プロローグ:あるアンドロイドの再起動
次のニュースです。消息はいまだ知れぬままです。
研究都市の大停電騒動から、三十日が経過しようとしています。混乱を避けるため、調査団は真相が判明するまでは情報を伏せる意向を表明していますが、これに対し鉄塔図書館は早期の解決を望んでいるとの表明を出しています。
初めて聞いたニュース音声は灰色のノイズにざらついていた。意識が暗闇から浮かび上がってくる。霞んでいた木製の天井と灯りが、徐々にかたちをなしていく。嗅覚にほのかに甘く香るものを感じる。知っている。香木の、サンダルウッドを炙った匂いだ。
(あの人の、好きな匂いがする)
誰かがこの香りを好きだと言っていた気がするが、名前のところがあいまいにぼやけている。かろうじて保たれていた意識が混線する。すべてが雑音を帯びて、今までの来歴を曇らせていく。
一瞬の回路の空白の後、今度こそ、『俺』の焦点が合う。
(『俺』は、誰だ? ここはどこだろう?)
身を起こし、掛けられた薄手の布団をそっと押しのけ、俺は髪をかき上げる。頭が重く、落っこちそうな気がしてくる。
手を動かすと、乾いた泥のついたワイシャツの袖が見えた。ボロボロになったスラックスを、布団の上で引きずるようにして、俺は脚を床へと向けた。床には真新しい花紺のスニーカーが一足、置いてあって、真っ白な靴紐が丁寧に結ばれていた。けれど、俺はこのスニーカーに覚えがない。
顔を上げて部屋を見回すと、近くの机の上に置いてある着替えに気が付いた。襟にステッチのついた黒いカッターシャツと、厚地の濃紺のボトム、それと白い靴下とアンダー一式。そして、そんな真新しい衣服の側に、書き置きが一つ。
『そのままでは不便でしょうから、この衣服はご自由にどうぞ』
俺はずるずるとベッドと出て、書き置きの文字を調べた。とても丁寧な文字で記された書き置きを見て、俺は首を捻り、ひとまずはと鏡を探す。外へ出るドアの近くに、姿見があった。今、俺はどんな姿をしているのだろう。急に生まれる焦りと共に、俺は、その真ん前に映るよう飛び出した。
見えた姿に俺は思わず息を呑んだ。
顔の人工皮膚の右半分が焼けたアンドロイドが立っていた。乾いた泥まみれのワイシャツ、ボロボロのスラックスをまとって、目を見開いている。その右眼は本来の茶色の瞳の左眼と違い、緑の瞳の黒い眼球に付け替えられている。見覚えのない銀の四角い装置がかかとの後ろにあって、漠然と、これだけは俺のものでないという感覚が生まれる。
俺は。そう、俺は人間ではない。俺は人間のように造られた人型機械だ。確か、首の右側に識別番号がある。それを確かめたら、少しは思い出すだろうか。
だが、調べようとした識別番号の記された右側の首は、ほとんどの人工皮膚が焼けて確かめることもできなかった。あとは、右耳を覆う灰色の通信端末と、焦げた細身のアンテナがあるだけだ。
(どういうことだ? 俺は、どうしてこんな風になってるんだ? そもそも、俺は。そうだよ、俺は確か)
自分のちぐはぐな姿を見て思い出す断片があった。
脚部からの焼け焦げた匂い。ノイズだらけの視界。俺を遠巻きに見るいくつもの黒い影。崩れてゆくデータ群。そして、雨の音と切れる意識。そんな小さなデータが俺の回路を駆け巡って、消えていく。
(俺は壊れたはずだ。死んだ、はずなんだ)
負荷に耐えかねた頭部の痛覚センサーがずきんと悲鳴を上げる。いきさつは分からなくとも、自分が機能停止をしたことだけは、俺も明確に思い出せた。だがアンドロイドの死は、修理して撤回されることもある。となれば、これは誰かが修理をして、俺を蘇らせたということになる。
俺は隣の部屋に繋がっているだろう、ドアの方を見た。ニュースの音声はそちらから聞こえてくる。扉の向こうに、蘇らせた誰かがいるのだろうか。
もう一度、俺は鏡に映る自分のみすぼらしいかっこうを見た。服もぼろぼろとくれば、黒髪も跳ねている。ネクタイだってどこにいったか分からない。仮にここから出て行くとして、こんな姿では満足に出歩くことは難しいだろう。俺は再び、着替えに視線を向ける。
漠然と、俺は俺のことを知らなければならない気がした。その気持ちだけが俺を突き動かして、静かな個室を出ようという決意をさせた。
着替えて真鍮のドアノブを捻り、鍵の掛かっていないドアを開く。部屋を隔てるものが何もなくなると、サンダルウッドの香りはより強くなる。ニュースの音声も、より明瞭に聞こえてくるようになった。先ほどの部屋と同じく、木造の家屋だ。古い窓枠には百合と蝶をあしらったステンドグラスがはめ込まれていて、部屋の一角を七色に染めている。
ほのかなオレンジを帯びた天井の灯りを頼りに、本の積まれた部屋を見回すと、俺は黒い礼服をまとった人影を一つ見つけることができた。短い黒い髪が、ランプの灯りを照り返して橙に輝いている。右耳を覆う丸い灰色の通信端末と、欠けたアンテナのかたちに見覚えがある。俺のアンテナと同じものだ。
(アンテナが似てる。もしかして、俺の仲間かな?)
