雨上がりには銅の月1
街の北の入り口から開発区へと抜けて、俺が最初に見たのは空だった。何にも遮られぬ星空があった。徐々に月がその気配を潜めていくにつれて、星々はその輝きを一段と増しているように見えた。次に見えたのは森と、足元に時折灯る幻想的な光の玉だ。まるで星が落ちてきたようだ。光が七色に変わり、爪先を照らす。
俺は一歩一歩進むごとに変わる景色を確かめながら、石畳からただの砂と草の大地へと踏み出した。歩くごとに、草についた雨粒が跳ねた。
「ドウツキ、こっちよ! もう月食は始まっちゃっているわ!」
目的の人物は、開発区に入ったすぐのところで待っていた。手を振って、イデアーレは俺を歓迎する。だが彼女は途中ではっとして、人差し指を立てる。
「騒ぐとグレムリンに見つかっちゃうから、静かにね」
彼女が指を差す向こうに、羽の生えた子どもほどの大きさの影がいくつも見えた。昨日の夜、硝子の向こうに見た影だ。俺は思わず息を呑む。あれが群がって俺やイデアーレをばらばらにすることを想像して、軽く身震いする。
「あんなにいるのか」
「仕方ないわ。外はまだ解析しきれていないことでいっぱいなんだもの。さあ、こっちよ、急ぎましょ」
イデアーレは半ば強引に俺の手を引っ張ると、ある一点に向けて歩き出した。俺はよろけながら、彼女の想像以上の膂力に驚いた。彼女は人間の少女とは明らかに違うのだということを改めて痛感した。そして俺が、人間よりちょっと力があるぐらいでしかない、アンドロイドであるということも。
「イデアーレはグレムリンが怖くないのか?」
「怖くないわ。だって見えているもの。わたし、目はとっても性能がいいのよ」
俺は解体の恐怖に憶することのない彼女にこそ、初めて怖さを感じた。弱る月光にはっきりと輪郭を帯びない重機や機械類の影が、俺たちの足元に絡みついてくるような気さえしてくる。たまに浮いては消える――おそらくは魔法的なものであろう――柔らかな光球だけが、俺の心を照らしている。警備ドローンの音は遠くで聞こえるのだが、近くからは聞こえてこない。
「ここ!」
しばらく俺を引っ張った後、イデアーレは建造中の建物の側で立ち止まった。その建物の先には、ただひたすら草原があった。ここが、街の果てだ。
「見て、ドウツキ。星がどんどん輝いていくわ」
俺はもう一度、空を見上げる。月はすっかりその光を失って、鈍い銅の色で浮かんでいる。澄んだ空気に星々は白や金に輝き、地表の輝きを飲み込む勢いだ。死んだ二人が届かなかった世界が、俺の前に広がっている。それが少なからず俺の回路を震わせる。二の腕に巻いたネクタイに、思わず触れてしまう。
イデアーレも興奮気味に、空を見ている。その瞳も、満天の星を反射して輝いている。
「ドウツキ、わたしは街の空が好きじゃないわ。だってフレームも硝子も壊れそうなほど傷だらけで、街が老いていくのを感じるのだもの。でも、ここなら綺麗に見えるわ」
「イデアーレは本当に夜空が好きなんだな」
「ええ。見渡す限りの星空が好き。わたしたちの祖先が来た、星の海が好きよ」
俺から手を離して、彼女はくるりと回り、ほんの少し建物の影から離れる。彼女の半身がほんの少しだけ、俺の視界から外れる。俺は目を閉じる。回路の中の勇気をかき集める。風の音に紛れて、かすかに金属の擦れる音がする。
「じゃあ、その好きなものだけ見つめていればよかったんだ。俺たちの頭の中にある小さな銀河なんて欲しがらずに」
風がうなりを上げる。イデアーレの動く音が風にかき消される。俺はゆっくり身体ごと、そちらへ向いて、彼女を見据える。
「そうじゃないのか、イデアーレ」
「何のことかしら」
