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暗躍者1

 佇むテーブル亭の部屋までは、他の夜駆たちと合流できたこともあって、どうにかこうにかたどり着くことができた。

 クローディアはミッドを、俺はロステル氏を、それぞれカプセルとベッドに横たえる。ミッドをケーブルでカプセルと繋ぎ、彼女は近くの椅子に座って頬杖をつく。俺は俺で、ロステル氏を横たわらせたベッドのへりに腰かけて、猫背がちになりながら指を組む。

 手当てはクローディアに手伝ってもらった。幸いにして、見た目よりはマシな状態であるらしい。俺は見よう見まねで手伝っただけだ。


「みーくんは力の出しすぎ。貧血みたいなものだから、休ませてあげればいつものみーくんに戻るよ。そっちは?」

「分からない……ただ、触った時に自分を責める気持ちと、魔物に対する強い殺意を感じた……ブローチが何か、彼のこころに作用しているのかもしれない」


 横たえたロステル氏の胸元から、俺はブローチを取ろうとした。しかし、ごうと炎が唸って、俺の手を焼き払おうとした。慌てて手を引っ込め、もう一度だけ試して同じ結果が出たのを見て、俺は彼からブローチを引き離すのは無理だと悟る。


「それ、魔法の道具かもね。しかもよくない方のやつ」


 クローディアの言葉を聞いて、俺はもう一度ブローチに視線を落とした。まるい金細工のフレームで縁取られた、真っ赤な宝石のブローチだ。中心部で彩度の高い橙の焔が渦巻いている。

 恐ろしくもあったが、美しくもあった。妖しい、人を引き付ける光だった。

 長く見ていると取り込まれてしまいそうな気になって、俺はクローディアの方を向く。カメラアイの奥に、まだ炎のあとが残っている。俺は外に追い出すように目をこする。


「ドウツキちゃん、これからどうする?」

「俺は針を置きに行くついでに一回ホールに降りるよ。他の夜駆や旅人たちの話を聞いてくるつもり」


 黒い針をポーチから取り出してみる。針は曲がってしまっている。元の形に戻そうとしても、戻すことはできない。


「なんかドウツキちゃんも落ち着かないね?」


 ふと、柔らかな声色でクローディアが笑った。


「そうだなあ、ちょっと悩んでいるのかもしれない」


 俺は立ち上がり、右手の人差し指を曲げて口元に寄せる。トール譲りの思案の仕草だ。


「俺は確かにできることをした。でも、ミッドみたいに魔法が使えるわけでも、クローディアみたいに銃が使えるわけでもないって、思うから。そういうのって、その、覚えたりできるのか?」

「そもそも、特別な動作のインストールは、お医者さんと相談してやることだよ。勝手にやったら、あたしたちは壊れちゃう。こころも、からだも」


 伏し目がちになって、彼女は銃身を撫でた。彼女は躯体をすっかり変えてしまったし、より医者と接する必要があるのだろう。


「ままならないなあ、アンドロイド」

「そんなほいほい強くなれるもんでないの」


 釈然としない顔でがしがしと髪を掻く俺に、クローディアはへらへらと笑みを浮かべた。


「だからこそまあ、地に足つけた情報収集っていうのは、今できる君の仕事なんじゃないかなって思うよ」


 銃を抱いたまま、彼女は俺を見て、もう一度にっこりと笑いかけた。それだけで、俺は元気になれた。


「みーくんには説明しておくから、行っておいで。何かあったら信号弾使ってね」

「ありがとう、クローディア」

「健闘を祈る!」


 彼女が額に指を揃えて当てたのを見て、俺もその仕草を真似し、部屋を出る。

 木製の廊下を進み、階段を降りると人がごった返していた。赤いカーペット亭から無事に逃れたもの、キャンプ場から避難したもの、それらが今にも上の階層に殺到しそうな圧を持って、俺を出迎える。俺はめまいがするほどの人込みを抜けて、カウンターへ向かう。


「ああ、あんたはクローディアちゃんのとこの」


 階段を降りてすぐ、女将さんが俺に気づいてくれた。俺は頷いて、落ちていた針を差し出す。落としものかと聞かれて、もう一度首を縦に振る。すると、彼女は首を傾げる。


「変だね、さっきも針の落とし物が届いたんだよ」


 その言葉に、俺も首を傾げた。誰かが雑に道具を使っているのだろうか。答えは出ないが、無事に道具を預けることはできた。

 カウンターの中央からずれたところに立って、俺は聞き耳を立てはじめる。最初は怖いだとか不安だとかの声ばかり拾っていたが、じっと声を聞くことに専念していると、徐々に音の長い、俺にとって意味のあるものを拾えるようになってくる。


 ――宿屋の中でオークが沸いた。死傷者は多数。


 やはり赤いカーペット亭では多数の死者が出たようである。犠牲者の調査は翌朝以降になる、とのこと。


 ――魔物が魔物避けを壊すことはあり得るか?


