雨上がりには銅の月4
俺たちは顔を見合わせて、イデアーレが去った帰り道を歩いていく。あたりは静寂に満ちている。スニーカーと革靴の足音だけがしている。
街に入る直前に俺が空を見上げると、月食で銅の色に染まっていた月は、銀の輝きを取り戻し始めていた。
「なあ、ミッド。あの月を銅の色だって言ったのは、やっぱりトールなのか?」
「ええ。電気がよく通りそうだとジョークを交えて」
このまま無言で歩くことがなんだか聴覚センサーを痛めそうな気がして、俺はミッドに問いかけた。彼は頷いて、俺と同じように空を仰ぐ。
街の中に入ると、再び金属フレームと硝子が空を遮った。遠くをあの恐ろしいグレムリンが飛んでいるが、街は俺たちを守ってくれている。少しずつ、見えない傷を刻みながら。それは俺たちの頭の中にある銀河のありようと、何も変わらないように思えた。
「ミッドは魔法を使って何ともないのか?」
「書物を媒介に自分のエネルギーを射出しているので、疲労はします。でも、問題ありません」
俺が横に視線をやると、ミッドは書物を小脇に抱えながら、自分の黒髪を軽くつまんでいた。
「ドウツキは、私たちの髪が黒い理由を知っていますか?」
「いや、知らない。何でだ?」
「光でエネルギーを得ているのです」
俺はもう一度、空を見上げる。銀に戻りつつある月の周りに、いっぱいの星空が広がっている。
「あの星の海からでも、私たちは力を得られるのですよ」
「何だかロマンチックだな」
俺がそう言うと、ミッドは俺の方を見て、やれやれとばかりに肩をすくめる。
「だからといって、一人で月光浴は危険です。次からは行き先を教えてください」
「分かってる」
苦笑いする俺を見て、ミッドは片手の指でくいと唇の端を持ち上げた。それが、彼のほんとうの笑い方らしかった。
「あー、みっちゃんが久々に笑ってる」
そこに後ろから声が掛かった。俺たちは一緒になって振り返る。大きく手を振るビジネススーツの男の顔は、相変わらず人懐こそうな笑みを見せている。
「おかえり、ドウツキ君」
「ただいま、クラク」
「来るのが遅いですよ」
ミッドは相変わらず彼には手厳しい。「ごめーん」とへらへら笑いながら、クラクは俺たちの帰り道に参加する。みっつの影が、石畳に並ぶ。
しばらく俺たちは夜の空気を切って歩いていた。最初に話を切り出したのは、俺だ。
「クラクは俺がニューロマンサーだったってことは、知ってたのか?」
「躯体のことは知ってたけど、中身については確証が持てなかった。君とニューロ君は、同じ躯体なのに顔がまるで違うんだもの。でも、友達を見間違わないかって聞かれた時、君はもう君なんだなって思ったよ」
「俺はもう俺なんだって、教えてくれればよかったのに」
「自分で気づいて貰わなきゃ意味はないんだよ。どんな口説き文句もね」
クラクは暢気に両手を頭の後ろの方にやって歩いている。俺が不満げに通信を送ると、彼は片目を閉じながら人差し指を自分の顔の前で振る。俺はその動作がなんとなく気に食わなくて、眉を寄せ、唇を尖らせる。だがそのうち、クラクはその動作をやめて、深く長い息をつく。
「……同時に、ニューロ君はもう僕らの思い出の中にしかいないんだなって思えた。あの問いがなかったら、今も僕はちょっと期待していたと思う。友達が生き返るかもって」
「確かにアンドロイドは修理されて、死の淵から蘇ることがあります。でも、やはり、死んだものは蘇りません。特に回路に宿るものが死んでしまったものは」
ゆっくりとミッドが首を横に振る。俺は自分の両手を見る。右手と左手で見た目の違うこの手は、やっぱりちぐはぐだ。
(ニューロマンサーの方が良かったかって聞くのはさすがに意地悪だよなあ)
この言葉をクラクに突き付けるのはあまりに辛いと、俺は思うだけに留める。その代わり、俺は視線をミッドの方に向ける。
「ああ、そうだ。ミッド、俺にドウツキって名前をつけたのは、ニューロマンサーの状態が良くないって分かっていたからなのか?」
「いいえ。前も言った通り、私はあなたという人格プログラムを知りません。便宜上不便であるので、という理由も本当です。ただ、あなたのデータの中にトールに類似したものが混じっていることは感じ取れました」
俺に視線を返して、ミッドは淡々と語る。
「私はあなたが、あなたを定義するのを待っていました。あなたはNeuromancerにもなれたし、もしかしたらトールにもなれたかもしれません。ですが、あなたはどちらも選ばなかった。あなたは二人の性質を受け継いだ、まったく新しい存在になることを選んだ」
「なんかそう言われるとすごいことに聞こえるけど、俺は……」
大したことはしていない、と言おうとしたが、思い返せばいろいろ大変だったような気がして、遠慮するのはやめにした。
「いや、だいぶ頑張ったな……」
「うん、ドウツキ君は頑張ったよ。本当……」
「はい、よく頑張りました」
クラクが俺の背中をぽんぽんと叩き、ミッドは深く頷く。思ったよりも真面目に褒められて、俺はなんだか恥ずかしくなる。人工皮膚が残っている頬を掻いて、視線をうろつかせる。それを二人は心なしか微笑ましく見てくるのだ。
俺たちは大通りを曲がって、小道に入る。室外機の騒々しいこの道をまっすぐ行けば、ミッドの家はもうすぐそこだ。「あなたを守りたい」とメッセージが込められたエンゼルランプが咲いた庭が見えてくる。
「みっちゃんは、これからどうするんだい?」
庭に入って、ふと、クラクがそんなことを聞いた。ミッドは彼の方を見て、迷いなく告げる。
「やることを終えたら、街を出ようと思います」
「そっか。また寂しくなるね」
そしてクラクもそれを止めることをしない。きっと何度も、今までこうしたやり取りをしてきたのだろう。
「ドウツキ君はどうするんだい?」
そして当たり前のように、クラクは振り返って俺に問いかける。ミッドも俺を見ている。俺は庭の入り口で立ち止まる。
「俺? 俺は……」