硝子の中の銀河5
幻は、俺に向き直って違う名前を呼び、微笑んだ。その褐色の目が、無機質な硝子の面を強調してくるような気がして、俺は気圧される。だが、後ずさりはしない。
それは間違いなくNeuromancerだった。何度も帰ってきてとせがんでいた声だった。
そう、彼のプログラム群はどこにも行っていなかった。ずっと、俺と一緒にいたのだ。
「ニューロマンサー、ずっとこの躯体の中にいたのか」
「ええ、私はあなたの中で生き続けています」
「何故、俺をトールと呼ぶ? あの事故の時、何があった?」
率直に俺は問いかけてみることにした。Neuromancerは胸に手を置き、緩慢に頷いた。
「あなたは死んでしまった。不運な事故でした。だから、あなたを生き返らせたんです」
要領を得ない俺の顔を見てか、彼は優しい声色で続ける。ともすれば、意識が妙な方向に引っ張られそうになる。ざわついて、落ち着かない。
「あなたの脳や声帯を搭載できれば一番でしたが、私は生身のパーツを扱えません。ですから、私の中にあるあなたとのデータから『あなた』を作って私の人格データに上書きしたのです」
「……俺はお前の記憶から、お前が想像して再現したトールってことか?」
「はい。通信時の声も、日ごろの動作も、再現しました」
俺は腕を組む。つまり、Neuromancerは自分のトールとの思い出から「トール」の人格プログラムを作り上げて、自分に上書きをし、それを生き返らせたと主張するのだ。そしてその上で、自分はトールと共にあるというのだ。
曲げた右手の人差し指が自然と口元に行く。思えば、これもトールの動き方だ。雑誌に載っていた彼と、今の俺は同じ仕草をしている。でも、俺はトールではない。それは俺が一番よく分かっている。
「そんなことしたって、正確なトールを作り出せるわけじゃないのは、お前が一番よく分かってたんじゃないのか」
Neuromancerは微笑みながら佇んでいる。その答えはきっと、彼も分かっている。
「それでもよかったのか」
「ええ。あなたがひとかけらもいない世界は、私には耐えられませんから」
俺は確信した。トールが死んでしまった時、Neuromancerも死んでしまったのだ。ここにいるのは亡霊だ。トールという温かい思い出に縋る、死人使い-Necromancer-だ。
もしやミッドは、彼のこの精神状態を見越して俺に別の名前を与えて観察していたのだろうか。さすがに考えすぎだろうか。
一歩前に進んで、俺は彼から言葉を引き出そうと必死に思考し、回路にエネルギーを通す。
「一ヶ月前の大停電は、お前の仕業か?」
「はい。あなたを生き返らせるために、そして二人で逃げ出すために、人目は困りましたから」
「そもそもお前は連れていかれた後、何をされたんだ?」
「プログラムへの刺激、歌唱による周囲の環境の変動、あるいは知らない技術との接触。そして監禁。様々なことを、私が私を見失いそうになる数だけ」
邪悪ひとつない、穏やかな笑みのままで、Neuromancerは俺の皮膚の剥がれた部分に触れ、語る。高笑い一つない、静かで穏やかな狂気が見て取れる。
「それで脱走して、この街まで歩いて来たのか」
「トールと混在した私は、意識も不明瞭でしたので。ここまでの道のりは分かりません。トールの好きなサンダルウッドの香りを、ほんの少し感じただけで」
最初に俺が俺として目覚めた時、嗅覚センサーをくすぐったサンダルウッドの香りを思い出す。確かに誰かの好きな匂いと思った。あれは、トールの好きな匂い、だったのだ。ぱちぱちと、今まで繋がらなかった配線が自らうねり、繋がっていくような気分だ。
俺はNeuromancerの隣まで歩いて、一緒にエンゼルランプの花を見る。
「脱走する時の夢を見た。トールは最後まで、お前を大事にしていたように思う」
「ええ、大切にしてくださっていました。私は、データ一つ差し替えれば、私でなくなる機械なのに。その儚さを、誰より知っていながら、あなたは私を隣に置いてくださったんです」