 そういえば、魔物避けが消えた理由は何だろうか。単なる事故にしては、二つも一度に消えるというのは考えにくい。


(人為的だとか? ……まさか)


 もしもそうだったとして、人を、同族を危険に晒すことに何の意味があるのだろうか。


 ――この宿場町に砲撃手が来ているらしい。

 ――まじかよ! 巻き込まれるのはごめんだぜ!


 ロステル氏は今、ベッドで眠っている。彼がどうしてここに一人でいるのかについては、ミッドも謎に思っている。


 ――そういえば妙な影を見たんだ。オークでもグレムリンでもなかった。


 俺はその声に集中する。話しているのは武器に砂をつけた夜駆の集団だった。そのうちの一人が、怯えた様子で話している。


「おれたちと何ら変わりない人型の影だよ。それが魔物避けの灯りの前にいたんだよ、本当だよ」

「人が魔物避けの灯りを消したってのか?」

「人が灯りを消すもんか。新種の魔物なら大ごとだぞ」


 どうやら、魔物避けの側で人影を見たらしい。今しがた「まさか」と一蹴したことが、蘇って回路の中に戻ってくる。だが、どうしても俺にはここまでの人を巻き込んでまで、魔物避けの灯りを消すメリットが考えつかない。


 ――他の魔物避けには警備がついている。大丈夫だ。


 他の魔物避けについては夜駆たちが交代で見張りをしているようだ。おそらく、これ以上灯りが消えることはなさそうだと理解して、ほっとする。

 戦えるものたちはあれこれと決定的証拠のない状況を推測して、それぞれが起こってもいいように対策を練ろうとしているようだ。俺はその様子を聞きながら、今までの情報を軽く頭の中でまとめておく。

 一通りの情報を得て立ち去ろうとしたところで、俺は玄関のドアがやけにゆっくり開いたことに気が付いた。どうやら夜駆か、旅人の一人が、そろりと外へ出たようだ。他の誰かが気づいている様子はない。


「……」


 ちらと迷いが生じる。ここは魔物避けの灯りの範囲内だ。外に出たところで問題はないだろう。しかし、クローディアたちと離れてもいいものか。


(信じてくれている証拠、なんだよな)


 俺は貰った信号弾を、ポーチ越しに撫でた。彼女は何かあったら、これを使えと言っていた。つまり、ある程度、俺が行動する前提で彼女は考えてくれている。

 覚悟を決めた俺はゆっくりと信号弾をひとつ、ポケットに入れなおして、玄関の扉を押し、外へ出た。

 砂塵の香りが混じる涼しい風が足元を駆け抜けていく。

 左右を見回す。件の人影は、宿の正面から側面へと曲がっていく。その黒いマントの端を見た俺は、その後をつけていく。同じように角を曲がって、一歩踏み出す。ところが、すぐ側にいるはずの影はどこにもいない。

 もう一度、左右を見回し、数歩進む。やはり、誰もいない。気のせいだったのだろうか。

 そう思う俺の背後に、すとんと軽い着地音がした。一瞬、時間が止まったように静かになる。回路が停止したような錯覚を受ける。


「!」


 俺は慌てて銀のかかとを鳴らして、振り向かず前に飛び出して間合いを取る。ポケットから信号弾を抜き、紐に手を掛けて振り返る。頭まですっぽりマントを羽織った長身の人影が、俺を見ている。


