暗躍者3
それからどれだけ時間が経過したか。俺は気配を感じて目を開く。俺にしか見えない、あの温かなジニアの花びらが目の前をかすめた、風の流れに逆らって、いくつもの花びらがどこかに流れていく。
はて、トールとニューロマンサーはいなくなってしまったのだから、もうジニアの幻覚は見えないものだと思っていたが、そうでもないらしい。手を伸ばすと、指先にかすかな花びらの冷たさを感じた。
(まだ夜か……)
朝はまだ来ていない。何やら、妙な回路のざわめきがある。腕に巻いたネクタイを撫でながら俺が視線を横に向けると、隣にいたクローディアがいない。
跳ね起きてミッドがいた方を見ると、彼はエネルギーを温存すべく、じっと目を閉じている。おそらく機能休止状態だ。ロステル氏は起きてこそいるが、相変わらず意識はぼんやりとしているようだ。体が傾いて、頬からムツアシの毛に埋まっている。
「ミッド、ミッド。クローディアがいない」
俺は申し訳ないと思いつつも、目を閉じているミッドを揺り起こす。ミッドの頭から演算の音がして、しばらくして、彼も起動する。一瞬ねぼけたような顔をしたが、彼はすぐいつもの無表情に戻る。軽く頭を振り、彼は俺を見る。
「見回りでしょうか。だとしたら、私に一言言うように感じますが……」
「散歩かな?」
「いえ、彼女はああ見えて用心深いので、やはり何も言わずに行動はしないかと」
「うーん……」
さっきの俺のように、魔物避けを見に行ったのかもしれない。戦えない俺に許可を出したということは、戦い慣れたクローディアはもっと気軽に歩くだろうからと、俺は推測した。だが、今この場で離れるのは、確かに不用心なように感じられた。
「探しに行く?」
「そうですね……単独行動は避けたいです。ドウツキ、ロステル氏の保護をお願いします。一人にはしておけませんので」
「分かった。ロステルさん、また移動するよ。大丈夫か?」
彼は身をムツアシから離すものの、それ以上の反応は相変わらずない。ブローチの中の光は、比較的大人しくなっている。彼の中は、今一体どうなっているのだろう。不安になりながらも、助け起こし、手を引く。
「あなたにも少し協力して頂きますよ」
ロステル氏の反対側の手にどうにかカンテラを握らせ、俺たちが全員立ち上がると、ムツアシも立ち上がる。その鞍に、ミッドは慣れた様子で荷物を載せる。ムツアシは、相変わらず愛嬌のある声で、ミッドに鳴き返す。
ぞろぞろと俺たちは連れ立って、クローディアを探し始める。外で眠る人々の中に、彼女はいない。
ミッドが宿の中に入ってホールを見回したが、目視できないと言った。
俺も宿の周りを一周して、警備にあたる夜駆たちの中にクローディアが紛れていないことを確認する。魔物避けのところにも、もちろんいない。
「――と、なると、魔物避けの範疇の森林、となりますね」
ミッドは森の中に躊躇なく入っていく。それが妹に対する義務感なのか、単に範囲を理解しているがゆえに恐怖を感じないからかまでは、俺には判別がつかない。
「ちょっと待っててくれるか?」
俺は何だかんだ懐っこくついてきてくれるムツアシに、待っていてもらうように通信を送るが、伝わるわけはない。なので、ムツアシの前に回って、「どうどう」と両手を胸の前に持ってきて、軽く上下させる。ムツアシは最初俺の匂いを嗅いでいたが、やがて、その場に足を畳んだ。
「ありがとう」と俺はムツアシに届かないながらも感謝し、ロステル氏の手を慎重に引く。万が一の時、ムツアシは逃げるだろうが、彼は対応ができないかもしれない。今は二人でミッドから離れないことが最優先だ。
森の中は、頼りの星明りも心もとない。足音を立てないように俺たちは森を歩き、クローディアの黒い髪と、ラインの入った銃を見つけようとする。
「……」
先に彼女の姿を見つけたのはミッドだ。素早く木陰に身を隠し、片手を挙げて、後ろにいた俺に合図をする。俺は立ち止まって、目を凝らす。
