象が魔物でなくなった瞬間、彼は恐るべき厄災になるだろう。それを、私は望まない」
彼は先ほどよりも鋭い眼差しで俺を見る。俺もまっすぐ相手を見る。彼の目には明確な熱がこもっている。
「だが、もしロステルが、あの戦火を御しきることができたなら。私はその可能性を君に見ている」
「俺に、ですか?」
突然の指名に、俺は戸惑う。ヴァン氏は鋭い眼光を引っ込めて、柔和な笑みを取り戻す。
「君、彼から『契約』されたね?」
「け、契約?」
ヴァン氏が何を言っているのか分からず、首をひねる。
「わすれがたみは自分の同化能力をそう表現する。君、エネルギーがからっぽになったそうだが、なぜ動けるんだい?」
「そういえば……」
驚くほど軽い身体に、確かに違和感はあった。ヴァン氏の口元はより深い笑みを形作る。
「魔物の破壊しか行わなかったと報告されてきたロステルが、君に心を動かした。あの子にはまだ正気が残っている……君はそれを教えてくれた。ありがとう」
「……」
感謝の言葉を、これほど警戒して受け取ったことはない。俺は身構える。
「今、私が欲しいのはロステルの正気、その保証だ。Neuromancer、分かるだろう?」
「俺は……!」
俺はニューロマンサーじゃないという言葉を、ぐっと堪える。今は理性的に、対応しなければならない時だからだ。
「……俺に彼の正気を取り戻させる手伝いをしろ、と?」
「できれば連れ戻して欲しいがね、その段階ではないのは君も分かるだろう?」
その笑みから、俺は打算的な商人の色を濃く感じた。
俺は考える。ヴァン氏がロステル氏の死を望んでいないことは分かった。だが、ブローチが外れて、健康な精神状態に戻るとまでは思っていないらしい。あくまでもロステル氏とブローチに対して合理的な態度を崩さないその姿勢からは、親子、という関係性をあまり感じない。ないわけではないだろうが、彼はそうした情を割り切っている節がある。
「まずは、彼が正気を取り戻すことが必要なんだよ」
「仮に、拒否した場合はどうなりますか?」
「拒否するメリットはないと思うがね。このあたり一帯は私の庭だ。私からは、君たちの安全な旅行を約束できる。平和とは、尊いものだよ」
そう、彼は俺に息子の友人になってくれと言っているのではなく、単に交渉を持ちかけているに過ぎない。俺はミッドがいないことを悔やみながら、回路にエネルギーをを走らせる。
「ロステルさんが正気を取り戻す、という点については、俺もあなたも同じ方向を見ているのは分かります」
「そうだね。その後のことについては別件として、ひとまずその解決を見て協力してはくれないかなという話さ」
「……俺個人として、彼に協力はできるかもしれません。ただ、それ以上、あなたに協力するかどうかは、俺の一存で決めるわけにはいきません」
「それで構わないよ。共通の目的がある間は、私から君たちに手を出すことをしないと約束しよう。もちろん、グリンツからもね。書面はいるかね?」
「いいえ……」
冗談めかして笑う彼の持つ杖を、俺は横目で見る。俺にはどうしても気になることがある。彼の杖だった。蝶と百合の組み合わせは、ミッドの家のステンドグラスで見たことがあった。
「失礼。話は変わりますが、一つ聞きたいことがあります」
「何だね?」
「その百合と蝶の組み合わせを、別の場所で見たことがあります。それはファニング家の印ですか?」
ヴァン氏は唸って、頬やあごのあたりを触りながら口を開いた。
「そうだといえばそうだし、違うと言えば違う。正確には百合が私のところの印、蝶が私の友人の印だ。トール君については聞くまでもないだろうが、私は彼以外にも出資していてね」
懐かしむようにゆるやかに目を閉じ、ヴァン氏は息をつく。そして、杖を自分の側に寄せて、杖の飾りを撫でる。
「名をマリア・ダンカンという。トール君とも交流があったはずだが、彼女のことを一番よく知るのはprototypeだろう。トール君と彼女のパイプ役として出向していたはずだからね」
prototypeとはミッドのことだ。彼が臆して語らなかったことに想定外の触れ方をしてしまったかもしれず、俺はどう発言すべきか困惑してしまった。その隙を見てかどうか、ヴァン氏は笑みを深くして、俺を見つめる。
「マリアはNeuromancerの超常現象を最初に捉えた秀才だった。今度、prototypeに訊ねるといいよ」
俺は自分の手のひらを見つめた。そしてその手のひらを軽く握って、ヴァン氏に向き直る。
「情報提供ありがとうございます。今回のことをミッド……プロトタイプに相談しても?」
「もちろん。良い関係になれることを期待しているよ」
ヴァン氏が頭を下げ、俺もつられて頭を下げた。そして彼が握手をしようと俺に手を伸ばしたと同時に、ドアをノックする音がした。ヴァン氏が一声かけると、中に人が一人入って来る。フードとマスクのついた黒いマントに身を包んでいて、どのような顔なのかが分からない。おそらくは、ファニング商会の『影』の一人だろう。ヴァン氏の顔が、にわかに険しくなる。
「構わないよ、彼にも聞こえるよう話したまえ」
「はっ。グリンツ様が銃を持って逃走を……」
「まったく世話の焼ける子だ。兄が絡まなければ優秀なんだがね。すまないが、私はこれで失礼するよ。次に会う時にはサンダルウッドのお香を用意しておこう」
駆け足気味に杖を掴んだヴァン氏はドアの外へ走っていく。と思いきや、一度こちらに顔を出して、手を挙げ、茶目っ気のある笑顔を見せる。
「またね、『ドウツキ』君」
彼の足音が遠くに去っていくのを確認してから、俺は椅子からずり落ちそうになるぐらい脱力して、深く深く息を吐く仕草をした。エネルギー切れの件といい、ミッドと行動している件といい、どうやら何もかも見通されているらしい。
俺は力なく椅子から立ち上がって、周囲を見回す。部屋はがらんとして、まるで魔法で騙されたか何かしたようだ。気は滅入るが、このままここで大人しくしているわけにもいかないと、俺はヴァン氏を追うように部屋を出て、階段を降り、赤いカーペット亭の何もない玄関を抜けて外に出る。緊張が残っているのか、まるで風の温度を感じない。
(帰ろう)
逃走したというグリンツ氏のことを考えれば、あまりのろのろと帰るわけにもいかないと、俺は帰り道を急ぐ。赤いカーペット亭は、もうすっかり死んでいて、俺のことなど気に掛ける者など誰もいなかった。
ヴァン・ファニング:人間の拠点、岸壁の港町を取り仕切る現当主。明確な打算のもと、ドウツキたちに援助を申し出る。