彼女はにっこり笑っていた。俺を励ましてくれた愛らしい彼女の仕草は、今やすっかり未知の存在ゆえの恐怖となっていた。俺はたじろぎそうになる足を踏ん張る。まるで彼女から風が吹いているようだ。
彼女が後ろ手に持った斧が、俺からも認識できる。そう、消火器と共に設置されている、防災用の斧だ。人を助けるためにあるはずの、斧だ。
「俺とぶつかった時、硝子の板を落としたよな。あれ、本当はイデアーレのものじゃなかったんだろう」
「どうしてそう思うの?」
「あれは俺たちの記憶装置に使われる、石英硝子のパーツだったんじゃないかって」
イデアーレは手を後ろに回したまま、にこにこと笑っている。送る通信が緊張で震えそうだ。
「答えてくれ。イデアーレは昨日、夜に何をしてた?」
「星を見ていたわ」
「図書館の『先生』と一緒に?」
「そうね。昨日もこうやって、一緒に星を見たわ」
「その先生に入っていた星空を、今も持っているんじゃないか?」
「……」
彼女は未だ揺るがない。頬に片手の指を当てて、いっそ優美に微笑んでみせる。風に揺れるプラチナの髪が、生きているかのようにざわめいている。縞猫のポーチのにやつきだって、今は不気味に見える。
「……ほんとうのことを話してくれないか」
そう言うことで精いっぱいだった。俺は今のイデアーレのことは恐ろしいが、もちろん尊敬や友情だって持っている。斧を見た今でさえ、俺自身の物騒な想像が外れて欲しいと願っているし、それをイデアーレの口から聞きたくてたまらない。はぐらかす言葉ではなく、違うと、ただいくつかの音を俺に叩きつけてくれればよかった。なのに彼女はそれをしない。なぜか笑みを取り下げないで、ずっとこちらを見ている。
「ねえ、ドウツキ。わたし、あなたの事が好きよ。あなたとどこかで会った気がするの」
そして長いこと間を開けた後、イデアーレから放たれたのは想定外の言葉だった。ぞっとするほど優しく、慈しみに溢れた言葉だ。でも、俺は喜ぶことができない。
「もちろん先生の事も大好きよ。あなたたちに優しくと街が掲げるのも、よく分かるの」
彼女はどこかうっとりとした様子で語り続ける。斧を両手で持って、愛らしく笑い続ける。
「あなたたち人に造られた機械は、脆くて、弱くて、すぐに変質する。守ってあげなければ壊れてしまう、薄い薄い硝子細工だわ。わたし、そんなあなたたちが好きよ」
「イデアーレ……」
俺から出た通信の何と頼りないことか。彼女は斧を持ったまま、こちらに近づいてくる。
「路地裏を探検していたわたしの目の前に、そんな未来の希望を失ったアンドロイドが飛び降りてきた時、ぱっと目の前が弾けたの。地球移民の頭が砕けたビジョンが浮かんだ。きっと人間が言う天啓って、こういうことなのだと思うわ」
「……それが初めて、人の記憶装置を見た時のことか」
もの言いから推測するに、おそらくは最初の犠牲者は偶然遭遇したものなのだろう。地球移民の頭が砕けたビジョンが浮かんだ、という言葉に、俺の中の何かが引っかかりそうで引っかからない。もどかしさで俺は発言が遅れてしまう。
「ええ、足元に転がって来た硝子板を空にかざした時、昼間なのに銀河が見えたの。わたし、あなたたちに夢中になった。うらやましく思った。こんなきれいなもので、あなたたちは作られているんだって。同時に、あなたたちを独り占めしてきた人間が憎らしくなった」
「だから欲しくなった?」
「それもそうだし、自殺するのを見て、余計に守ってあげなきゃだめだって強く思ったわ。初めてお話した時に言ったでしょう、生き残ることは、それだけで素晴らしいことなのだから」
彼女は俺に対し、罪を隠す様子がまるでなかった。すっかり魅入られてしまったとばかりに、目が輝いていた。俺にとっては恐ろしいことであり、悲しいことだった。