硝子の中の銀河1
(もう俺はどうしたらいいんだ。いや、落ち着け、落ち着け……)
排熱のために何度も荒い呼吸の仕草を繰り返しながら、俺は鉄塔図書館の入り口の横で立ち止まっていた。体の熱が冷め、呼吸が整うまで、しばらく同じ行為を繰り返す。
熱い。苦しい。雨の音が本物なのか、自分の回路から出ているノイズなのか、今一つ判別がつかない。
(でも……俺の躯体がニューロマンサーのものだっていうなら、ニューロマンサー自身はどこへ行ったんだ?)
落ち着いてくるにつれて、その疑惑はより明確なものとなって俺の頭の中を満たした。
(まさか幽霊の類になって、記憶装置を抜いて回っているだなんてちょっと考えにくいし……。いずれにせよ、躯体を返せるものなら、返してあげた方がいいよな)
俺は自動ドアをくぐって、鉄塔図書館の中に入る。相変わらず親切かつ高圧的なポスターを横目に、磨かれた廊下を歩き、図書館内部へ進む。電子書籍と紙媒体が入り混じる白い広間を見るのが、随分久しぶりのような気がする。そのまま発達期機械知能の書籍エリアに進んで、談話室へまっすぐ向かう。
移動の最中、昨日談話室を元気に飛び出して行った子どもたちを見かけた。彼ら彼女らは、どこか茫然とした様子で並んで座っていた。それはそうだろう。
昨日、お話をしてくれた先生が突然壊れてしまったと知ったら、どうしていいか分からなくなるのではないだろうか。そのうちの一人と目が合ったから、俺は慣れないながらに笑って、小さく胸の前で手を振ってみた。
「ドウツキ」
子どもたちのリアクションを見るより早く、控えめな声で呼びかけられて俺は振り返る。イデアーレだ。彼女は俺に手招きをして、がらんどうの談話室に歩いていく。俺はその後ろをついていく。
俺たちはまた、談話室の片隅で二人きりになった。
俺は彼女がミッドの家から飛び出したことを知っていたから、俺より後に来るとはあまり思っていなかった。だが、それを言い出すと話を盗み聞きしたことがバレてしまう。ちくりとした良心の痛みがあった。
イデアーレが窓の方からくるりと思い悩む俺に向きを変えて、満面の笑みを見せる。
「こんにちは、またひどい顔をしているわ?」
「そう?」
はぐらかすように笑ってみようとしたが、うまくいかずに引きつった表情になっているのがありありと分かった。
「うまくいかないのね。あなたも、わたしも」
彼女は椅子に腰かける。俺も隣の椅子に腰かける。彼女は深いため息の仕草をして、自分の頬に手を当てる。
「ミッドに怒られてしまったわ。あんな冷たい顔、初めて」
「何かあったのか?」
俺が白々しく問いかけると、イデアーレはしょんぼりと肩を落とす。
「みんなの前で歌を歌ってほしかったの。ミッドのクラシックは最高なのよ、電子訛り一つ感じない。人間のような情熱を感じるの。どこまでも凛と届く大砲のよう」
俺からすれば生気のない彼の声からは想像しにくいものだったが、イデアーレの目の奥は生まれたての銀河のように燃えて輝いていた。これ以上の彼についての証明がどこに要るだろう。
「でも、その歌を隠すようになってしまった。評価をちゃんと受け取れなくなったんだわ」
「受け取れなくなったって、どういうことだ?」
イデアーレに問いかけるものの、これは俺の中では結論が出ている質問だ。俺は彼女の意見が聞きたかった。彼女がどうミッドを見ていて、どう感じているのか。そして、俺の結論を聞かせても大丈夫かどうか。俺は知りたかった。
「わからないの。彼は人間に最も近いとされるアンドロイドだわ。そう造られたのだから、人間に近いと褒められることは、受け取るべき賞賛なのよ」
彼女は腕を組んで、少し怒っているように頬を膨らます真似をした。
「なのに彼は賞賛を聞くのが嫌になったって言うの。私は人間じゃありませんなんて言って!」
「うーん、なりたい自分と、褒められる自分が違うって、しんどいんじゃないかな……」
俺は彼女の様子に気圧されながらも、おっかなびっくり通信を送る。イデアーレはきょとんとした顔で、俺の方を見る。
「ほら、イデアーレは人間を知るために、愛される仕草を学んでいるんじゃなかったっけ」
「ええ、その方が人間と接触しやすいから」
「でも仕草に対して、えーと、エプロンドレスが似合うねとか、歯車がいいんだねとか。ちょっとずれた褒められ方したら、対応に困らないか?」
イデアーレは腕を組んだまま、首をゆらゆらと傾ける。俺はどうにか、自分の中にある言葉を、彼女に伝えようと努力する。
「ミッドには多分、造られた部分以外に褒められたいところがあったんじゃないかな。だって思考して学習できるなら、そういう欲求ができたっておかしくないじゃないか」
「学習するうちに、知識を得て、人格のパターンが構築される。その最中に、別の欲求が新たに生まれたってこと?」
「多分そう。好きと、嫌いができた。で、人間って言われるのが嫌いになったってことじゃないかな。イデアーレにはないのか、好きとか嫌いとか」