「ミッドバード様のお連れ様ですね。一人で夜を出歩いてはならないと、忠告を受けませんでしたか?」


 若い男性の声だ。星明りに、リムのない眼鏡が光っている。その奥にある紫に光る瞳は、俺をまっすぐ見据えている。

 だったらどうするんだと、俺は言葉を出せない代わりに紐にわずかに力を入れる。彼は、憶することなく言葉を続ける。


「まもなく佇むテーブル亭の魔物避けが消灯されます。ミッドバード様と走る椅子亭へ向かってください」


 彼は軽やかな跳躍で近くの樹へ跳ぶ。その拍子に、彼の髪を覆っていたマントが外れる。

 地球移民にはない、鮮やかな緑色の髪だった。細い尻尾のように結わえられた髪をなびかせて、彼は俺を見下ろしている。


「魔物が沈静化できるまで、それだけで結構です。兄さんを、ロステル・ファニングをお願いします。彼に傷などつけぬように」

(えっ?)


 俺がその言葉の真意を追い求めるより早く、緑髪の男はその場から木々へと跳び去った。


(今の人、ロステルさんの知り合いか? いや、今の情報、共有しないと……!)


 しばらく茫然とその後ろ姿を見送っていた俺はやっと、空に向けて信号弾を向け、紐を引いた。白く輝く光の弾が、空高く打ち上げられる。

 ややあって、何事かと近づいて来た夜駆たちに紛れ、クローディアが駆けつける。


「ドウツキちゃん!」

「クローディア、さっき緑の髪した男の人が、もうすぐここの魔物避けが消灯されるって……!」

「緑の髪だって……桃色じゃなくて?」


 俺の頷きに、一瞬、彼女の眉がひそめられる。しかし、彼女は首を横に振って、強く頷く。夜駆たちが警備に当たっているというのに、本当だろうか。


「とにかく分かった。女将さんに連絡するね。みーくんも起きてるはずだから、迎えに行ってあげて。あたしが夜駆たちに伝達しておくから」


 俺はクローディアの指示に従って、急いで宿の玄関を開け、足音にも気遣わずにホールを抜けて二階の部屋へと駆け抜けた。


「ミッド!」

「ドウツキ……すみません」


 ドアを開けるとカプセルから身を起こしたミッドが、驚いた顔をしてこちらを見て、心なしか落ち込んだように頭を垂れる。俺は首を横に振って、カプセルから出られるように手を差し出す。


「こっちは大丈夫。ミッドはもう平気か?」

「ええ、おかげ様で良好です」

「それなら良かった。なあ、ミッド。少し聞きたいことがあるんだけど……」


 ミッドを助け起こしながら、俺が先の緑髪の青年に言われたことを話すと、彼は軽く目を見開いて、沈黙した。それから口元に手をやって、真剣な面持ちで思考を巡らせ始める。彼の頭から演算の音が聞こえる。


「緑の髪で、リムのない眼鏡、紫に光る瞳をした、ロステル氏の関係者……ですか」

「心当たりがあるのか?」

「ロステル氏の異母兄弟の特徴と一致します」


 ミッドはいつもの本を持ちながら、眠るロステル氏に視線を移す。本の裏表紙からケーブルを引っ張り、自分の端末に接続し、自身のトランクを持つ。俺もクローディアの分の荷物を持って、逃走の準備をする。


「おそらく、第二子のグリンツ・ファニング氏です。ロステル氏とは年も近く、よく彼の後ろについて回っていたことを記憶しています。ロステル氏が跡取り戦争に巻き込まれたのなら、彼も彼で巻き込まれているはずなのですが……」


 首を捻るミッドの言っていることは気がかりだが、あまり時間がないだろうということは俺でも想像がつく。問題はロステル氏だ。


「このまま寝かせておくわけにも行かないし、起きてくれるかな……おーい、ロステルさん、ロステルさん」


 聞こえないのは分かっていても、ついつい通信を出しながら昏々と眠り続ける彼の身体を揺り起こしてしまう。そのうち、彼は身じろぎをして、目を開ける。だが、その瞳は今一つ現実を捉えているようには見えない。夢見心地の彼を至近距離で覗き込むが、反応もない。


「ロステル氏、聞こえますか? 今から、移動します。立てますか?」


 ミッドの問いかけに、のろのろと彼は緩慢な動作でベッドから降り、立ち上がる。だがそれだけだ。先の鬼気迫る眼光も、今はすっかり夢の奥底に沈んでしまっているようだった。瞳の中で燃え盛っていた炎の輪も、今は見えない。


