悪意により「ただの人」になった元神童~インテリイケメン・シリル視点~
シリルは図書室からの帰り道、甲冑を着たまま全速力で走るアーロンを目撃し思わず噴き出した。決して声には出さなかったが心の中で
『やっぱりバカだ』
と認定していた。二十kg近くもある甲冑。冷静に考えれば脱いでから走る方がよほど早く走れるだろう。勿論、甲冑を脱ぐ時間も考慮してだ。しかし少しして、彼の向かう先にリリィがいることを思い出し、先ほどの考えを打ち消す。
『筋肉バカなことには変わりないが、リリィ様がいるなら仕方ないか』
リリィが記憶を無くしてから少しの間、彼女が婚約者達の部屋を訪れることはなくなった。研究結果を定期的に報告するだけのシリルからするとさほど大きな変化に感じられなかったが、アーロンのように指折り彼女の到来をカウントしている人間にとっては重大事件だったに違いない。
他の婚約者達とは違う。
それがシリルの密かな優越感でもあった。身分は低く、財力もなかったが知識だけは決して彼らに劣らないという自負があった。そしてリリィがそれを誰よりも理解しており、決してシリルを“男”として扱わず“神官”“研究者”として彼の能力を純粋に評価していることがシリルの誇りでもある。
『愛なんて不確かなものに自分の人生を預けるなど、ゾッとする』
そう考えながら、自分の部屋へ続く階段を上がっていると、ガチャーンと派手な音が廊下の先から聞こえてくる。
「落ち着け落ち着け」
と小声でアーロンへエールを送りながらも、普段は仏頂面で冷静沈着な彼が女性一人に慌てているのかと思うと大笑いしたい気分でもあった。その一方で不思議と胸が苦しくなるのを感じた。
シリルの脳裏に数日前、図書室で肩を並べて読書したリリィの姿が浮かぶ。たまたま数回触れただけだが布越しにも線の細い肩の感触がハッキリと伝わってきた。そんな彼女がアーロンに組み敷かれている……そこまで考えてシリルの足はパタリと止まった。
「落ち着け落ち着け」
今度は自分にそう言い聞かせ再び自室へ向かう階段を上がるが、リリィが乱れるところを想像すると胸がさらにザワザワさせられ下半身が熱くなるのも感じた。
「だから嫌なんだ」
自室に入ると抱えていた本を机の上に投げ出すようにして置き、シリルは一直線にベッドに向かい勢いよく飛び込んだ。
「神官長になるんだ。神官長になるんだ」
呪文のように唱えながら、階下で行われているであろう2人の営みを脳裏から追い出そうと必死だった。
シリルが産まれた村は驚く程、何もない村だった。村の多くの住民は牛や馬、羊を飼って生計を立てており、家屋はおまけのようにポツリポツリと点在するだけだ。
そんな村で育ったシリルの幼少期における最大の問題は、本だった。
勿論、自宅に読みあされるだけの本があるわけもなく、学校も兼ねた神殿で本を借りるのだが、普通の小説ならば登下校中に歩きながら読み終えてしまう。かと言って、図書館で本を何冊も貸してもらえるわけもないので、シリルはできるだけ分厚い本を読むようになった。
「また本読みながら歩いてる」
そんなシリルをからかうのは隣の家に住むホリーだった。本を読みながら歩くためフラフラと歩くシリルを、彼女はからかいながらも危険がないように毎日一緒に歩いてくれた。決して美人ではないが、赤毛で愛嬌のある少女にシリルは密かに想いを寄せていた。
王都の神官学校への推薦が決まった時、シリルにとっての唯一の心残りはホリーだった。しかし別れの日が訪れてもホリーに対して気の利いた言葉は言えず、泣きながら
「待っているからね」
と見送る彼女に「うん」と頷くしか出来なかった。
しかしシリルにとって、神官学校での生活はまさに理想郷だった。知識欲は存分に満たされ、本も好きなだけ読める。村では馬鹿にされた知識が評価されるのは何よりも嬉しかった。
故郷で大泣きしていたホリーの姿を思い出す回数は徐々に減っていった。
再びシリルがホリーのことを思い出したのは神官学校卒業後、地元の神殿への就任が決まった時だった。王宮、悪くても王都で働けると思っていたシリルの心を慰めてくれるのは幼なじみの存在しかなかったのだ。
「ホリーは綺麗になっているかなー」
「どんな顔をして喜んでくれるだろう」
王都から出る時には、自分の非凡な才能は国ではなく、あの小さな村で幸せになるために与えられたのだ……とさえ思えてきた。そんな淡い期待は村に到着するや否や打ち砕かれた。
「お隣のホリーちゃんっていたでしょ?去年、結婚したのよー」
噂好きの母親の話を聞きながら、シリルは唖然としていた。
「結婚?」
「そうそう、一人娘だからってね、行商人の男と一緒になってねー」
「ふーん。そうなんだ」
何事もないかのように返事をしていたが、内心は決して穏やかではなかった。神殿だけでなく、大粒の涙を流していた少女にまで裏切られたような気持ちになっていた。