硝子の中の銀河4
がらんどうの庭にエンゼルランプの花が咲いている。俺は家に帰ってきたが、庭にミッドの姿はない。
「ただいま……」
ドアノブを捻って、扉を開く。三度目のただいまを出迎えるのはサンダルウッドの香りばかりで、やはり彼の姿はない。地下室かと思ってみたが、木箱の位置も元通りで、気配がない。俺は光の差し込む蝶と百合のステンドグラスを見ながら、ぼろの椅子をずるずる引っ張ってミッドの机の前に置き、座る。安楽椅子は、今は座る気にならなかった。身を委ねてしまえば、イデアーレも呆れるほどの夜遅くまで眠ってしまいそうだったからだ。
(あれ、この箱は……)
俺はまた、あのダイヤル付きの小箱を机の上に見つけた。俺は机に左腕を置き、その上に体重をかけるようにして小箱を覗き込む。そして、ゆっくりとダイヤルを右手の指で回す。小気味良い音がするものだから、ついつい手元に寄せて回してしまう。前に、後ろに。くるくる、かちかち。
(ミッドはどこに行ったんだろう)
指に押されてダイヤルが回る。俺の回路も一緒に回る。
(あれからクラクもどうなったんだろう)
ダイヤルはかみ合いそうでかみ合わない。
(もしも、もしもイデアーレがニューロマンサーの名を借りて、人の記憶装置を抜いているとしたら。俺はどうしたらいいのだろう?)
思考が定まらない。自分の頭から自分を形作るものが失われることを想像して、身震いする。恐ろしい想像が何度も繰り返し姿を変えて再生される。
(いっそ逃げ出してしまおうか? 俺は誰でもないんだろう?)
自分は関係ないと、子どもたちの目も全部なかったことにして逃げてしまうことも俺にはできる。
ダイヤルは回り続ける。
そう、俺は誰でもない。クラクの友達や、ミッドの弟でもない。俺は俺のことを知らない。そうだ、逃げてしまっていいんじゃないか。そうして、そうして、俺を探しに行こう。死にに行くよりよっぽどましだ。見当違いだと分かっていても、そんなことを考えたくなる。回路にじりじりとした痛みを感じる。
分かっている。俺は、誰でもない。今の俺を形作るのは、俺でない別の誰かだ。
(俺は、たくさんの誰かでできている)
この体はそもそもニューロマンサーのものだ。
先に死んだ別の躯体が脚を貸してくれている。
どこかで修理屋として生きる誰かが、俺の目を直してくれたらしいじゃないか。
クラクの事情を好きなサンドイッチと共に聞いたろう。
ミッドは、俺をニューロマンサーと呼ばなかった。
トールの熱く語る姿を書物越しに見ただろう。
疑惑のイデアーレだって、俺を何度も励ましてくれた。
すれ違っただけのガイノイドの先生は、俺を認識して会釈をしてくれた。
そして子どもたちは、俺に頭を下げてくれた。
そんなの、投げ捨てられるわけがない。俺として目覚めた全ての時間を、一緒に捨てることになってしまうから。俺は誰の指示も受けず、そのように思考した。
(ああ、そうか。俺は、もう、ドウツキなのか。他の、誰でもない……)
俺の思考がふと焦点を結んだ。たった二日の誰か。されどその二日のうちに芽生えた、俺という個人がここにいる。ここにいるのだ。
(何も捨てたくないのなら、逃げたくないのなら、俺がそう思うなら――答えは一つきりだ)
俺は口を引き結ぶ。初めて、内側からあふれ出す痛みを受け止める。
(……逃げるもんか)
かちり。その瞬間、ダイヤルから別の音がした。意識がそちらに向く。痛みが驚くほどぴたりと止む。
小箱は開いていた。俺は慎重にその蓋をつまんで押し上げた。滑らかな蝶番からは抵抗ひとつ感じなかった。
俺はその中にあったものを、壊れ物を扱うように拾い上げ、ゆっくり目を見開いた。
(ネクタイだ……俺の……いや、『あいつ』の)
失くした泥だらけのネクタイだった。紺色の生地が、初めて見るのに懐かしい。裏を見れば、金色の刺繍がある。異国のことばが綴られている。正しい発音なんて知らない。でも、知っている。色鮮やかに、俺の中に意味が蘇る。
――はざまを飛ぶ鳥よ、恐れることなかれ!
トールの言葉だ。人と機械の間に立つMid_Bird型全員に贈られる、激励の言葉だ。
俺は祈るように、ネクタイを両手で包んで、額に当てた。俺が思い出せるのは刺繍の言葉の意味だけだった。でも、十分だった。
「……」
どんな顔をしていいか分からない。今の俺が笑っているのか、泣いているのか、よく分からない。回路の温度を温かく感じるのは、負荷のせいばかりではない。
(そうか、そうだな)
外から、しとしとと雨が降る音がする。ドームの内側に雨雲が満ちて、俺の視界を縦のノイズで曇らせる。これは幻だ。俺はネクタイを右手に握りしめたまま、立ち上がる。
(開発区に行く前に、もう一人、話さなきゃいけない人がいる。ずっと、そこにいたんだな)
俺は玄関にゆっくりと歩いていく。そして、ドアノブを捻って扉を開け放つ。サンダルウッドの香りがする追い風が、俺の後ろを通り抜ける。輝く暖かな色のジニアの花びらと共に。
夜と夕暮れの混じる庭には、あの真っ黒な影が立っていた。しかし、俺からの追い風に吹かれてその黒雲が晴れる。
見覚えのある姿だった。
右半分の人工皮膚が破れ、右目は機能していない。脚から時折火花が飛んでいる。そんなぼろぼろの、スーツを身に纏ったアンドロイドが、俺を見ている。初めて見た俺の姿をしたそれが誰か、俺はもう、知っている。
「エンゼルランプ、あなたを守りたい。サンダルウッド、平静と沈静。ジニア、不在の友人を想う――」
俺とそっくりの姿をした幻は、人間が花につけた意味を唱える。男性のものとも女性のものとも判断しがたい声で。
「お帰りなさい、トール」