不協和音
春とはいえサンサンと照りつける太陽の下、マラソンをすれば汗もかく。
全身から出る汗が体操服に染み込み、素肌にピタリと張り付く。この感覚がどうしようもなく気持ち悪い。特に文化部に所属している身としては慣れないこの感覚に嫌悪感もむき出しになる。
だが、今はそんなことが些細に感じられるほど気になることがある。
―金森 柚子
彼女の存在がどうも気がかりだ。仮にあれが美人局のための演技だとして、なぜ標的を俺にしたのか。
たしかに俺はクラスで目立つ方ではないが、俺より目立たない奴もいる。そっちの奴らをターゲットにした方がいい気もするのだが。
考えても拉致があかないが、どうしても頭から離れない。こんな時は楽しいことを思い浮べよう。
―水野 綾。
幸運にも彼女と朝バッタリ会って、会話までできた。
(可愛かったなぁ。あといい匂いだったし綺麗な声だった。)
「おい、顔ニヤついてんぞ。」
宮夏がジトっとした目を向けてくる。宮夏は陸上部なので俺なんかより断然足が速いが、いつの間にか並んで走っている。恐らく1周分先を走ってきたのだろう。
「もしかして金森のこと満更でもないのか。」
悪い宗教にハマった知り合いを見るような目でこちらを見てくる。失礼な。
たしかに宮夏は可愛い。それに男の理想そのものみたいなプロポーションをしている。
だが、今朝「女神」に洗礼を受けた俺からしたらその程度全く気になる余地などない。
「ちっげーよ。巨乳ホイホイのお前と一緒にするな。」
「なんだよその2パック600円ぐらいで売られてそうな称号。じゃあなんでニヤついてんだよ。」
「なんでもねえよ。」
「おいおい、教えろよ。じゃないとお前が金森にベタ惚れだって言いふらすぞ。」
「さっきまで、何かあったら俺に言えよ、的なこと言ってたくせに…」
宮夏も本気ではないだろが今朝のことを自慢したいという気持ちも無いわけではない。
「実は今朝、登校途中の水野綾と玄関を出たところでバッタリ会ったんだよ。」
何も言わない宮夏。よく分からないが話を続けろということなのだろう。
「しかも一緒に登校しないかって誘われたんだよ。あの水野にだぞ!すごくないか!?」
宮夏のことだから嫉妬で激昂、という反応を期待したのだが、予想とは全く違った。
むしろ可哀想な物を見る目でこちらを見つめる。
(こいつ、信じてないな)
たしかに証拠はない。だが、紛れもなく事実だ。仕方ないので力技で押すしかない。
「ほんとだって信じろよ。」
「金森の件で疲れてるんだよな。しょうがないよ。」
「いや、マジだって。」
「残念ながらそんなはずはないんだよ。」
顔を下に向け、わざとらしく眉間を抑え涙を我慢するジェスチャーをする宮夏。
クエスチョンマークが頭に浮かぶ。信じる信じないの話なら分かるが、「そんなはずはない」と言われると納得いかない。
「どういう意味だよ。」
「水野綾の家はお前の住んでいる家の真逆なんだ。」
………………………………………
「は?」
気がつけば走りを止めていた。
ただ呆然とすること以外できない。何がどうなっているのか頭で整理できないのだ。
色々な思いが頭をめぐる。だが、どれを取ってもプラスのものはない。
混乱、パニック。現状を表すのにこれほど的確なものはないだろう。
本当に大丈夫か、と声をかけてくる宮夏。色々言いたいことはあるが、とりあえず一番の疑問を彼にぶつけることにした。
「なんでお前が水野綾の家を知ってんの。」
「え、いやっ、あの、その。」
俺以上にパニックになる友人。そんな彼を見ていると少し心が落ち着くが…
(じゃあなんで、俺の家の前にいたんだろう…)
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ようやく昼食の時間となった。久しぶりの授業はあまりに退屈すぎて、正直しんどい。
昼食前だというのに眠気が込み上げてあくびが出そうになる。それを必死に我慢し、教科書に目を通すだけの不毛な時間。
それに授業の内容などほとんど覚えてはいなかった。
(数学の勉強なんて将来使わないのに)
そんな勉強のできない中高生の言い訳のようなことを思いながら、授業後もペラペラと教科書に目を通す。
(これはまた勉強しないと)
「相変わらず真面目だね、綾。」
教科書をめくる手を止め、顔を上げると見覚えのあるサイドテールの女の子が覗き込むようにこちらを見ている。
(…名前、なんだったっけ。)
高校時代で一番仲の良かった友人。でも、自分の中では一番仲が良かっただけで、一般的には仲が良い訳ではなかった。
外で遊ぶこともなかったし、学校以外で会う時はテスト前に勉強を教えてあげていただけだったような気がする。
「そうでもないよ。」
「またまた、そんな事言って。 一年の最後のテストも学年2位だったじゃん。」
あー、そういえばそうだったような。あまり覚えていないけど。
だが、こういう時の対応を彼女は心得ている。
「たまたまだよ。」
「謙遜しちゃって。まぁ、そんな綾のおかげで私も平均点以上取れてるんだけどね。」
そういえば聞いて、と目の前の名前も知らない女の子は話を続ける。
本当はこんな女と話したい訳ではない。彼とお話がしたい。今朝のことを思い出すと思わず顔がほころぶ。
(かわいかったなぁ)
「さっき聞いたんだけど、2組の金森ってヤンキーと赤木?って奴が付き合ってるらしいよ。」
ほころんだ顔が崩れ、ピキッ、頭の中で何かが割れた音がした。
あり得ない事態に心がざわつく。
(2組は彼の教室。でもそんな訳はない、絶対に。そう、そんな訳はない。なぜなら私が彼の…)
恐らく彼以外に赤木という人間が他にいるのだろう。そうとしか考えられない。
「赤木って誰だっけ。」
無理やり作った笑顔を顔に貼り付ける。そうでもしないと人に見せられない表情になりそうだ。
「そりゃ目立たない奴だから普通知らないよね。ほら、あの間賀田といっつも一緒にいる、たしか赤木凛だったかな。」
「アハハッ、そう。」
「あ、あや?」
乾きに乾ききった笑いが口から溢れる。目の前の女の子が引いているように見えるが関係ない。
流石に同姓同名の人間がいるとは思えない。ということは…
「ごめんなさい。私、お手洗いに行ってくる。」
ガタッ、と音を立てて椅子から立ち上がる。普段のおしとやかな彼女からは考えられない、という周囲の目を感じるがそんなことは関係ない。
彼の教室である2組はすぐ右隣。とにかく急がなくては。
教室を出て右に曲がる。さっきの女の子が心配したように教室から顔を出して叫ぶ。
「あや〜、トイレ逆だよ!!」