「この状態で騒ぎになるのは困りますね。少しご辛抱を」


 ロステル氏が一目で人の恐れる砲撃手と発覚することを懸念して、ミッドはトランクから薄手のマントを取り出し、彼の桃色の髪を隠した。俺はそっと、彼の手袋に包まれた手を握る。手袋越しに、生命体特有の熱を感じる。ああ、生きている。


「……行こう」


 試しに手を引けば、彼はついてきてくれるようだった。俺は彼の手を痛めないよう引っ張りながら、クローディアの荷物を持ち、ミッドと共に部屋を出る。

 その瞬間、ふっと周囲が薄暗くなった。グリンツ氏の予告通り、魔物避けの灯りが消えたのだ。通路の奥から、白い砂の塊が沸き上がるのが見える。それはたちまちのうちに子どもより小さい形を成して、群れを造り、大きく扁平な足で徘徊し始める。

 あちこちの部屋から、荷物を抱えた旅人が出てくる。俺たちは彼らの先陣を切るように、階段を駆け下りる。


「こんな早く沸くのか……!」

「急ぎましょう」

「おーい、みーくん! ドウツキちゃん! こっちこっち!」


 ミッドに先導してもらいながら、俺は手を繋いだまま外へ出る。外で、夜駆たちと話をしていたクローディアが俺たちを待っていた。俺は彼女に荷物を渡して、避難する人々の列についていく。

 ともかく佇むテーブル亭の灯りが消えた以上、戦えないものを中央に置き、夜駆や戦える旅人たちが周囲を守るという方法で、走る椅子亭へと向かわざるを得ないという話になっていた。


「何だかすっかりおおごとだね」

「……」

「みーくん?」

「ああ、いえ。失礼しました。少し考え事をしていました。行きましょう」


 そんなことを話すミッドとクローディアが集団の側面に、微睡むロステル氏と手を繋いでいる俺は、二人の内側に並ぶ。そして、俺はもう片方の手にペンライトを持つ。光を当てれば、グレムリンを怯ませることができるのは、かつての機械の街で確認済みだ。


「出発するぞ!」


 誰かの号令が聞こえて、俺たちは早足で移動を始めた。

 俺は掴んだ手を絶対に離さないようにしながら、周囲に視線を巡らせる。群衆の真ん中を見れば、ごく普通の家族連れや、さっき話した宿の女将さんなどの姿も見える。

 その中央部に向けて、空から影が滑ってきた瞬間、号令が轟く。


「グレムリンだ! 射撃できる者は撃ち落とせ!」


 俺たちと並走しながらクローディアが引き金を引く。砂が空から落ちて来る。人の流れが早くなる。走る椅子亭までの距離は、決して遠くないはずなのに、やけに距離があるように感じる。


「……魔物」


 ロステル氏が抑揚のない声と共に、ふと空を緩慢な動作で見上げる。グレムリンを視界に入れている。胸元のブローチが、マントの内側で妖しく燃えている。俺は、彼の手を強く握る。


「ダメだよ、今は」

「……」


 彼が出れば、一気にこちらが優勢になるかもしれない。だが、先ほどのオークと聞き耳を立てた時のことで、俺には気がかりことができていた。彼がどこからともなく撃った炸裂弾は、ミッドの盾がなければ俺たちにも被害を与えていたはずだ。

 おそらく、彼は魔物以外が判別できない。下手をすると、認識すらしていないかもしれない。手を繋いでいる、俺のことさえも。

 だが、俺がしっかり手を握ると、彼は再び視線を元に戻して、覚束ない足取りながら俺の後ろをついてきてくれる。今は彼が突如暴れ出さないことを、信じるしかない。

 森の奥から重量ある足音が迫ってくる。俺がそちらを見ると、黄色く光る双眸がこちらを見ていることに気づく。俺たちのところへ一直線に、恐るべき速度で走ってくる。


「走れ! オークだ!」


 誰かが指示を出して、人の流れは一気に激流になった。走ってきたオークに向けて、矢が、弾丸が、レーザーが飛び、様々な輝きを持つ魔術が放たれる。集中攻撃を浴びたオークが、たちまちのうちに砂になる。だが、背後からは新たなオークがすでに発生している。

