新しい朝が来た
朝7時半。けたたましいアラームの音とともに目を覚ます。
俺 赤木凛 の朝は割と遅い。運動部に入っていないから朝練もないし、15分あれで学校まで着くのだから急ぐ必要もない。8時10分に家を出れば問題なく学校に間に合う。
欠伸をしながら自室のある2階から1階に降りる。ダイニングには2人分の朝食の準備は既にされていた。
父は単身赴任、母は朝早くから仕事、妹は朝練ということもあって朝は一人であることが多い。そのため、普段であれば朝食が2人分あることは滅多にないのだが…
(紅葉はまだ家か…)
―赤木紅葉
中学3年生の俺の妹。陸上部のキャプテン。朝はだいたい朝練で早くに学校に行っているので家にいるのは珍しいのだが…
(寝坊か…)
呼びに行くのもやぶさかではないが、ここ最近はほとんど会話もない。年頃の兄妹なのだから普通といえば普通なのだろうが、なんとなく寂しさはある。
ここはお兄ちゃんの優しさを見せてやろう。
再び妹の部屋のある2階まで足を運び、紅葉の部屋まで行く。部屋の扉には紅葉が幼稚園の頃から掛かっている「くれはのお部屋」と丸文字で書かれたプレートがある。
トントンと扉を軽快にノックするが、返事はない。
「おい、紅葉いるのか。」
すると、扉がほんの少しだけ開きこちらを除く顔がある。
「お、お兄ちゃんなの。」
「最近喋ってないとはいえ、兄の顔をわすれるとは…。」
「いや、なんでもない。私学校行ってくる。」
なんでもないってなんだよ、と言おうとしたが妹は扉から出るとすごい速さで家を飛び出した。
(なんなんだよ…)
まあ、いい。俺も急がないと遅刻する。
朝食を素早く済ませ、制服に着替える。着替えを終えると寝癖を直しに洗面所まで行く。
寝癖直しは普段からやっているのではなく2年生になってから始めた習慣だ。
寝癖を直しながらふと思う。
(そういえば久々にお兄ちゃんって言われた気がする。)
事実、紅葉が最後にお兄ちゃんと読んでくれたのは中学上がる直前まで。最近では、「あれ」とか「それ」とか「おい」が主流だったのに。
反抗期が終わって大人になったのか。
よく分からないがとりあえずそれで納得しておこう。
残りの支度を済ませる頃には時刻は8時10分を少し回っていた。
妹のことで少し遅くはなったが、少し急げば問題はない。いつものように靴を履き、いつものように玄関を出る。
しかし、そこにあるのはいつもの光景ではなかった。
「あれ、おはよう。赤木くん。」
そこには見覚えのある女の子が立っていた。
―水野 綾
1年生の時、男子の中で秘密裏に行われていた「1年生で一番可愛い女の子ランキング」で1位を獲得するほどの風貌を持つ美少女。
黒いロングヘア、艶のある白い肌、全体的に細身なようで出るところは出ている。その様はまさに、「美」そのものである、と宮夏が称賛していた。宮夏にしては的確な表現である。
そんな彼女に俺は今、声をかけられているのだ。いや、1年、2年と違うクラスにもかかわらず名前すら覚えてもらえている。
こんなに朝からテンションが上がることがあるだろうか。
「お、おはよう、水野さん。なんでこんなところにいるの。」
どもってしまうのはこの際だ、しょうがない。むしろどもらない方が失礼だろう。韓国料理を少し残す文化と一緒だ。いや、違うか。
「水野さん、か。」
何故か少し考え込む水野。そんな姿すら実に映える。
「どうかした。」
「ううん、なんでもないよ。通学路にこの道を使っているの。それより同じ通学路なら一緒に学校に行かない?」
なんとも魅力的な提案だ。こんなチャンス二度とはないだろう。だが、一緒に学校に行くということは15分間彼女と一緒に過ごすということだ。正直身がもたない。
未だに女の子と付き合うどころか遊んだことすらない俺をなめるなよ。
「ごめん、俺今日日直なの忘れてたから急がないといけないんだよね。」
それじゃ、とだけ言って走り出す。こんなのはただのハッタリ、ウソ800だ。だが、一緒に登校してつまらないと思われるよりマシだ。
「ふーん、そうなんだ。それじゃあまた今度ね。」
後ろから彼女の綺麗な、そして、何かを見透かしたような声が聞こえてくる。
振り返ることもなく、俺は学校まで走った。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
運動不足のせいか息切れが止まらない。
学校に着いたのは8時20分を少し回ったくらい。校門を少し過ぎたあたりで、両膝に手を置いてゼハァゼハァと呼吸する。春にも関わらず、全身から汗が出て仕方ない。
(見っともないな俺)
しかし、朝の幸運に比べれば些細なこと。「水野綾と一緒に登校」という二度とないチャンスを無駄にしたという気持ちより、水野綾と喋れた嬉しさが優っていた。
未だ息切れが止まらない状態で不意に誰かに背中を叩かれる。
後ろを振り向くとそこには朝練終わりだろうか、体操服姿のショートヘアの小柄な女の子がいた。
可愛い顔立ちをしているのだが、真顔のせいで何を考えているのか読み取れない。
「ん。」
その子はこちらに手を突き出す。その手にはスポーツドリンクが握られていた。
(くれるってことなんだろうか)
あまりに疲労困憊状態の俺を見ていたたまれなくなったのだろう。女の子に気を使われるとは自身への情けなさが加速する。
しかし、善意を無下にするのは好かない。ありがたく女の子からスポーツドリンクを受け取る。
「サンキュ。」
息切れしながらなので短いお礼になった。すぐにペットボトルの蓋を開け喉に流し込む。
(おお、生き返る。やっぱり運動の後はスポーツドリンクだよな。)
「ん。」
再び女の子は手を突き出すが、その手には何も握られておらず掌が天に向いた状態だった。
「え。」
「150円。」
「金とんのかよ。」
「冗談。」
そういうと彼女は後ろをクルッと振り返り走り去っていった。
その顔は終始無表情だったが、振り向きざまにほんの少し笑っていたような気がする。
(いつかお礼しないとな)
残ったスポーツドリンクを一気に飲み干し、教室へと向かうことにした。