薄暗い森の向こう側に、クローディアが棒立ちの状態で佇んでいる。どこかを見回しているわけでもない。様子がおかしいことは、何となく把握できる。どうしたんだと早く問いかけたい焦燥感が、俺の爪先をつつく。
「クローディア?」
ミッドが意を決して、通信を送る。だが、反応はない。彼が一歩、木陰から出ようとする。と、同時に俺の背中に誰かの手がとんと当てられる。
「ありがとうございます。もう十分ですよ」
「えっ……」
どこかで聞いた声だと確認する前に、俺の中から急速にエネルギーが減っていくのを感じた。全身にひどい倦怠感と脱力感が走る。たまらず、当惑に目を見開いたまま膝をつき、地面にうつ伏せに倒れ込む。俺の手は、ロステル氏から離れてしまう。どうにか意識はあるが、身体が硬直でもしたかのようだ。震えて、まるで動こうとしない。
「ドウツキ……!?」
ミッドがこちらを振り向き、瞠目する。俺もどうにか視線だけでもと、やたら重い頭と眼球を動かす。
「お役御免です。ここからはわたしが兄を保護しますね」
そこに立っていたのは、手に紫の炎を灯らせた、あの緑髪の青年だった。リムの無い眼鏡の奥で、柔らかく微笑んでいる。
(ミッドが使っていた、エナジードレインか……!?)
彼が手に宿らせていた炎は、エネルギーを吸収していた、あの紫の色に酷似していた。そしてそれは、彼の瞳の色にもよく似ていた。
(違う、何だこれ、まだ、目減りしてる……!?)
俺は身震いをする。彼はすでに俺から手を離しているはずなのに、エネルギーは未だ減り続けている。
「おっと、思ったより効きすぎましたね。申し訳ありません。加減が分からないもので」
「お久しぶりですね。グリンツ氏、丁寧なご挨拶をありがとうございます」
淡々と音声を発しているが、明らかにミッドの語調は怒りを孕んでいる。
「そう言わないでください。わたしは父の願いを早め早めに叶えているだけなのです」
ミッドに睨まれた青年――グリンツ氏は、困ったように笑って、首を横に振るだけだ。ミッドは彼へ口を開く。
「あなたの目的は、ロステル氏の回収ですか」
「さすが、ミッドバード様は話が早くて助かります。兄の身の安全を確保すれば、あなたたちは用無しです」
俺は二人が話している間に、ぎこちない動きしかできない手を、ポーチへと持って行こうとする。鉛の塊になったような身体が重く、苦しくて、呼吸の仕草が早くなる。
ロステル氏は、グリンツ氏の様子をうかがうこともなく、力なく立ち尽くしていた。
(何とか、しないと……)
歯を食いしばり、俺は手を動かす。
「おや?」
だが、その手を思い切り、グリンツ氏にブーツで踏みつけられる。皮肉にも痛覚センサーはまともに稼働していて、痛みに思わず顔をしかめる。
「変なことをしないでくださいね。あなたの同型機がどうなっても知りませんよ」
グリンツ氏がぱちんと指を鳴らすと、クローディアがこちらに振り向く。だが、彼女の金の目から感情というものが感じられない。彼女は、俺に銃を向ける。これにはミッドも歯噛みして、構えかけていた書物を降ろす。
「ひとに紛れて忘れていませんでしたか? あなたたちは、データひとつ改竄すれば行動がねじ曲がる機械だということに」
「クローディアに、何をしたのです?」
ミッドはにやつくグリンツ氏に静かに問う。冷たく無機質であろうと努めている様子こそが、彼の抑えきれない焦りや怒りを際立たせている。
「一時的な行動制御を噛ませただけですよ。今はわたしの手駒です」
グリンツ氏は黒い端末を取り出し、クローディアへ視線をやった。
「でも驚きました。森の奥にいるわたしを視認して、追いかけてきたというのですから。あなたたちご兄弟は優秀でいらっしゃる」
とうとうと語る彼をよそに、俺はクローディアの方を見て、目を凝らす。彼女が銃と自分を繋いでいた接続端末に、見覚えのない小さな黒いデバイスが刺さっているのが見える。
「ミッド、あ、あれだ。クローディアの右耳の端末に、なにか……」