 ロステル氏を引っ張って、俺は走る椅子亭に向けて走り出す。オークの出てきた方向とは逆の方向に、わずかに進路を傾ける。今のロステル氏の走る速度では、まっすぐ走ったところで人込みに押し流され、転んでしまう。グレムリンが俺たちに近づいてくる。俺はとっさにペンライトを向けて、追い払う。

 俺はオークの無慈悲な手が、一人の夜駆を捕まえるのを遠目に見た。悲痛な叫び声が響いた。その犠牲者がどうなるかまで、見る勇気はなかった。


「ドウツキ、そのまま走ってください!」


 ミッドの声が後方から聞こえる。つまづきそうになりながら、俺はグレムリンの爪や尻尾を、ペンライトで必死に追い払う。頭上をミッドの紫電がかすめ、砂が爆ぜる。だが砂を隠れ蓑に、尻尾が鞭のように伸びてくる。それが腕に直撃した衝撃で、ペンライトが落ちる。


「……ッ!」


 尻尾を振り払い、俺はポーチから二個目の信号弾を出す。そのまま紐をくわえて、腕を引く。眩い閃光があたりを照らし、グレムリンたちの距離は一気に遠のく。からっぽになった筒を飛び回る影に投げつけて、夢中で走る。走り続ける。

 そして、俺とロステル氏は、群衆からやや遅れて、やっと魔物避けの範囲に入ったようだった。グレムリンたちがぴたりと動きを止めて、森の方へ飛んでいく。

 俺たちが到着した直後に、ミッドとクローディアが駆け込んだ。二人とも、俺と同じように、排熱のために荒い呼吸の仕草をしている。


「ナイス、ドウツキちゃん」

「は、歯が折れるかと思った……」


 俺の回答に、クローディアが気の抜けたような笑いを浮かべて、俺の落としたペンライトを渡してくれた。結わえた髪がくしゃくしゃだ。ミッドも後ろで本を閉じて平然とした顔で立っているが、息が上がっているし、砂まみれだ。


「みーくん、すごい砂。あとでクリーニングできるといいね……」

「まったくです」


 ミッドは袖についた砂を払っている。心なしか不機嫌そうに見えるのは、決して間違いではないだろう。黒い礼服に砂の汚れはとても目立つ。

 周囲では無事逃げおおせた人たちが安堵に抱き合ったり、誘導を終えた夜駆たちが汗を拭ったりしている。あるいは誰かが死んだのか、打ちひしがれるグループもいる。

 俺はロステル氏の方を向く。彼も彼でほんの少し息が上がっているようだったが、俺たちほどではないらしい。


「こういうの、慣れてるんだな……」


 俺の声は届かない。届いたとして、彼はきっと答えない。でも、それでよかった。さっきよりほんの少し熱くなった手が、彼がきちんと生きているということを俺に知らせてくれているのだから。


「……ドウツキ、クローディア」

「ん、どうしたんだ?」

「なぁに、みーくん?」


 やっと安心感に浸る俺に、ミッドが声を掛けてくる。危機を突破して、砂を払ってなお、彼の表情は晴れない。急に彼は発声ではなく、通信に切り替えて俺たちに問いかける。


「すみませんが、二人とも。先ほど号令を掛けた者が誰か、見ましたか?」


 クローディアが腕を組む。俺もいつもの思案の仕草をする。残念ながら、俺の方は記憶にない。


「ごめん、見てない」

「あたしも見てないなあ……」


 安全地帯に散らばっていく様々な人を見回しながら、ミッドは最終的に手元の書に視線を落とした。


「もう一つ。少し前、佇むテーブル亭で、『次はここかもしれない』と言った者を目視できましたか?」

「あの静かな中で目立っても良かったのに、そういえば見てないね」

「俺も……」

「実は私も見ていないのです」


 なんだか形にならない薄気味悪さが、俺たちの足元を這い回っている気がし始める。クローディアの表情が、真剣みを帯びる。


「みーくん、ひょっとして、この騒動を誘導してる人がいるって思ってる?」

 

 ミッドは、周囲の目を確認してから、静かに頷いた。そして彼は本を小脇に抱え、トランクを持ち直し、歩き出す。


(魔物に襲われれば危ないのは分かっているのに……どうして?)


 俺がまさかと流したことを、ミッドは疑っているらしかった。俺はロステル氏をちらと見る。彼は何も応えない。


 時は真夜中。朝日はまだ、水平線の下に眠っている。

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