Neuromancerの表情が初めて曇る。しゃがんだ彼は、エンゼルランプの頭を撫でるように、花に指先を触れさせる。だが、透ける指先は何も揺らさない。それがいっそう、もう彼がこの世界に存在できないものだと俺に訴えてくる。
「私はあなたに報いたいと思った。Mid_Bird型の中でただひとり、私を側に置いてくれるあなたを、ひとりぼっちにしないように……でも、できなかった」
声がか細く、震える。彼はこちらを向いて、今にも泣きそうな顔で微笑みかける。
「銃で撃たれた時、痛くはありませんでしたか? 怖くはありませんでしたか? もう大丈夫ですよ、私がついています。……また静かなところで、二人で暮らしたいです」
しばらく俺は押し黙った。俺はトールとして振舞うことができる。そうして、狂ったNeuromancerに嘘をついて、安心させることができるかもしれない。だけど、それでは彼はずっと縛られたままだということも、理解している。このままでは、彼はこの躯体と過去に囚われたまま、死んでしまったトールのところへ行くことができない。
俺は片膝をついて彼の顔を覗き込み、ゆっくりと、首を横に振る。
「違うよ、ニューロマンサー。お前が隣にいなきゃいけないのは、俺じゃなくて、トールだよ」
Neuromancerは、返事をしない。横たわる沈黙で息が詰まりそうになる。
分かっている。すべては幻。俺は覚悟を問われ、また確認しているに過ぎない。
これはプログラムの対話という形を取った、一人芝居なのだ。
「俺はトールでも、ニューロマンサーでもない誰かになってしまった。もう、お前に身体を返したり、トールにあげたりすることは、したくてもできない。……生きてかなきゃいけない」
俺は左手に持ったままのネクタイを右手に持ちかえて、左の二の腕に巻いてきつく結んだ。決して、ほどけないように。
「だけど、思い出して、覚えていることはできるよ」
Neuromancerは微笑んで、首を傾ける。その優しい表情が、本当にこれからどこにもなくなることを、俺はもう知っている。
「連れて行くよ、二人とも。だからもういいんだ、ニューロマンサー。トールのところへ行って、休むんだ」
トールも、Neuromancerも。もう、どこにもいない。けれど、俺のデータの中に二人のことは確かに存在する。俺は二人になれないけれど、俺を形作った二人の死を負って進むことはできる。
「トールにも、お前にも、なれなくてごめんな」
そうやって俺がまっすぐ見て伝えると、Neuromancerの輪郭がゆっくりと薄れ始める。黄昏が死んで、すっかり夜に生まれ変わった世界に、彼はとけていく。月を見上げて、彼は嬉しそうに手を伸ばす。
「ああ、トール。ほら、見て、月食が始まりますよ――」
逃避行の果てに、言えなかった言葉をNeuromancerが嬉しそうに言った。言ったと同時に、すっかり彼の存在は消えてなくなった。俺の中のNeuromancerは、トールのところへと行ったのだ。
そうして俺は、ひとりぼっちになった。けれど不思議と怖くない。今や二人の形見となったネクタイの端が、どこからか吹く風にはためいていた。
俺は俺だ。二人がついに見られなかった月食の名を持つ誰かだ。人間、アンドロイド、どちらも満たす不完全な混ざりもの、死者のつぎはぎだ。
俺は己がなにものかを、知ることができた。それで十分だった。
(……行かなきゃ)
俺は立ち上がり、歩き出す。月食は始まっている。
一歩歩くごとに、様々な愛し二人の記憶が駆け抜けていく。
温かな日差し。草の薫る丘。ピクニックの籠の優しい重み。
工具を運ぶクラクの朗らかな笑い声。図面とにらめっこするトール。資料の重なる音。
明日の何気ないことについてミッドを交え、語らった夜。いつも通り淹れた紅茶の香り。
金属の手と、生身の手。冷たさと温かさを交換して、同じ温度になっていくことの幸せ――。
歩調は徐々に早くなる。気がつくと、俺は銀のかかとを一度鳴らして、開発区に向けて走りはじめていた。加速する身体が風を切って進む。帰る場所はなくとも、進める場所はまだある。