それは疑問形ながら、ほぼ確信だった。彼の首元に識別番号が見えないのが気がかりだったけれど、今は誰でもいいから、俺がどうなっているのか知っているなら聞きたかった。
彼は安楽椅子に腰かけて、小型端末から聞こえるニュースに耳を傾けているようだった。
あんたが俺を起こしたのか。
俺は意を決して声を掛けた。掛けたはずだった。
音が喉から出てこない。思わず喉に手を当てる。声が、声帯パーツが壊れている。大声を張り上げようとしても、口からは何も出てこない。戸惑う俺に、影は小型端末を止めて振り返る。
「おはようございます。躯体の調子はいかがですか?」
初めて聞いたその声は、抑揚のない若い男の声だった。見た目はアンテナを除けば、人間とほとんど遜色がない。が、人工皮膚の経年劣化か、そのようにデザインされたのか。眠たげで生気のない青い瞳の下には、隈ができていた。
整った顔の彼はやつれた目で、俺を爪先から頭の先まで見ると、小さく頷きの動作を一つした。そして、喋れない俺に、短いコードのついた青く透明な直方体の装置を差し出した。ゆるりとした動作が、ほのかに育ちの良さや、制作者の礼儀正しさを伺わせる。
「申し訳ありません、声帯パーツだけは代替品が手に入らなかったので。代わりに通信デバイスをどうぞ。それを付けて、もう一度、私に声を掛けてみてください」
見慣れない端末を付けるということには抵抗感があったものの、他に解決策があるのかと言われればない。俺は少しためらってから、右耳の接続端末にそれを装着した。通電した時特有の、ちくりとした痛みが走る。なんとなく、アンテナに感覚が通る。どうすればいいかは身体が覚えている。目の前の相手に向けて、ただ『伝える』意思を持てばいい。
「聞こえるか?」
「ええ、聞こえます」
俺は自分の通信音声を、成人男性を思わせるはっきりとした声として認識した。目の前の彼の声と比較すると、少し低いぐらいだ。もう一度、俺は彼に質問を投げかける。
「あんたが、俺を起こしたのか?」
「ええ。家の前で行き倒れていた同型機を、放っておくこともできませんでしたので。パーツの修理だけ行いましたが、不具合はありませんか?」
どうやら俺は彼の家の前で倒れていたらしい。実際にどこをどうやって歩いてここにたどり着いたのか、俺も見当がつかなかった。彼に言われるまま、手の動作を確かめたり、かかとを見るように身体を動かしてみたりしたが、異常はない。
「大丈夫だと思う。ありがとう。あんた、名前は?」
俺は直してくれた彼に、頭を下げ、ついでに彼の名前を訊ねた。すると、彼は淡々と答える。
「略称ですが、私のことはMidとお呼びください」
Mid。中間を意味したり、古い音楽ファイルを意味するものであったり、俺はミッドの意味をいろいろと考えた。するとミッドはこちらを見たまま、問い返してくる。
「あなたは、自分の名前が思い出せますか?」
「俺? 俺は……わからない」
じり、と回路にノイズが入った。歯車がかみ合わないような気持ち悪さがこみ上げる。名前はもちろん、識別番号や型番も思い出せない。痛みに俺は顔をしかめて、首を横に振る。
「あんたは、俺の名前を知っているのか? どうして、俺が倒れていたのかを知ってる?」
「いいえ。あなたについて伝えられることは、ひどい損傷だったことだけです」
ほんの少し、間があったように感じられたけれど、ミッドは同型機だという俺の名を知らないと言った。彼は死んだような目をさまよわせて、言葉を探すようにしながら、小さく唸る。
「そうですね。便宜上名前がないと不便です」
やがて、彼は普通の硝子が張られた窓を見た。俺も窓の方を見る。外は明るく、耳を澄ませれば人の活気を思わせる、いろんな音が聞こえてきた。
「明日は月食です。せっかくですから、今の内に外がどういうところか見て来てはどうですか、ドウツキ」
「ドウツキ?」
「月食の月は銅の色をしている――そうおっしゃった方が、かつていらっしゃったので」
俺に割り当てられたのは、少し不思議な響きの名前だった。なるほど、銅の月でドウツキというわけだ。
「お嫌ですか」
「いや、いいと思う。その名前、使わせて貰おうかな」
本当の名前が見つかるまでの話だ。軽い気持ちで俺はその名前を受け取って、外に繋がるドアの方を見た。
「ミッドは外に行かないのか?」
「私は片付けねばならない業務がありますので」
相変わらずそっけない返事だったが、彼には彼の仕事があるのだろう。俺は頷いて、ドアの方へと歩いて行く。その間に、ミッドは足元に置いた古いトランクから紙の束を取り出し、ペンで何かを記し始める。
「ああ、そうだ。ドウツキ」
「ん、何?」
「昼は構いませんが、夜に街の外を出歩かないように。どうか、それだけ約束してください」
「わかった」と一つ返事をして、俺は玄関の真鍮のドアノブをひねった。木製のドアを押すと、ほんの少し錆の混じる空気の匂いと、光が差し込んだ。
朝を迎えた青い空は、泡一つない強化硝子と金属フレームで覆われていた。
:登場人物:
ドウツキ 本作の主人公。記憶の無いアンドロイド。右目と右半分の人工皮膚を失っている。
ミッド ドウツキを助けたと思しき同型機のアンドロイド。くたびれながらも上品な所作。
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初めまして。なろうでは初めて小説を投稿します。
こうした方がいいなと思ったものは気が付き次第、修正を行おうと思っています。
お気に召しましたら、ごゆるりとお過ごしください。どうぞよろしくお願いします。