彼女はしばらく頬に指を当てて、視線を窓の方に向けた。
「あなたたちの事を知るのは好きよ?」
回答に俺はがくっと肩を落とす。どう説明したものかと、俺は両手を陶芸でもしているかのように上下左右に動かす。
「え、えーと、そうじゃなくて、もっとこう、造られた理由と違うとこの……」
「それなら、あるわ!」
理解してくれたようで、彼女は両手をぽんと胸の前で合わせて、俺に眩しい笑みを見せた。相変わらずあんまりにも眩しいものだから、俺は少したじろいでしまう。
「わたし、外の夜空が好き。硝子もフレームも邪魔しない、夜の空が好きよ」
「夜空かあ……」
俺は窓を見る。硝子に遮られた空の向こう側では、雨がまだ降っている。すっかり曇った空を見つめながら、俺は今日の月食について思いを馳せる。
「今日は月食らしいけど、夜までに晴れるかな」
「予報では通り雨だと言っていたわ。夜には晴れるそうよ。ドウツキは月食が楽しみ?」
「どうだろう、楽しみなのかな」
心躍るかと問われると、必ずしもそうではないような気がして首を捻る。ただ、自分の名前がそれに関連していて、どうも俺の過去にも紐づいているらしいから、気になっている。多分、その程度なのだ。
「人間は月食を怖がったり、楽しんだりするものよ。だからきっと、どっちかは備わっていると思うわ」
「そんなもんかな?」
「そんなものよ」
小難く考えすぎる俺の思考の上に、おおざっぱなイデアーレの言葉が覆いかぶさった。俺は彼女のからっとした反応に、思わず笑ってしまった。そういえば昨日も、こんな風に笑ってしまったのだったか。俺はどうにも、彼女からは元気と明るさを貰っているらしかった。
「それで、ドウツキは何がうまく行っていないの?」
「俺? ああ……、えと。イデアーレ。俺の身体って、本当は別の人のものらしいんだ。それでちょっと、迷っちゃって」
「まあ、ということは躯体をリサイクルしたのかしら?」
俺は彼女にミッドとのやり取りと自分の考えを話した。もちろん、対話相手がミッドであることや、この躯体の本来の主がNeuromancerだということは秘匿する。
自分が、自分でない誰かの躯体の中にいるらしい。俺は、本来の身体の持ち主に躯体を返してあげるのが道理だと思っている。でも、その人がどこにいるか分からない。街の中にいることだけは分かっている。そういったことを伝える。
イデアーレは唇に人差し指を当てたまま、天井の方を向く。
「データがないなら、会って確認することは必須ね。ただ、移植手術で、あなたに躯体を譲渡したという可能性も否定できないから、必ずしも、返却することが最善ではない、といったところかしら」
「ああ、そうか。相手が俺に躯体を譲渡した可能性もあるのか……」
俺はまとまらない思考を右に左にと動かしてみたが、明文化できるようなものは浮かんでこなかった。
「でも躯体を返しちゃったら、ドウツキはどこへ行くの?」
不安げなイデアーレの声色が、俺の聴覚センサーに触れる。
「どうだろう。いなくなるのかな?」
「怖いと思わないの?」
「怖くはない、かな。ただ、実感が沸いていないだけかもしれない」
俺が首を傾けると、イデアーレは俺の顔を覗き込んできた。それは微笑んではいたが、無機質な機械の目がいやに目立つ表情だった。俺の内面を、探ろうとするかのような。
「じゃあ、ドウツキ。わたし、あなたがいなくなってしまうかもしれないなら、その前に一緒に見たいものがあるわ」
彼女は向きを変えて、窓を指差す。空は相変わらず泣きっぱなしの曇天だ。
「今日の夜、開発区で一緒に星を見ましょう」
「危ないんじゃないのか?」
「街の入り口近くなら大丈夫よ。秘密の場所を知っているの」
「それなら……」
イデアーレは微笑みながら、唇の前に人差し指を立てた。なんだか悪いことをしているような気がするものの、その提案に心動いたのも事実だった。俺はしばし悩んだ後、頷くことで返事をした。彼女は愛らしい笑顔を取り戻して、両の拳を胸の前で握った。
「やった。それじゃあ、ピクニックシートを用意しなくちゃ!」
彼女は椅子から立ち上がって談話室の入り口まで歩いていくと、手を後ろにしてくるりとこちらを向く。
「きっと最高の夜になるわ! それじゃ、今日の夜、街の北入り口で待ち合わせしましょ」
「分かった。俺から何か準備するものはある?」
「特にないわ。それじゃ、月食が始まる頃、開発区の北入り口で待っているわ。またね、ドウツキ!」
はにかむ彼女の様子が、とても幸せそうなものに見えたから、俺はほっとした。子どもたちにしたのと同じように、控えめに手を振って、俺は足取り軽やかな彼女を見送った。
(月食か。そういえばミッドたちはどうするんだろう)
元気を分けてもらった俺は、しばらくミッドやクラクの事を考えながら窓の外を眺めていたが、談話室から出ることにした。