自分の通信にノイズが走っていることが分かる。通信を送ることもままならない。喉がひりつくような錯覚に、咳を何度もする。ミッドは一瞬こちらを見たが、再びグリンツ氏の方へ視線を移す。グリンツ氏は俺の手からブーツを退け、ロステル氏の方を向き、手を差し伸べる。
「さ、兄さん。準備が整いました。帰りましょう。わたしたち、ファニングの『影』が、あなたを迎えに来たのです」
影という単語に、ミッドが目を見開く。
「ファニング商会お抱えの諜報部隊ではないですか」
「ええ、兄を迎えに来たんですよ」
「……ファニング氏にしては迂闊ですね。こんなことをして、魔物避けの信頼を落とすとは思わなかったのでしょうか」
ぽつりとミッドが呟くと、グリンツ氏の眉が上がる。
「……ふむ。なるほど」
ミッドは彼の動作をじっと見て、ほんの数秒沈黙し、わざとらしく肩をすくめる。俺はその微細な行動の変化を疑問に思う。彼の焦りと怒りが、何か急に落ち着いたように見えたのだ。どうも、冷静さを取り戻すきっかけを得たらしい。
「基本的なことで申し訳ありません。どうしてロステル氏を回収に?」
「彼は未だ解明が進んでいない、この世界の固有種の混血です。父としても、手元に置いておきたいのです」
「手元に置きたいのは、あなたもですか?」
「当然です。これ以上、お話する理由はありませんね。さ、兄さん」
二人が話している間、俺はじっとして、かすかな星明りを頼る。星の海から木々の合間を縫って降り注ぐわずかな光と、足元に散らばる燐光に、動けるだけの力の供給を託す。供給と減少の、ギリギリのせめぎあいが躯体の中で起こっている。寒い。苦しい。俺の喉から、吐息がか細く吐き出される。
(こんな思い、させてばっかりになるのは、いや、だな)
ミッドはさっき、この苦しみを味わったのだ。そう何度も受けたい苦痛ではないことを、俺は深く深く理解する。同時に、彼にこんな痛みを味わわせてしまった罪悪感も。
(待て。待つんだ……エネルギーを効率的に、確実に使わなきゃ、ダメだ)
守られてばかりではいたくない。だからこそ、行動すべきその瞬間を、俺は耐えて、待つ。
「では、失礼します」
微睡むロステル氏を、グリンツ氏は引っ張ろうとした。
「……嫌、だ」
だが、今まで一言も口をきかなかったロステル氏が、カンテラを握りしめて彼に反論した。震え、掠れた声は、静寂の森の闇の中へと吸い込まれていった。けれど、俺とミッド、そしてグリンツ氏には、間違いなく届いている。
「大丈夫ですよ。もうあなたは跡取り戦争という、ばかげたことに付き合う必要はないのです」
一瞬驚き戸惑ったような顔をしたグリンツ氏は、すぐに首を横に振り、柔らかく、子をたしなめるように笑う。それは、俺たちに向けていた笑みとはまるで違う、心からの慈しみが込められている。俺はその笑みを俺に向けたひとを知っている。そして、その人がどうなったかも。
このままではいけないことは、部外者の俺にも何となく分かることだった。その笑みを誰かに向ける危険性に気づいていないのは、きっとグリンツ氏だけだ。
「兄さん、一緒にファニング家の『影』になりましょう。わたしがずっと側にいます。『次期当主』などという表舞台なんかに立つ必要はもうないのです」
俺は思考する。彼は。グリンツ氏は、ロステル氏の後ろをついて回っていたと、ミッドが言っていた。それはロステル氏のことが嫌いであるなら、できないことだと俺は思っている。無論、ロステル氏が彼のことを嫌っていてもまた、できないことだと思ってもいる。
二人はきっと、本来は仲の良い兄弟なのだろう。だが、今は決定的に立場が違っているようにも見える。俺はその二人の間にある息苦しい違和感を、見定めようとする。
「厳しい訓練もありますが、何でもできる兄さんならきっと大丈夫です」
優しくたしなめるグリンツ氏に対し、かすかにロステル氏が唸り、怯んだような表情を見せる。ブローチの中の炎の勢いが、にわかに強くなる。彼の足元から波紋のように、かすかな熱の輪が巻き起こり、倒れたままの俺の躯体を撫でていく。
「怖がることなんてないですよ。兄さんは、いつだってわたしの自慢の兄さんなんですから。もう絶対こんなみじめな思いはさせません」
彼の言葉の何かに反応するように、炎は強まっていく。彼の足元から、おぞましい火の脈動を感じる。例えなどではない熱を帯びた緊張感が、じわじわとその存在を強めていく。
「グリンツ氏」
「口を挟まないでください。これは、わたしと兄の話です。そうでしょう、兄さん」
「今のあなたは冷静ではありません。ロステル氏は――」
「あなたに一体兄の何が分かるというのですか!」
ミッドがさらに言葉を続けようとすると、グリンツ氏は急に顔色を変えて怒鳴った。
彼の怒声に反応したか、クローディアがミッドに向けて銃を構え直した。
グリンツ氏の過敏すぎる反応が、俺にはぞっとするものに感じられた。
「兄は優秀な人なんです。こんなところで、日雇いの夜駆の真似事などせずともよい人なのです。たかが地球移民のかたちをした調度品のあなたに何が分かる――」
「ええ、理解できません。ですから、あなたと対話を行おうと試みているのです」
ミッドは自分が人間でないことをいつものように受け入れて、グリンツ氏の言葉を引き出そうとする。
「あなたは嫌だと言ったものを、無理矢理連れて行くことに意味があるとおっしゃっているのですよ」
「無理矢理ではありません。兄さんは少し混乱しているだけです。じきにいつものように理解してくれます!」
兄のことになると、グリンツ氏は驚くほどあっさり冷静さを欠く。俺はその変貌ぶりに驚きながら、やっとその違和感の正体を掴む。
(……ああ。そうか。これは、あの子と……イデアーレと、同じだ)
かつて、俺を破壊して、頭部に収まった石英硝子の記憶装置を取り出そうとした少女と同じだ。グリンツ氏は、ロステル氏の中に自分の理想を投げかけ続けているのだ。目の前にいる、怯えた、判断さえままならぬ彼を前にしてなお。
望まぬ評価。期待。それは自我を持つものなら、息苦しいことのはずだ。「私は人間になりたいとも思いません」と言っていたミッドが、人のようだと評価されることを厭うように。
(事情は、分からないけど。このままじゃ、ダメだ)
兄に対して狂信の類を抱えているように見えるグリンツ氏の事情までは、まだ理解できない。けれど、やっぱり俺は、ロステル氏をこのままにしておくことはできないと、もう一度タイミングを探る。慎重に、慎重に、緩慢にしか動かない手をポーチへと動かす。彼がこちらから視線を外し、ミッドに対して注目し、憤慨している今がチャンスだ。
「……っ」
しかしどれを取る。ナイフか。ダメだ。この体勢から扱える技術は俺にはない。ペンライトか。違う。彼はこの程度の光では怯んでくれないだろう。バッテリーか。否、装着までの手数が多すぎる。
ならばと、俺が選んだのは最後の信号弾だ。筒に手が届く。指で紐を確認して握りしめる。残ったエネルギーを、その一瞬の駆動に賭ける。
「随分とロステル氏を大切になさっているのですね」
「当たり前でしょう」
「でも、ロステル氏の意見を聞かないのですね」
「……あなたと話すのはだから嫌いなのです。元は地球移民の連れてきた奴隷のくせに聞き分けのない」
「それは失礼しました」
ミッドは肩をすくめる。彼はグリンツ氏の怒りと注目をうまく集めてくれている。暴言に対しても、表情はまるで微動だにしない。
何しろ話は終わりだと言われたのに、彼はまだ話を続ける気でいる。彼はグリンツ氏という存在を、あまり脅威に思っていないらしい。
「ああ、そうでした。グリンツ氏、ロステル氏の名誉を守るために、もう一つお聞きしたいのですが」
「……何でしょうか」
ロステル氏の名誉という単語に、グリンツ氏がぴくりと動いた。彼は口を開いてしまった。
俺は無表情なミッドが笑ったように見えた。「つかまえた」と。
グリンツ・ファニング:人類の拠点、岸壁の港町を取り仕切るファニング紹介の諜報部隊『影』に所属する。ファニング兄弟の中では二番目にあたる。その憧れと依存が、兄の首を絞める。